本日(4月20日)の東京新聞「こちら特報部」に、国旗国歌強制の是非を問う記事。

本日(4月20日)の東京新聞「こちら特報部」に、「進んだ愛国心強制」「日の丸・君が代 問われた平成」というタイトルの記事。都教委の「日の丸・君が代」強制と、それへの抵抗の運動と訴訟の記事がメインとなっている。もう一つのテーマが、ILOによる日本政府への国旗国歌強制改善勧告の件。

リードは、以下のとおり。

「日の丸」の掲揚と「君が代」の斉唱が学校教育で規定された1989年の学習指導要領改定から30年。平成の時代は教師らにとって、思想良心の自由に「踏み絵」を迫られた時間でもあった。卒業式などで起立せず、君が代を歌わなかったのは職務命令に反するとして、処分を受けた教師らがその違憲性を訴えた裁判は今春、終結。国際労働機関(ILO)は日本政府に改善を促した。国旗国歌の強制問題は今、どこにあるのか。

「平成の時代は教師らにとって、思想良心の自由に「踏み絵」を迫られた時間でもあった。」という、「平成『踏み絵』時代論」、あるいは「思想良心受難時代論」である。「平成」という期間の区切り方にはなんの必然性もないが、なるほど、符合している。学習指導要領の国旗国歌条項の改定が1989年だった。それまで学校行事での国旗掲揚・国歌斉唱は「望ましい」とされていたに過ぎなかったものが、「国旗を掲揚し国歌を斉唱するよう指導するものとする」と、義務条項に読める文言となった。あれから、ちょうど30年。平成と言われる時代は、愛国心教育が子どもたちに吹き込まれた時代と重なった。

おそらくは、愛国心教育というマインドコントロールの効果に染まった子どもたちが、大量のネトウヨ族に育ち、嫌韓反中本や「日本国紀」などの読者となっているのだろう。自分自身の自立した主体性をもたず、自分の頭でものを考えることなく、国家や民族に強いアイデンティティを感じて、自国・自民族の歴史を美化し、民族差別を当然のこととするその心根。それが、愛国心教育の赫々たる成果だ。

これに抵抗する教員が少数派となり、抑圧の対象となり、権力的な制裁を受けてきたのが、なるほど「平成」という元号に重なる30年の時代だった。日の丸・君が代問題は、時代の空気の象徴である。こと、思想・良心の自由、あるいは教育の自由にとって、受難の時代として振り返るしかない。しかし、単なる受難一方の時代ではない。精一杯の抵抗の時代でもあった。

特報部記事の取材先は、5回の不起立で裁判を闘った田中聡史さん、やはり訴訟の原告だった、渡辺厚子さん。そして、弁護団の私、名古屋大学の愛敬浩二さん、東大の高橋哲哉さんなど。

良心的なメディアに、真面目な姿勢で取りあげていただいたことが、まことにありがたい。

ところで、東京新聞は、3月30日に、「ILO、政府に是正勧告」の記事を出している。これについては、同日に私のブログで紹介しているのでご覧いただきたい。

「ILOが日本政府に、「日の丸・君が代」強制の是正勧告」
http://article9.jp/wordpress/?p=12331

この東京新聞記事を検索すると、この記事に対する賛否の意見を読むことかできる。これが、興味深い。まことに真っ当なILO勧告への賛成意見(「日の丸・君が代」強制反対)と、まことに乱暴で真っ当ならざる反対意見(「日の丸・君が代」強制賛成)との対比が、絵に描いたごとくに明瞭なのだ。

いくつかの典型例をピックアップしてみよう。

侵略戦争のシンボルに拒否感を抱く人の思想・良心の自由は保障されるべきであり、学校という公的な場でこそ尊重が求められる。政府も国旗国歌法の審議で「強制しない」としていた。懲戒処分を背景に強制などもってのほか。(山添拓)

学校現場での「日の丸掲揚・君が代斉唱」の強制(従わない教職員らへの懲戒処分)を巡り、ILOが初めて是正を求める勧告を出したとのこと。侵略戦争・植民地支配のアンセムとして機能した「君が代」の斉唱の強制は、内心の自由の侵害です。歌わない自由を認めるべきです。(明日の自由を守る若手弁護士の会)

「君が代」「日の丸」はただの物ではなく、天皇主権とその下での侵略戦争の歴史を背負っている。だから良心的な教員であるほど、それらに敬意を表することはできないのだ。とにかく国旗掲揚や国歌斉唱を強制する職務命令は、国際的には無効であることが示されたわけだ

これ本当は独立の近代国家である(少なくともそう自称している)我が国の裁判所が言わなきゃいかんことなのよ。ところが我が国の裁判所は正反対のことを言いそういった我が国の現状に対してまたしても海外から至極真っ当な苦言を呈されるという。いつまで続けるのこんなこと。

また、「ILOは反日」と言い出す輩が現れるのだろう。国連も反日、ASEANも反日、世界中反日だらけ。自分の方がおかしいとか思わないのかね。

強制賛成派は、こんな調子だ。

は?日本人じゃないんですか?
国家(ママ)歌いたくないとか、国旗掲揚したくないとか、どこのダダっ子…(笑)
嫌なら教員辞めれば良いだけw
就業規則に従わない社員みないなものですよねw

ふざけるな!教師は国旗掲揚、国歌斉唱は義務です。それが仕事だからです。いやなら、辞めればいいだけです。

↑なに大喜びで報道してんだよ
サヨクミニコミ誌か?
ホントどこの国の新聞なんだ?

「内心の自由」が無定量に認められると面白い世の中になる。「気に入らない客」も「気に入らない上司」も皆、憲法で認められた「内心の自由」で沈黙=無視しておけばオケw  いんじゃない?

えぇ……(困惑)
教員は国家と契約して国民の血税で食ってるやんな、国家に対して従うと宣誓してるワケ
なら、その国家の歌を儀式的な場で歌うというのは、至極当然のことじゃないか?

少し誤解があるようだから、一言。訴訟での教員側の主張は、国旗・国歌(日の丸・君が代)強制は受け入れがたいとしているだけ。けっして、思想・良心の自由の外部的な表出行為について、無制限な自由を主張しているわけではない。教員の職務との関係で、思想・良心にもとづく行動にも当然に限界がある。

たとえば、仮に教員が天地創造説を信じていたとしても、教室では科学的な定説として進化論を教えなければならない。記紀神話の信仰者も、神話を史実として教えてはならない。その場面では、教員の思想・良心の自由という憲法価値が、子どもの真理を学ぶべき権利に席を譲るからだ。

しかし、国家と個人の関係に関わる問題についてはそうではない。優れて価値観に関わる問題として、国旗・国歌(日の丸・君が代)強制に対する態度には、科学や学問とは異なり、何が正しいかを決めることはできない。この局面では、教員は自らの思想・良心にしたがった行動をとればよく、子どもたちの教育のためとして、思想・良心を枉げる必要はない。

進化論を否定する子どもや、アマテラスの存在を史実だと信じる子どもを育ててはならない。国旗・国歌の強制を認める子どもを育てるべきか、国旗・国歌の強制を認めない子どもとなるよう教育すべきかは、一律に教育も教育行政も決することはできない。その分野では、教員は自分の信念に従ってよいのだ。
(2019年4月20日)

初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2019.4.20より許可を得て転載

http://article9.jp/wordpress/?p=12463

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/

〔opinion8585:190421〕