日銀の政策転換
9月21日に実施された「日銀の政策変更」には、大きな注意が必要だと感じているが、その理由としては、「イールドカーブ・コントロール」と「オーバーシュート型コミットメント」の内容に、ある種の「秘密」が隠されているものと感じられるからである。つまり、「今後、新たな局面に移行するための、巧妙な抜け道が隠されている可能性」のことだが、実際には、昨年の「9月30日」に、「財務省」が作成した「戦後の我が国財政の変遷と今後の課題」というレポートのとおりに、金融政策が転換された可能性があるようにも思われるのである。
より具体的には、「インフレにより、国家債務を減少させる方法」のことだが、実際の方法としては、「名目上のGDPを増加させながら、国家債務比率を相対的に減少させる方法」のことである。つまり、「昭和19年度」においては、「名目GDPが約745億円」に対して、「債務残高が、2倍以上の約1520億円」という状況だったが、「昭和25年度」では、「名目GDPが約3.9兆円」にまで増えたのに対し、「債務残高は約5540億円」という数字に留まったのである。
その結果として、「GDPに対する債務残高の比率」は、「昭和19年度の204%」が、「昭和25年度の14%」にまで減少したのだが、このことは、「現預金を、実質的な紙切れ状態にすることにより、表面上の国家債務を大幅に減少させた」という状況だったのである。そして、今回も、同様の手段が講じられるようにも思われるが、実際には、「マネタリーベースの増加」に関して、今までのような「当座預金残高の積み上げ」ではなく、今後は、「紙幣の大増刷」によって行われるものと想定されるのである。
つまり、黒田総裁が約束した「2%以上のインフレ」というのは、結果として、「3%や4%、あるいは、それ以上の数字」になるものと思われるが、問題は、「この時に、国債市場がマヒ状態に陥る可能性」とも考えられるのである。別の言葉では、「国債の発行が難しくなり、日本全体が、紙幣の増発に頼らざるを得なくなる状況」のことだが、今回の「日銀の政策変更」については、この点が危惧される段階に入ったものと感じられるのである。
しかも、今回は、「日本」だけではなく、「世界の先進国」の全てが、似たような状態となっており、また、「ドイツ銀行」などを中心にして、「デリバティブ(金融派生商品)」の問題も明らかになりつつあるのだが、実際には、今までのような「時間稼ぎ」が難しくなっている状況とも言えるようである。(2016.10.5)
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女性リーダーの出現
中国の古典である「書経」に、「雄鶏に替わり、牝鶏が朝を告げるのは、亡国の前兆である」、すなわち、「現在のように、女性が勢力を振るうことは、世の中が乱れる前兆である」という言葉があるが、この点については、私自身も、長年、解釈に頭を悩ましてきた。つまり、明らかな「女性蔑視」の言葉ではないかと考えるとともに、「より深い意味が存在するのではないか?」という点を模索し続けてきたが、現在では、ようやく、納得のいく回答が得られたようにも感じている。
つまり、「文明法則史学」が教える「西洋の時代から東洋の時代へ」、また、私の想定する「市場経済から共同体へ」という変化を考えると、「現在、世界のいろいろなところで、女性リーダーが出現している現象」は、当然の成り行きとも想定されるのである。別の言葉では、「西暦1200年から2000年」は、「西洋の時代」であり、また、「男性優位の、唯物論的な資金の奪い合いの時代」だったようだが、今後の「西暦2000年から2800年」においては、「東洋の時代」、そして、「女性優位の、唯心論的な愛情を分かち合う世界」が予想されるからである。
より具体的には、「市場経済」が、基本的な考えとなった結果として、「西暦1800年頃」から、いわゆる「資本主義社会」が形成され、また、その最後の段階では、「金融の狂気」と言われるような「行き過ぎた金融資本主義の時代」までもが訪れたのである。そして、この時に現れたのが、「マネーの大膨張は、格差社会を形成するとともに、人々の心を蝕(むしば)むのではないか?」という疑問であり、実際に、「異常気象」までも含めて、「地球全体がおかしくなっている可能性」までもが指摘され始めたのである。
その結果として、現在では、「男性優位の西洋の時代」から「女性優位の東洋の時代」に、大きく移行し始めているようにも思われるが、この結果として発生するのが、「既存社会の崩壊現象」とも考えられるのである。別の言葉では、「行き過ぎたマネーの大膨張」が終焉の時を迎える可能性のことだが、昔の人は、このような現象を見て、「亡国の時代である」と理解した可能性もあるようだ。
つまり、「終わりは始まりである」という言葉のとおりに、「新たな時代」が始まるためには、「形骸化した既存社会の崩壊」が必要であり、このことは、「歴史の真実」とも言えるようだが、「慣性の法則」に慣らされた人々にとっては、この点が理解できず、結果として、冒頭の言葉が誕生した可能性もあるようにも感じている。(2016.10.5)
本間宗究のコラムhttp://www.tender-am.com/column.html より許可を得て転載。
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〔opinion6331:161031〕