本間宗究(本間裕)の「ちきゅうブッタ斬り」(184)

著者: 本間宗究(本間裕) ほんまそうきゅう:ほんまゆたか : ポスト資本主研究会会員
タグ: , ,

BISの新たな総支配人

昨年の「12月1日」に、「中央銀行の中央銀行」と呼ばれる「国際決済銀行(BIS)」において、「総支配人」が、「スペイン出身のカルアナ氏」から「メキシコ出身のカルスペンス氏」に交代した。そして、「2月6日」に「ドイツのゲーテ大学」で、たいへん興味深い内容の講演を行われたために、簡単に説明させていただくが、テーマとしては、次の三点でもあった。

① :お金とは何か?

② :健全通貨の構成要因と暗号通貨の役割

③ :中央銀行の役割

そして、結論としては、「クリプトカレンシー(暗号通貨)」に対して、きわめて厳しい意見を述べるとともに、「中央銀行の役割」を絶対視するような内容でもあった。具体的には、「暗号通貨は、表面的には、通貨のように見えるが、実際には、基本的、かつ、教科書的な通貨としての定義を満たしておらず、また、激しい価格変動は、通常の決済手段や価値の保全に関する信頼性を損なうものである」ともコメントされているのである。

また、「結局のところ、『暗号通貨』は、既存の金融システムを巧みに利用しているような状況であり、また、法的にも同様の状況となっている。そして、このことは、明らかに、中央銀行の責任であり、現在も、また、将来的にも、中央銀行が責任を取るべきである」と述べられるとともに、「中央銀行や金融当局者は、特に、次の二点に留意すべきである。一つは、『仮想通貨』と『現実の通貨』との交換性に関して、パラサイト的な関係、すなわち、『一方が、他方に寄生するような状況』を許してはならないということであり、もう一つは、実際の行政において、『同じリスクには、同じ法律を適用すべきである』という原則を順守する点である」とも強調されているのである。

つまり、「中央銀行の権力」について、絶対的な自信を持っているようにも感じられたが、私自身としては、「暗号通貨」に対する否定は、より巨大な「デリバティブ(派生商品)」の否定に繋がるようにも感じられたのである。また、この結果として、「先進各国の国家財政」や「中央銀行の財務状況」に関して、大きな問題を発生させる可能性を危惧した状況でもあったが、この点については、今までに繰り返して申しあげたとおりに、「世界的な国債価格の暴落」が始まった時に、全てが明らかになるものと考えているが、現在は、すでに、危惧が現実になり始めた段階とも考えられるようである。(2018.2.11)

------------------------------------------

勝てば感動、負ければ落胆

「平昌冬季オリンピック」が始まったが、以前から違和感を覚えていることとして、「多くのスポーツ選手が、『人々に感動を与えたい』とコメントしている」という点がある。つまり、「いろいろなスポーツ選手が、血の滲むような努力をして、人間の肉体的限界に挑戦する姿」は、間違いなく、多くの人に感動を与えるものと思われるが、実際には、「メダルを取った選手には感動し、惨敗した選手には落胆や失望感を抱く傾向がある」ようにも感じられるのである。

しかも、この時に、ほとんどの国民は、「映像」という、一種の「仮想現実」、あるいは、「自分の人生にとって、ほとんど影響のない世界」に対して、喜んだり嘆いたりしている状況とも言えるようである。ただし、現在の「マラソンブーム」のように、「多くの人々が、オリンピック選手などに刺激を受け、自分自身の肉体的可能性に挑戦する状況」については、まさに、「感動」という言葉のとおりに、「感じて動く」という結果をもたらしたものと考えている。

このように、「人間は、人間によって磨かれる」という点には、まったく疑問の余地がないようだが、現時点での注目点は、「肉体」という「目に見えるもの」から、「精神」という「目に見えないもの」への変化が起こる可能性である。つまり、「人々が望むものは、時間とともに変化し、常に新たなフロンティアを開拓する傾向」があり、実際には、間もなく、「精神面での限界に挑戦する可能性」が想定されるのである。

別の言葉では、「近代オリンピック」が、すでに、「資金面での問題」に直面していることからも明らかなように、今までは、未曽有の規模での「マネーの大膨張」が存在したために、現在のような「巨額な費用が必要なスポーツの祭典」が可能だったようにも思われるのである。あるいは、「プロのスポーツ選手」が巨額な報酬を貰っていることも、同様の意味を持っているようにも感じている。

しかし、今後は、「西暦400年前後」に終了した「古代オリンピック」と同様に、「資金面での問題」や「さまざまな不正事件」などにより、「オリンピックの開催」が難しくなる状況も考えられるのである。そして、その時から、「人々の興味と関心が、精神面での限界挑戦」に移行するものと考えているが、実際には、このことが、「社会科学」という「人々の意識や行動を研究する学問」であり、「300年ほど前の自然科学」と同様に、今後、飛躍的な発展をする可能性が存在するようにも思われるのである。(2018.2.11)

本間宗究のコラムhttp://www.tender-am.com/column.html より許可を得て転載。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion7473:180312〕