作家の村上春樹がカタルーニャ国際賞の授賞式で行ったあいさつの内容が、『朝日』『毎日』などに共同電で報じられた(6月10日夕刊)。その後『週刊朝日』や『毎日』はそれぞれスピーチの詳報と全文をあらためて伝えていた。
村上は、福島原発事故は日本人が技術を過信し効率を優先してきた結果だと言い、広島と長崎を経験した日本人は「核に対する『ノー』を叫び続けるべきだった」と述べて、反核・反原発の姿勢をはっきりさせたものだった。これまでこの種の問題で立場を明確にしてこなかった村上の、反省と決意を語っているように受け取れた。
これが報じられたその日、写真家の藤原新也が自身のブログに「村上春樹の空論」と題する文章を載せた。藤原は村上の演説には「空しさがあふれていた」と書き、村上の認識が「世界に名だたる作家の言葉かと耳を疑う」と酷評した。
藤原新也の批判
藤原は、村上が原発事故の現場を訪ねもしないでこうした発言をしたことに反発しているようだ。翌日の書き込みでは、読者からの感想に釈明する形で、村上の議論は「加工された二次情報」に基づくもので、「リアリティのない空疎なものに感じられた」と指摘した。そして「何かを伝える表現者たるもの、言葉のリアリティを取得するためには現場の空気を一回でも吸う必要がある」と綴っていた。
筆者は、村上の発言にそれほどの反発も違和感も覚えなかった。むしろ村上の言葉は、これまで原発推進を支持しないまでも、強力に反原発の立場にコミットすることを避けてきた(おそらく)多くの日本人が今回の事態を前にして胸に刻んだ「反省と決意」を代弁しているのではないか、と思ったほどだ。
現場を実際に体験してからものを言え、という藤原の思いもわからなくはない。しかし、すべての「表現者」に現場を訪れることを求めるのは無理というものだろう。作家には作家の役割がある。原発事故の被災現場を体験しなくても、作家には彼らなりのメッセージを発する機会を認めていいのではないか。「いやしくも表現者たるもの、地獄の片鱗にでも触れて語るべきだ」という藤原の思いはともかく、(いまの状況は)「文学している場合ではないのだ」とまで言い切ると、少し言葉が走りすぎているような気がする。
しかしこの村上批判が当たっているかどうかはさておき、藤原の言葉にはメディアの報道のありように関わる問題提起があるように思われる。
乏しい福島の現場取材
藤原の言う「表現者」は作家だけに限らない。ジャーナリストも、その総体としてのメディアも当然「表現者」に含まれる。ニュース報道に携わるものはまず現場に赴くことが取材の基本であることは言うまでもない。その基本が、福島原発事故の報道では守られているだろうか。藤原の指摘で思い当った問題点の一つはそれだ。
東日本大震災から3カ月余が経ち、地震・津波の被災地からはさまざまなメディアによる報告が読者、視聴者の元に届けられている。しかし福島第一原発の事故については、メディアによる現場からの報告がほとんどなされていない。原発の敷地内の状況はもちろん、それを取り巻く周辺地域からも、ごく一部の例外的な事例を除いて、メディアによる独自の報道は行われていない。藤原の言う「現場の空気を一回でも吸う」ことをしないまま、メディアは状況を遠巻きに見守っている、というのが現状だ。
4月半ば以前はそれでも、フリーの記者らが散発的に原発周辺の現地で取材をしていた。が、原発から半径20キロ圏内の「警戒区域」への立ち入りが禁止された4月22日以降、フリーの記者らの取材も難しくなっているという。
5月下旬、フリージャーナリストの綿井健陽、広河隆一らが中心になって、福島原発への取材規制を緩和するよう政府と東京電力に要請する呼びかけが発表された。内容は①原発敷地内での取材の機会②原発作業員らへの取材の機会③「警戒区域」内での取材の機会を、いずれも定期的に認めるよう求めるものだった。呼びかけ人らの意図は、大手メディアとも足並みをそろえて要請を出すことにあったとされているが、その後、政府や東電側から何らかの返事があったとは聞かない。このままでは、メディアの原発報道は「リアリティのない空疎なもの」というそしりを受けることになりかねない。
「本当のことはつかめない」?
藤原の村上批判でもう一つ気になったのは、メディアの報道のような「二次情報では本当のことはつかめないのではないか」という指摘だ。今回の震災・原発事故に関しては「加工された二次情報をもとにそれに触れて書いたりしゃべったりする従来のやり方は通用しない」と、村上の発言を切り捨てている。
「二次情報」がメディアの報道を指すことは言うまでもない。メディアの報道では「本当のことはつかめない」という指摘には、メディアの側から一言なくてはなるまい。藤原の指摘が当たっているとすれば、メディアとしては自分たちの仕事、役割を根本から見直さねばならなくなる。
藤原の指摘が言葉の額面通り、全部当たっているとは思わない。しかし一方で、メディアの報道に全幅の信頼をおけると太鼓判を押せるほど、メディアが確かな仕事をしているとも思えない。ニュース報道がいわばそんな灰色の環境のなかで行われていることを、読者、視聴者も十分に心得ている。報道に携わる者はそうした厳しい現実を心にとめておく必要がある。
原発事故の現場取材をどうするか、これまでのような及び腰の取り組みでいいのかどうか。震災・原発事故被災地の人々の苦しみや怒り、不安や絶望を、メディアの報道は本当に伝えているのかどうか。事故をめぐる事実やデータの公表の遅れを、メディアはどこまで読者、視聴者に説明できたのか。
信頼を守るために
メディアの報道に対する疑念はいつの時代にもあった。しかし今回のような大震災、大事故の報道に際して、報道では「本当のことはつかめない」という見方が読者、視聴者の間に広く共有されるようなことになれば、メディアの信頼性に大きな打撃を受けることは避けられない。
新聞やテレビの報道をどこまで信頼できるか、それを問ういくつかの課題がある。一つは、福島原発周辺の立ち入り制限区域と、原発そのものを対象とする現場取材をどうするかだ。東電と政府の口から間接的に漏れ出てくるだけの情報に依存した事故報道では、被災者の思いに応えられないだけでなく、一般市民の関心を満たすこともできない。
炉心溶融の事実を発生から2カ月以上たって認めるという東電や政府の対応は完全に市民の信頼を失った。しかしそれに劣らず、当局側の対応を厳しく追及することができず、当局の不手際や判断の間違いを十分説明できないメディアの報道に対しても、市民は不信を募らせている。
もう一つ、一連のメディアの報道に市民が不信の目を向けたのは、菅降ろしのドタバタ劇をめぐる政局報道のありようだろう。政治家に対する有権者の不信はこれ以上ないほどはびこっている。しかし不信はメディアの報道にも向けられ始めている。背景にあるのは、報道がお粗末な政治家と同じ視点で行われていることへの不満だ。市民の視点がどこにも反映されているように見えないことへの憤りだ。
報道は伝えるべきニュースを伝えているか、市民の期待に応える役割を果たしているか。メディアに働く人たちはいまあらためて自分たちの仕事の見直しを迫られているように思われる。
初出:新聞通信調査会『メディア展望』7月号(第594号)の「メディア談話室」より許可を得て転載
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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