東チモール VS オーストラリア その1 難民中継センター案とガス田開発

 オーストラリア、選挙前のある発表

 今年2010年8月21日、オーストラリアで総選挙が実施され、労働党政権の継続か、保守連合の政権奪還か……。注目された結果は、労働党の獲得議席数が72、保守連合が73、双方とも下院で過半数(76議席)にとどかず、少数政党や無所属議員への多数派工作をしなければならない展開となった。
 与党である労働党はこの選挙を前にして、6月24日、支持率が低下した当時の党首で首相ケビン=ラッドが退き、ジュリア=ギラード副党首を党首にし、48歳という若い、オーストラリア史上初の女性首相を誕生させ支持率回復を図ったうえで、この総選挙に臨んだ。実際、ギラード新政権の発足直後、労働党の支持率は回復した。
 このような話を聞けば、多くの日本人にとって参院選前の日本の政局を思い起こすであろう。支持率回復をした民主党の新首相・菅直人だったが増税含みの発言をして有権者を失望させ墓穴を掘ってしまった。ジュリア=ギラード新首相からも自ら足をひっぱるような発言が出たのである。その発言とは、オーストラリアに逃れてくるボート難民の中継センターを東チモール(東ティモール、ここでは東チモールと表記)に建設するというものである。発表されたのは、ギラードが首相に就任して2週間もたたない7月6日であった。
 オーストラリアにとって、主にスリランカやアフガニスタンなどからオーストラリアへ逃れてくるボート難民にたいする対策は常に論争を呼ぶ重要度の高い課題である。より良い対策を打ち出すことは選挙対策として有効である。ところがギラード新首相が発表したこの東チモール難民中継センター建設案は強い批判を招いた。
 主な批判を並べるとこうなる。
 1、ギラード政権はこの案を東チモール政府に事前に相談することなく発表した。相談した相手はジョゼ=ラモス=オルタ大統領であった。東チモールでは政策立案の権限があるのは国会であり政府であり、大統領ではない。
 2.白羽の矢にたった東チモールだけでなく、近隣諸国とくにインドネシアとの根回しもお粗末。
 3.したがってこの案はたんなる選挙向けで、外交的に思慮の浅いもの。
 4.保守系のハワード政権時、ナウルに難民センターを設置したが、なぜこれを再利用しようとしないのか、なぜ東チモールに目を向けたのか、明確な答えがない。
 5.東チモールからの強い反発。東チモールの現状を見れば、この案は非現実的すぎる。東チモール国会はこの案を拒絶する決議を採った(7月12日)。

 これらの批判が、労働党が8月21日の選挙で過半数を獲れなかった原因の一つになったかどうかは定かでないが、少なくとも労働党にとって負に作用したことは間違いあるまい。
 保守連合より獲得投票は少なかった労働党であったが、9月7日、多数派工作合戦の末、党外から4人(緑の党から1人、無所属から3人)の支持を得られ76議席を確保し、かろうじて政権を維持できることになった。ということは、ギラード首相は東チモール難民中継センター建設の計画を実現しようと本格的に動き出すのであろうか。
 これを契機に東チモールとオーストラリアの外交関係を、つまり上記にあげた批判「5」を詳しく見てみよう。

 天然ガス田「グレーターサンライズ」をめぐって

 現在、東チモールとオーストラリアの外交関係は、東チモールが東チモール民主共和国として独立して以来(2002年5月20日、5月20日は「独立回復の日」と呼ばれる)、最も冷えきっている状態にある。
 その原因は、チモール海に存在する複数の油田・ガス田のうち「グレーターサンライズ」(Greater Sunrise)と呼ばれるガス田の開発をめぐる交渉である。交渉当事者は東チモール政府とオーストラリアの開発会社「ウッドサイド」(Woodside)。交渉を困難にしているのはガス田からパイプラインをオーストラリア北部の都市ダーウィンへひくか、東チモールへひくか、この綱引きである。ダーウィン側も東チモール側も当然ながら我が土地に、絶大な経済効果をもたらすであろうパイプラインがひかれることを強く望んでいる。とくに東チモールは民族の悲願として一切の妥協を示すつもりがないことを全面に押し出している。
 そうしたなか今年4月29日、ウッドサイド社はパイプラインをどちら側にもひかない計画を発表した。翌4月30日の朝日新聞に、「天然ガス 豪州沖に『船形』拠点」という大見出し、そして
 「国内企業初 大阪ガスが開発へ」「陸上より生産コスト減」という小見出しがついた次のような記事が載った。

 「大阪ガスは29日、同社が参加する豪州沖の天然ガス田開発について、船の形をした液化天然ガス(LNG)生産プラントを洋上に浮かべる新方式の採用で合意したと発表した。実用化した例は世界でもまだなく、日本企業が参加するガス田で新方式の採用は初めて。大阪ガスは今回の決定で2010年代後半の生産開始が見えてきたとしている。
 海底からくみ上げた天然ガスを精製、冷却してLNG化し、貯蔵する船形プラントを豪州北方沖約450キロの『サンライズガス田』の洋上に浮かべる。
 大阪ガスは同ガス田の10%分の権益を00年7月に取得し、開発方式の検討を続けてきたが、開発に参加する英・オランダ系石油大手のロイヤル・ダッチシェルや豪州企業との間で合意した。
 プラントの大きさは全長450メートル、幅70メートルで、LNGタンクは一般的なガスタンカーの約2倍。重量は60万トン。ガスタンカーを横付けしてLNGを運び出す。海底パイプラインで沿岸に運び、陸上でLNGを生産する現在の方式に比べて、数千億円とされるコストが数割安くなる。
 洋上の船形プラントは沖合の資源開発に適し、油田では実用化例があるが、冷却設備などが大型になるLNGプラントでは実用化されていない。沿岸のガス田が徐々に枯渇するなか、波のよる揺れに耐える建設技術の進歩で気象条件の良い海域なら採用が可能になってきているという」

 ここでいう「サンライズガス田」とは、もちろんガス田「グレーターサンライズ」のこと、「豪州北方沖」とはチモール海のこと、「豪州企業」とはウッドサイド社のことである。まことに不思議なことに、この『朝日』の記事には東チモールの存在について何も言及していない。洋上に浮かぶ船形工場の計画について、東チモール政府が反対の意思を即刻示したことも書かれていない。
 パイプラインが東チモールに来ないのであれば、開発を「次の世代に委ねる」という表現を東チモール政府はよく使う。そうかと思えば東チモール政府は、マレーシアや韓国あるいはブラジルなどの企業がガス田開発に興味を示していると、ウッドサイド社との交渉が決裂しても代わりはいくらでもいるという強気の姿勢もちらつかせる。「今回の決定で2010年代後半の生産開始が見えてきた」と本当に大阪ガスが考えているとしたらあまりにもおめでたい話だ。
 ウッドサイド社は東チモールとオーストラリアの合意によれば開発方式にかんして開発会社が経済面などを考慮して決定できると主張すれば、東チモール政府は自国の立場は合意違反にはならないと主張する。東チモール政府には、「グレーターサンライズ」ガス田は自分たちの財産であり、したがって開発パートナーはそのことを尊重しなければならないという認識が根本的にあるのである。
 ウッドサイド社としてはパイプラインには莫大な費用がかかるし、労働力の質の問題や政情不安定の危険性をあげて東チモールへパイプをひくことを嫌がっている。東チモール政府は洋上に浮かぶ工場の実験台になりたくないし、東チモールへパイプラインを繋げるのは中・長期的な観点から両者の利益になる最良の選択だと主張する。
 東チモールのうけた弾圧と抑圧の歴史を慮って、オーストラリア側は東チモールにパイプラインを譲るべきだという意見はオーストラリア国内でも決して少なくはない。緑の党もその立場だ。あるいはまた、ウッドサイド社の交渉態度は東チモールを小国と見下した無礼な態度であったと指摘する知識人もいる。交渉がまとまる・まとまらないは別として、ともかくウッドサイド社はまず東チモール側に謝罪をして交渉のテーブルに座ってもらう努力をするのが筋だという意見さえもある。

 東チモール援助大国・オーストラリア

 東チモールとオーストラリアはチモール海を隔てた隣国同士である。そのチモール海には石油と天然ガスが眠っている。東チモールが永きにわたるポルトガル植民地支配をうけていた時代からその事実は知られていた。
 東チモールは、第二次世界大戦中の日本軍による占領(1942年2月~1945年8月)をうけたあと、ヨーロッパによる植民地支配をうけていた他の諸国と比べて民族解放闘争の進展がやや遅いものの、1974年4月25日、ポルトガル本国で独裁体制が崩壊し始めると、いっきに政治活動が活発になり、本格的な民族解放闘争を開始した。しかしアメリカの後押しをうけた東南アジアの大国で隣国のインドネシアが1975年12月、東チモールに全面侵略、これ以降、カンボジアの惨劇を人口比で上回る犠牲者がでる残虐な軍事支配を約24年間うけることになった。
 もう一つの隣国オーストラリアは1978年、インドネシアによる東チモールの統合を正式に認めた唯一の国となり、1989年、本来ならば東チモール人の財産であるチモール海の天然資源をインドネシアと共同開発する条約を結んだ。この条約にたいし旧宗主国ポルトガルは「東チモールの施政国」として、1991年、国際司法裁判所へオーストラリアを告訴したが、1995年、国際司法裁判所はポルトガルがオーストラリアを相手に起こした訴訟について司法判断ができないという、面白くもおかしくもない判決を下したのであった。
 1999年、オーストラリアは対東チモール政策を転換し、東チモールの帰属問題を国連主導の住民投票で決定することを支持すると、事態は急展開し、同年8月に住民投票が実施され、9月に結果発表、東チモールの独立が決定した。するとインドネシア特殊部隊は東チモール人で構成される民兵を組織し東チモールを騒乱状態に陥れた。これを鎮めるためにオーストラリア軍は多国籍軍の主要国として東チモールに上陸し、東チモール独立のための国連による暫定統治へと道筋をつけた。
 その後、オーストラリアはこれまでインドネシアの侵略を支持してきた歴史を打ち消すかのように東チモールの援助大国となった。かつてインドネシアと共同開発条約を結んだ天然資源の開発を、独立した東チモールと結ぶことに成功した。この10年間でオーストラリア政府が東チモールへつぎ込んだ援助金額は約8億6000万ドルといわれている。

 シャナナ=グズマン首相、予想外の強硬姿勢

 現在、連立政権を担うシャナナ=グズマン首相は世論と教会を味方につけ、「国家開発戦略計画」という題名をつけた政策キャンペーンの地方遊説を精力的にこなし、地方住民との対話集会を重ね、政情安定に努めている。「グレーターサンライズ」のガス田開発問題を ―「ナショナリズムを煽る」といえばやや言い過ぎであるが ― 国民の団結の必要性を訴える材料として実にうまく利用している。
 シャナナ首相は(東チモールでは習慣上、「グズマン首相」ではなく「シャナナ首相」と呼ぶ)、今年の独立記念日でさえも地方を重視し、マヌファヒ地方という地方に滞在していた。そこで5月22日、シャナナ首相はウッドサイド社にチモール海の資源を盗られないように国民は団結しようと訴えた。さらにオーストラリアはインドネシアによる東チモール併合を承認しチモール海の資源開発に乗り出し、インドネシアは自分たちを殺し続けたと悲劇の歴史を引き出し、住民に今一度勇気をだしてウッドサイド社に抵抗しようとも訴えるのであった。
 シャナナは解放闘争の最高指導者だったときでさえ、そして侵略国インドネシアのスハルト大統領にたいしてさえ、言葉の表現としては敵意を剥き出しにはしなかった。1999年の騒乱をへてインドネシア軍が撤退した以降も、自分たちを占領・弾圧した国々(日本を含む)にたいして責任を問いはしなかった。戦争の犠牲者の傷を癒すことより、国際社会との協調を最優先させる政治家シャナナの力量に国民は失望したほどである。
 2006年に勃発した、いわゆる「東チモール危機」(*)という試練をへて、2007年の総選挙によって大統領から政治の実権を握る首相に就任したシャナナは、「危機」で発生した国内難民の問題、そして政治の安定に取り組みつつ、前与党で現在も最大支持率を確保しながらも野党にまわったフレテリンとの対立を隠しはしなくなった。シャナナはともかくみんなと仲良くする協調の人を演出してきたが、このあたりからイメージチェンジをしていった。政治家らしくなってきた。決定的な契機は、2008年2月11日、アルフレド少佐の反乱武装勢力による大統領と首相への同時襲撃事件であった。シャナナ首相は無傷であったが、ラモス=オルタ大統領は重症を負ってオーストラリアに搬送された。国家主権を脅かしたアルフレド少佐の反乱軍を壊滅させるため、シャナナ首相はオーストラリア軍や国連関係者の顔色をうかがうことをしなかった。
 前フレテリン政権のマリ=アルカテリ元首相は、オーストラリアなどの国際社会との協調性を欠くことから「東チモール危機」が起こったのではないとよく推測されている。国外から何らかの介入があったとしても国内の支持があれば政権は持ちこたえるであろうが、マリ=アルカテリは東チモールでは最も嫌われる政治家であったので、あれよあれよという間に独立国家としての社会秩序は壊滅状態となり、辞任を余儀なくされてしまった。国際社会は、今度は聞く耳をもったシャナナ=グズマンが首相になったので喜んだかもしれない。
 ところが実際は国際社会にとってシャナナ首相はアルカテリ首相よりも厄介である。しかもアルカテリ元首相が対立した教会や世論を味方につけているのでたちが悪い。オーストラリアや国際社会は、シャナナ=グズマンの”変身”ぶりに驚きと戸惑いを抱いているにちがいない、「こんなはずじゃなかった」と。
 こうした状況のなか、ギラード首相が東チモールに難民中継センターを建設する案をシャナナ首相にすることなく、権限のないラモス=オルタ大統領だけに声をかけたということは、強硬姿勢をとるシャナナ首相への外交的嫌がらせ、あるいは分断工作かもしれない(ずいぶん幼稚ではあるが)。あるいはそう東チモール側に受けとられるとなると、オーストラリアはガス田開発の交渉をより困難にしてしまったともいえよう。
 難民中継センターの件を組み合わせてガス田開発の交渉にあたるというオーストラリア側の意図もちらほらと見える。しかしこれは、東チモール人にとって、「オーストラリアは、東チモールにガスのパイプラインをひくことはノー、難民のパイプラインをひくことにはイエス」(東チモールの週刊紙『テンポ=セマナル』[2010年7月13日])と受けとられ、東チモールを逆なでするだけである。
 ともかく「グレーターサンライズ」ガス田開発の交渉は暗礁にのりあげたままだ。交渉が2013年までまとまらないと、共同開発条約の破棄が現実味を帯びてくる。オーストラリアはいかにして東チモールとガス田開発を実現しようとしてくるであろうか。
 9月13日、オーストラリアではケビン=ラッド前首相は東チモールに難民中継センターをつくるべきでないとギラード首相と意見が対立しているかもしれないという報道もされている。その東チモール難民中継センター案は今後どのような進展をみせるであろうか……。
 ~「東チモール VS オーストラリア その2 割って入る中国」へ続く~

 (*)2006年4月~6月、軍と警察の内部抗争が表面化すると、若者らの集団同士の抗争が加わり治安が極度に悪化した。さらにアルフレド少佐が率いる兵士・警官混成の反乱軍も登場し、暴力の嵐が首都に吹き荒れた。38人が死亡、1650軒の家が放火や襲撃され、首都住民の約15万が家を追われた。
 なおインドネシア軍が撤退して東チモールが独立するまでの過程と、独立以降、なぜ「危機」に堕ちたか、「危機」からどのように立ち直ろうとしたか、『東チモール 未完の肖像』(青山森人著、2010年5
 月20日、社会評論社、2200円+税)に詳しくまとめたので、一読をお願いしたい。

 青山森人:東チモール観測者。著書に『抵抗の東チモールをゆく』『東チモール 山の妖精とゲリラ』『東チモール 抵抗するは勝利なり』、最新作『東チモール 未完の肖像』(いずれも社会評論社)がある。

 記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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