東京「君が代」裁判・第5次訴訟始まる ー 何が争われているのか

(2021年7月29日)
 本日、東京「君が代」裁判・第5次訴訟の第1回口頭弁論があった。

 石原慎太郎都政時代に発出された、悪名高い「10・23通達」以来18年余にもなる。以来今日までこの通達にもとづいて、都立学校の入学式、卒業式では、全教職員に対して、「国旗に向かって起立し、国歌を斉唱せよ」という、文書による職務命令が発せられる。これに違反すれば懲戒処分が科せられる。

 職場の労働組合は闘わない。「国旗・国歌」ないし「日の丸・君が代」に敬意を表することはできないとする教員たちが、組合の援助なく「予防訴訟」を起こした。処分される前に「起立斉唱の義務のないことの確認」「不起立での処分の差し止め」を求める訴えである。次いで、処分の取消を求めての東京「君が代」裁判が、第1次~第4次訴訟まで取り組まれ、いま第5次訴訟が始まったのだ。

 この間、被告東京都(教育委員会)は、判決の積み重ねによって当初の弾圧プログラムの後退を余儀なくされている。しかし、原告側は当然あってしかるべき最高裁レベルでの違憲判決を得ていない。つまり完勝には至っていない。本来あってはならない教職員の処分の不利益は払拭し得ていない。大いに不満である。

 第5次訴訟の原告は15名。争われる処分件数は26件。そのうち、再処分(減給以上の処分が確定判決で取り消された後に、前処分と同じ不起立を理由としてあらためて戒告処分としたもの)が16件である。

 第5次訴訟の係属部は、民事第36部。かつて予防訴訟1審を担当し、2006年9月21日402名の原告が完全勝訴の判決を得た難波英雄裁判長が在籍していた部である。なんとなく幸先よい感じ。

http://article9.jp/wordpress/?p=9213

 本日の法廷では、原告2人と代理人1人(平松慎二郎・弁護団事務局長)が、計30分弱の意見陳述を行った。その真摯さは、裁判官諸氏の胸に響いたと思う。

 この事件の訴状はほぼ200ページ。その冒頭に、「本件訴訟の意義と概要」という下記の款がある。どのような訴訟か、何が争われているのか、これでお分かりいただけると思う。

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1 本件は毀損された「個人の尊厳」の回復を求める訴えである
(1) 精神的自由の否定が個人の尊厳を毀損している
 本件は原告らに科せられた懲戒処分の取消を求める訴えであるところ,本件各懲戒処分の特質は,各原告の思想・良心・信仰の発露を制裁対象としていることにある。原告らに対する公権力の行使は,原告らの精神的自由を根底的に侵害し,そのこと故に原告らの「個人の尊厳」を毀損している。
 原告らは,いずれも,公権力によって国旗・国歌(日の丸・君が代)に対する敬意表明を強制され,その強制に服しなかったとして懲戒処分という制裁を受けた。しかし,原告らは,日本国憲法下の主権者の一人として,その精神の中核に,「国旗・国歌」ないしは「日の丸・君が代」に対して敬意を表することはできない,あるいは,敬意を表してはならないという確固たる信念を有している。
 国旗・国歌(日の丸・君が代)をめぐっての原告らの国家観,歴史観,憲法観,人権観,宗教観等々は,各原告個人の精神の中核を形成しており,国旗・国歌(日の丸・君が代)に対する敬意表明の強制は,原告らの精神の中核をなす信念に抵触するものとして受け容れがたい。職務命令と,懲戒処分という制裁をもっての強制は,原告らの「個人の尊厳」を毀損するものである。
(2) 国旗・国歌(日の丸・君が代)強制の意味
 国旗・国歌が,国家の象徴である以上,原告らに対する国旗・国歌への敬意表明の強制は,国家と個人とを直接対峙させて,その憲法価値を衡量する場の設定とならざるを得ない。
 国家の象徴と意味付けられた旗と歌とは,被強制者の前には国家として立ち現れる。原告らはいずれも,個人の人権が,価値序列において国家に劣後してはならないとの信念を有しており,国旗・国歌への敬意表明の強制には従うことができない。
 また,国旗・国歌とされている「日の丸・君が代」は,歴史的な旧体制の象徴である以上,原告らに対する「日の丸・君が代」への敬意表明の強制は,戦前の軍国主義,侵略主義,専制支配,人権否定,思想統制,宗教統制への,容認や妥協を求める側面を否定し得ない。
 「日の丸・君が代」は,原告らの前には,日本国憲法が否定した反価値として立ち現れる。原告らはいずれも,日本国憲法の理念をこよなく大切と考える信念に照らして,日の丸・君が代への敬意表明の強制には従うことができない。
 国旗・国歌(日の丸・君が代)に敬意を表明することはできないという,原告らの思想・良心・信仰にもとづく信念と,その発露たる儀式での不起立・不斉唱の行為とは真摯性を介して分かちがたく結びついており,公権力による起立・斉唱の強制も,その強制手段としての懲戒権の行使も原告らの思想・良心・信仰を非情に鞭打ち,その個人の尊厳を毀損するものである。司法が,このような個人の内面への鞭打ちを容認し,これに手を貸すようなことがあってはならない。
(3) 教育者の良心を鞭打ってはならない
 また,本件は教育という営みの本質を問う訴訟でもある。
 原告らは,次代の主権者を育成する教育者としての良心に基づいて,真摯に教育に携わっている。その教育者が教え子に対して自らの思想や良心を語ることなくして,教育という営みは成立し得ない。また,教育者が語る思想や良心を身をもって実践しない限り教育の成果は期待しがたい。『面従腹背』こそが教育者の最も忌むべき背徳である。本件において各原告が,「国旗不起立・国歌不斉唱」というかたちで,その身をもって語った思想・良心は,教員としての矜持において譲ることのできない,「やむにやまれぬ」思想・良心の発露なのである。これを,不行跡や怠慢に基づく懲戒事例と同列に扱うことはけっして許されない。
 国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明の強制によって,教育現場の教員としての良心を鞭打ち,その良心の放棄を強制するようなことがあってはならない。
(4) 原告らに,踏み絵を迫ってはならない
 原告らは,公権力の制裁を覚悟して不起立を貫き内なる良心に従うべきか,あるいは心ならずも保身のために良心を捨て去る痛みを甘受するか,その二律背反の苦汁の選択を迫られることとなった。原告らの人格の尊厳は,この苦汁の選択を迫られる中で傷つけられている。
 原告らの苦悩は,江戸時代初期に幕府の官僚が発明した踏み絵を余儀なくされたキリスト教徒の苦悩と同質のものである。今の世に踏み絵を正当化する理由はあり得ない。キリスト教徒が少数だから,権力の権威を認めず危険だから,という正当化理由は成り立たない。
 思想・良心・信仰の自由の保障とは,まさしく踏み絵を禁止すること,原告らの陥ったジレンマに人を陥れてはならないということにほかならない。個人の尊厳を賭けて,自ら信ずるところにしたがう真摯な選択は許容されなければならない。
 以上のとおり,本件は毀損された原告らの「個人の尊厳」の回復を求める訴えである。その切実な声に,耳を傾けていただきたい。

2 本件は公権力行使の限界を問う訴えである
 憲法訴訟における違憲論は,大別して,原告の憲法上の基本権の侵害を理由とする主張と,公権力に対する憲法上の制限規定違反主張の2方法がある。本件訴えにおいては,前者を違憲論の「主観的アプローチ」とし,後者を「客観的アプローチ」と呼称する。
 この理解は,憲法の全体系を人権保障部門と,人権保障に奉仕すべき統治機構部門とに二分する通説的理解に基づく。原告らが,公権力の行使によって憲法が至高の価値とする人権を侵害されたという構成の違憲主張が主観的アプローチであり,権力機構の一機関がその権限を踰越して無効な権力行使をしたとする違憲主張の構成が客観的アプローチである。
 本件では,憲法19条・20条・23条を根拠に主観的アプローチの違憲論を展開するのみならず,客観的アプローチの違憲主張も展開する。
 その主たるものは,公権力は国民に向かって「国家に敬意を表明せよ」と命令する権限はないということである。「そもそも国政は,国民の厳粛な信託によるものであつて,その権威は国民に由来」するのは自明の事理である。主権者国民から権限を授与された公権力には,自ずから限界がある。国民から授権された公権力が,権力の淵源である主権者国民に対して,公権力の集約点である国家に対して敬意表明を強制することはできない。論理的にパラドックスと言わざるを得ない。
 主権者から権限を授与された公権力も,国民に対する国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明の強制は,授与された権限を踰越するものとしてなしえない。
また,公権力が教育行政としてなしうるものは教育条件の整備であって,教育への不当な支配は禁じられている。教育現場での国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明の強制は,判例法が積み重ねてきた教育に対する不当な支配にほかならない。
 本件は,客観的アプローチにおいて,公権力行使の限界を問う訴えでもある。

3 本件は既に決着のついた問題ではない
 詳細は後述するが,本件は東京都教育委員会が発出した「10・23通達」に基づく,東京都内公立学校での卒業式等の儀式的行事における「国歌斉唱」時の起立斉唱を強制する職務命令違反を理由とする懲戒処分の取消を求める訴えである。同種訴訟の提訴はこれまでもいくつもあり,最高裁判決に至っている事案もある。
 しかし,本件の最高裁判決は,けっして判例として確立したものとはなっていない。何よりも,国旗・国歌(日の丸・君が代)強制に関する最高裁判決の説得力不足が覆いがたいからである。この点において,アメリカ合衆国連邦最高裁判所が1943年に,公権力による国旗に対する忠誠の強制を違憲としたバーネット判決とは対照をなしている。
 本訴状の構成は,違憲違法論を,まず客観的アプローチから論じて,次いで主観的アプローチに至っている。これまでの同種事案に対する判決例は,客観的アプローチには見るべき判断をしていない。また,これまでの最高裁判例が積み上げてきた教育の本質論や教育への公権力不介入の原則についての判断も欠けている。
 さらには,近時の最高裁判決が関心を持ち始めている,国際的な条約や国際機関の日本への勧告等を論拠とする主張についてもこれまでの同種事案についての判決は無視を続けている。本件では,これらの諸点について十分な主張と挙証を尽くすことになる。とりわけ後述の最近ユネスコとILOの合同委員会であるCEARTが日本政府に対して国旗・国歌(日の丸・君が代)の強制を是正するよう発出した勧告を援用しての主張は初めてのものである。
 貴裁判所には,十分に耳を傾けていただきたい。

4 人権保障の国際水準は,国旗・国歌の強制を認めない
(1) 2019年,国際機関から,国歌起立斉唱の強制の是正を求める勧告が出された。
 ILO(国際労働機関)とUNESCO(国際連合教育科学文化機関)は,式典の国歌斉唱時に,職務命令に従って起立斉唱できない教員に懲戒処分を課している日本の現状について是正を求める勧告(以下「CEART勧告」という。)を採択して,公表した。
 CEART勧告は,CEART(ILO/UNESCO教職員勧告適用合同専門家委員会)が,2018年に採択した勧告であるが,翌2019年に,ILOとUNESCOで,それぞれ正式に承認され,公表されるに至ったものである。
 日本における卒業式等における起立斉唱の強制について,国際機関から,是正を求める具体的な勧告が採択されたのは初めてのことである。
(2) CEART勧告は,起立斉唱の強制が,個人の価値観や意見を侵害するおそれがあることを指摘するが,そのことだけで是正勧告を行ったものではない。
勧告は,式典において,教員には,職務を誠実に遂行する義務があるとし,また,式典において国歌斉唱を行うことが,教育的意義を有する可能性をも指摘する。
しかし,強制をすることについては,一線を画す。
 CEART勧告は,愛国的な行為が肯定的なものになるのは,それが自発的に行われた場合であることを指摘し,強制は民主主義とは相容れないことを指摘する。
そして,職務中の教員の義務や,国歌起立斉唱の教育的意義を踏まえても,起立斉唱命令を静かに拒否する「不服従の行為」が,市民的権利として認められることを明らかにした。その上で,日本政府に対し,「不服従の行為」に対する懲戒処分を避けるために,教員団体と対話することなどを求めたのである。
(3) 今回採択されたCEART勧告から,以下のことが導き出せる。
 「人権保障の国際水準,もしくは国際社会が考える民主主義社会のあるべき姿からすれば,職務中の教員が,式典で国歌の起立斉唱を命ずる職務命令を発出されても、それを静かに拒否することは,市民的権利として保障され,その『不服従の行為』に対して懲戒処分を課すことは許されない。」
 本件では,この事実を踏まえ,判断がなされなければならない。

5 貴裁判所の責務
 いうまでもなく,憲法の命じるところに従って行政の非違を糺し,憲法の理念を実現することこそが,司法本来の役割である。司法が公権力の違法な行使を看過し追認することで,結果として人権の侵害に手を貸すようなことがあってはならない。
 原告らは,その司法本来の役割に期待して,毀損された「人間としての尊厳」を回復すべく,本件提訴に及んでいる。この切実な原告らの願いに真摯に向きあった,貴裁判所の審理と判決を望むものである。

初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2021.7.29より許可を得て転載
http://article9.jp/wordpress/?p=17294
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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