教育行政の主体は、各自治体の教育委員会だ。東京都の場合は、下記の5人が構成する東京都教育委員会。実は、これがまったくのお飾りなのだ。当事者意識ゼロ。職責意識ゼロ。憲法感覚ゼロ。報酬を受けていることを恥ずかしいと思わないのだろうか。
中井敬三
遠藤勝裕
山口 香
宮崎 緑
秋山千枝
その諸君に申しあげる。君たちがした間違った懲戒処分を行政訴訟で争って、処分取消の判決確定した教員に対して、真摯に謝罪しなさい。それが最低の社会道徳なのだから。
9月15日に東京地裁民事11部(佐々木宗啓裁判長)で言い渡しがあった東京「君が代」裁判・第4次訴訟判決。その一部が確定し、一部が控訴審に移行した。
地方公務員法上の懲戒処分は、重い方から、《解雇》《停職》《減給》《戒告》の4種がある。今回の原告らは、卒業式や入学式において、国歌斉唱時に起立しなかったことを理由に《停職》《減給》《戒告》の懲戒処分を科せられた教員。14名の原告らが取消を求めた19件の処分の内訳は、以下のとおりである。
《停職6月》 1名 1件
《減給10分の1・6月》 2名 2件
《減給10分の1・1月》 3名 4件
《戒告処分》 9名 12件
計 14名 19件
既報のとおり、判決は減給以上の全処分(6名についての7件)を取り消した。被告都教委は、このうちの1人・2件の減給《10分の1・1月》処分についてだけ判決を不服として控訴したが、その余の5人に対する5件の処分(停職・減給)取消については控訴しなかった。こうして各懲戒処分の取消が確定し、いま、判決確定後の処理が問題となっている。
処分取消の確定判決を得た5人の教員が都教委に求めているものは、なによりもまず真摯な謝罪である。各教育委員は、他人ごとではなく自分の責任問題として受けとめなければならない。間違って過酷な量定の処分をしたことで各教員に大きな精神的負担をかけ、名誉も毀損した、経済的負担も大きい。それだけではない、目に見えない事実上の不利益がいくつもある。このことについて、まずは一言の謝罪があってしかるべきだ。事務処理の協議は謝罪のあとに始まらねばならない。
原告ら教員の抗議を聞き入れずして都教委が強行した各処分が、司法の審査によって取り消され、確定したのだ。東京都も都教委も、このことを恥ずべき重大な汚点と受けとめて、道義的な責任を自覚しなければならない。その自覚のもと、当該の教員らに対して謝罪があってしかるべきではないか。
都教委の処分が、司法によって違法とされたのだ。周知のとおり、司法は行政に大甘である。たいていのことは行政の裁量の範囲内のこととして目をつぶる。その甘い裁判所も、本件については、とても大目に見過ごすことはできないとして、都教委の行為に違法があったと確認されたのだ。
行政が違法すれすれのことをして、司法からの違法の烙印を免れたことをもって安堵しているようでは情けない。戒告処分だって問題なしとはされていないことを肝に銘じるべきなのだ。減給以上の過酷な処分を判決手続によって取り消されたことを恥とし、きちんと反省しなくてはならない。
間違ったことをして人に迷惑をかけたらまずは心から謝らなければならない。これは、社会における最低の道徳ではないか。都教委とは、苟も教育に関わる行政機関である。各教育委員諸君、最低限の道徳の実行に頬被りしようというのか。それは余りに卑怯な態度ではないか。子どもたちに、言い訳できまい。判決確定の効果として、差額賃金分を渋々支払って済ませようというのは、権力の傲慢というほかはない。
一方、原告14名のうち13名が控訴した。高裁・最高裁で、国旗・国歌(日の丸・君が代)強制ないし処分を違憲とする判決を求め、その決意をかためてのことである。
2003年秋に「10・23通達」が発出されたとき、私は、極右の知事のトンデモ通達だととらえた。いずれこんなトンデモ知事さえ交代すれば、こんなバカげた教育行政は元に戻る、そう思い込んでいた。
しかし、石原退任後も石原教育行政は続いた。石原後継を標榜しない舛添知事時代になっても、「10・23通達」体制に変化はなかった。そして、舛添失脚のあと、またまた石原並みの右翼都知事を迎えてしまった。
都民世論の力で、知事を変え、議会を変えて、憲法理念に理解ある教育委員会と教育行政機構を作ることが王道だが、その道は遠い。しばらくは、都政と比べれば、よりマシな司法に期待するしかない。
その司法が、行政の行為を違法としたのだ。あらためて、恥を知りたまえ。お飾りの教育委員諸君。
(2017年10月4日)
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2017.10.04より許可を得て転載
http://article9.jp/wordpress/?p=9284
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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