東北大学の中善並木と反対方向に進むと地下鉄東西線の川内駅へ。中層の白い住宅棟が並ぶ団地(公務員住宅らしい)に突き当たり、右の坂を下りると、宮城県美術館である。 まず、常設展の方から見ることにした。大方、写真撮影はOKのようだった。最初の部屋は、「洲之内徹コレクション」だけの作品であった。洲之内(1913~87)といえば「気まぐれ美術館」なのだが、すでに記憶も遠く、画商の傍ら美術評論家としての発言が思い出される。その経歴をこれまでよく知らなかった。東京美術学校在学中の1932年にプロレタリア運動にかかわったとして検挙、退学している。故郷の松山でも、運動を続け再び検挙され、転向後の1938年、軍の宣撫工作のため中国にわたる。戦後はこの時代に知り合った田村泰次郎が始めた画廊を引き継ぎ、特異な画家たちの発掘や展覧会に尽力した。この部屋の萬鉄五郎(1885~1927)の風景画と中村彝(1987~1924)の自画像が目を引いた。
上段が、洲之内コレクション、萬鉄五郎「春」(1912年)
洲之内コレクションの中村彝「自画像(帽子を被る自画像)」(1909年頃)、「帽子を被る自画像」(1910年)の習作か。
つぎの「日本の近現代美術」の部屋にある萬の自画像も洲之内コレクションだった。この部屋の冒頭が、あの鮭の絵で有名な高橋由一の三点、松島の二点はともかく「宮城県庁門前図」は、馬車の配置、当時の雰囲気がよく伝わる作品に思えた。18 81年は明治天皇の東北行幸があり、宮城県にも立ち寄っている。直接の関係はないかもしれないが、県の依頼により描かれたという。
高橋由一「宮城県庁門前図」(1881年)。江戸時代の学問所養賢堂だったが、1945年7月10日の仙台空襲で焼失した。
つぎのコーナーでは「地下鉄停車場」(1924年)が目を引いたが、清水登之(1887~1945)の作品だった。清水は、若くして渡米、働きながらの修行、画業が長く、都市の人々や光景を描いていたが、件の作品は、フランスに渡ったばかりの1924年制作である。清水といえば、かつて、東京国立近代美術館で見た戦争画の中の一点「工兵隊架橋作業」(1942年)の印象が強い。テーマはまるで異なるのだが、展示会場の他の近辺の画家とは何か別のメッセージ、「生活」や「労働」というものが直に伝わってくるからだろうか。
清水登之「地下鉄停車場」(1924年)。オルレアンの文字も読める。
清水登之「工兵隊架橋作業」(1942年)、マレー半島を進む日本軍が爆破された橋の架け直し工事の様子を描いている。
また、松本峻介(1912~1948)の五点に出会えたのも収穫だった。なかでも大作「画家の像」は、街を背景に、家族を傍らにしっかりと大地に立つ構図は、代表作「立てる像」を思い起こさせる。まだ少年の面差しさえ伺わせる画家の自画像である。
五点のうち、左より、洲之内コレクション松本竣介「白い建物」(1941年頃)・「ニコライ堂」(1941年頃)と「画家の像」
松本竣介「立てる像」(1942年)、『新人画展(カタログ)』(2008年11月22日~2009年1月12日、板橋区立美術館開催)より。
他にパウル・クレー(1879 ~1940 )とカンディンスキー(1886~1944)の展示室も興味深いものがあった。二人はミュンヘンで出会い、ドイツの前衛芸術運動の「青騎士」に参加、ともに、バウハウスで教鞭をとることになる。クレーは1931年にナチス政権によりバウハウスを追われ、移ったデュッセルドルフ大学も解雇され、出身のスイスに避難する。カンディンスキーも、1933年、ナチスによるバウハウス閉校後は、パリへと居を移している。クレーといえば、2002年11月下旬、粉雪が舞い始めたベルンの街をめぐり、市立美術館で、クレーの作品に出会った時を思い出す。現在は、篤志家の支援で、2005年ベルン郊外にオープンしたパウル・クレー・センターに、市立美術館所蔵作品と遺族寄贈の作品およそ4000点が一堂に集められているという。できればもう一度と、かなわない夢を。さらに、カンディンスキーのつぎのような作品もあるのを知っていささか意表を突かれたのである。
併設の佐藤忠良記念館もめぐることに。宮城県大和町出身の彫刻家、佐藤忠良(1912~2011)自身の寄贈により、1990年にオープン。展示は年に何回か入れ替えがあるらしい。今回は、さまざまな「顔」、さまざまな「しぐさ」といったテーマで幾つか部屋に分かれていた。彫刻は、どちらかというと苦手ではあるが、佐藤の作品は、どれも優しく、清潔感のある、わかりやすい作品が多かった。
「さまざまな顔」の部屋には、「群馬の人」のほか、左「母の顔」(1942年)と右「オリエ」(1949年)が並ぶ。オリエは、新劇女優の佐藤オリエの少女期のものである。
さまざまなしぐさの作品が並ぶ。正面が「足なげる女」(1957年)その左右の女性像の作品名は失念。窓の外に見える右が「少年の像」(1981年)、左が「夏」、ほかに、「あぐら」(1978年)などという作品もあった。
「このはづく」(1970年)、こんなフクロウの像が家の部屋にあったらな、とも。
以上、1時間半余り、疲れて館内カフェで、ランチ代わりのお茶をしながら、朝から別行動の連れ合いにメールをすると、なんと企画展「アイヌの美しき手仕事」を見終わったところだという。夫は、ホール近くのベンチでメモをとっていた。仙台駅近くの朝市をめぐってのランチ、仙台戦災・復興記念館をすべて歩きで回ってきたという。記念館では、88歳の空襲体験者からの話を聞きながら見学したということだった。お茶のあと、私は企画展へ、夫は常設展へ向かった。
タルトはイチゴかリンゴか迷ったが、イチゴもなかなかの美味。イチゴといえば、夫が朝市で買ってきた仙台イチゴ「もいっこ」は、ホテルの夕食後、部屋でたっぷり食しもした。カフェでしっかりと休んだ後、私は、企画展会場に入った。下段、カフェから中庭をのぞむ。この美術館は前川国男の設計なのだが、いま、村井宮城県知事から県民会館との統合施設として仙台医療センター跡地に移転する計画が出され、郡仙台市長が市民の意向に反するものと、異議を唱え、大きな問題になっているらしい。秋保のホテルで、知事・市長の協議が始まったとのニュースを見たばかりだった。
初出:「内野光子のブログ」2020.2.8より許可を得て転載
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〔opinion9444:200212〕