Ⅲ 音楽と国家生活
1 山田耕筰――音楽家の戦争責任とは?
2016年1月18日付けの『朝日新聞』は署名入りで「今こそ山田耕筰」と題し、山田が戦中に音文協に入って米英撃滅を叫んで軍歌を書いたのは覚悟の上であり、西洋のクラシック音楽を将来の日本に根づかせんとしたためであったと論評した。彼は音楽挺身隊を組織したのであるが、それは音楽家を戦地に送って死なせないようにするという意味での「反戦」であったと再評価される。私はその面があったことを認めつつも、もう一つ考えるべきことがあると思う。
まず次のことから。戦後直後の1945年12月23日、音楽評論家の山根銀二は『東京新聞』で「赤とんぼ」で知られていた山田を批判した。山田は戦中に楽壇を軍国主義化して敵国アメリカの音楽を不当に非難し、楽壇の自由主義的な人やユダヤ系音楽家を弾圧した「戦犯」であると告発される。山根の批判は山田の戦中の行動をおおむね正しくついていたが、山田は同紙の同じ号で山根を反批判し、自分が音文協に関わったことを次のように正当化するのである。――私は音文協の副会長であったが、ただの置物であり、実際は山根が常務理事として動かしていた。ユダヤ人音楽家に対しては戦争遂行上不便だという政府の要望を受けて彼らと共演しないことを申し合わせたに過ぎない。最近人を戦犯呼ばわりする傾向があるが、戦争責任は戦争を阻止しえなかった日本人全体にあるのだ。今は楽壇は内部で非難するのでなく、この日本を再生することに邁進すべきである。
山田の反批判には、戦争の勝者が戦争犯罪を裁くことに問題はあるとしても、ただのシャッポだったという理由で行動の責任を免れることはできないだろう。その自分をさしおいて「一億総懺悔」を語るのは得手勝手であろう。それにしても彼の戦後の身の処し方は見事なくらい逆転し、アメリカとの文化融和に乗り出している。……ただ後で出すが、山根の行動にも問題はあった。
この戦犯論争は1回限りで終わり、両者の間で問題が深められることはなかった。ただ音楽家の戦争責任の問題は政治次元にとどまらず、その作品と切り離して議論することはできないだろう。最初に山田について。『山田耕筰全集』第2巻(2001年)と自伝『若き日の狂詩曲』(1999年)を参考にする。
山田の活動には日本が西洋音楽を自分のものにしようとした一つの典型がある。彼は1910年にドイツのベルリン高等音楽院に留学する。彼は日本から選ばれて先進国の音楽を学びに行くのだと先駆者意識に燃え、留学中にドイツ歌曲から学んで三木露風の詩「嘆」に歌をつけ、それを「日本最初のリート」と誇った。また「日本最初の交響曲」やオペラ「堕ちたる天女」を作曲したと自画自賛する。そして貪欲に新しいものを次から次へと追う。バッハや古典派は重視されず、まずワグナーに夢中になったと思ったら、次に後期ロマン派のR.シュトラウに関心を移し、さらにその先にあるストラビンスキーや神秘和音のスクリャービンに触れるという具合であった。腰が落ち着かないのである。
彼は留学中に次のことを経験したと述べている。学理は学ぶ事はできるが、それに縛られると自由に作曲することはできない。学理は知った上で忘れることが創作にとって必要なのだが、そのことが一番難しい。また先生から作曲の技法を学んで与えられた課題に沿う曲を作るだけでは物まねである。作品の背後で自ら決死的な生活を体験しないとだめだ……。これは正当な考えである。では彼の作品からどこまでその生の歌を聴くことができるか。
山田は音楽を追求するだけでなく、事務にも長けていた。彼は留学中に日本に楽壇を築こうと考えている。東京の上野に音楽学校はあったが、そこの教授・助教授の定員数は少なく、卒業生は就職先がなく、小中学校の音楽教育に携わるほかなかった。演奏会にしても母校での発表演奏会くらいであった。そこで山田はプロの楽団を作って定期的に演奏会を開こうと計画し、帰国後、その実現に取りかかる。ロシアとの交歓交響楽演奏会を開いたり、日本楽劇協会を作ったりする。この彼の努力もあって日本に楽壇ができ、洋楽が曲がりなりにも根づいていったと言える。
ではこの開拓者・山田は山根から批判されたような行動をしたのか。確かにしている。1937年、支那事変が起きた。山田はそれを国家間の対立の面でしか捉えることができず、政府の宣伝をそのまま受け入れた。曰く、この事変は東洋平和のための聖戦だ。日本は死んだ敵人をも土に埋めて手を合わせるといううるわしい日本精神を中国人に注入するのである、と。これは何とも狭く、中国の反日のナショナリズムに対して無知な発言であった。音楽家だから社会認識は弱いと弁解できることではないだろう。
山田は音楽をもって滅私奉公することを説く。芸術は日中戦争までは自由放任されて流行歌(古賀政男の「酒は涙か溜息か」のようなものか?)などに堕落していたが、今後の芸術は広い大陸に出ていく生活となったから大きなものを生むだろう。山田はそう予測して日独合作の映画『新しき土』に付随音楽を寄せ、皇紀2600年にあたっては祝典芸能祭の委員になって自らも作曲もしていく。また彼は満州国の依頼を受けて満州国歌を作曲する。音楽は絵や小説よりも抽象的であってはっきりした方向性を持たないから、それだけ他民族にも受け入れやすく彼らを統合しやすい。山田はそんなことをも知っていたのである。こうして彼は新体制の楽壇機構である音文協を作り、楽人は自分を捨てて国家精神に基づいて活動すべきだと主張していく。音楽を純粋に追求する個の営みは私利私欲とみなされ、彼はナチの黒シャツ隊をまねて軍需産業につく工場労働者を訪ねては演奏会を開いた。音楽家はそんな形でしか民衆に向かうことはできなかったのである。こんな場合でも愛国行進曲を歌えば演奏家と聴衆の間に一つの音楽共同体ができたのであるが、私はまだそこに音楽を音楽として純粋に生かす闘いのようなものを見つけることはできないでいる。こうして山田は戦争の進展に伴ってファナチックになっていく。
もっと突っこんでみよう。山田は音楽の目的意識性を強調し、決戦下では自然に任せて生まれる音楽でなく、国民の士気を鼓舞する勇壮で快活・明朗な音楽を、そして国体の崇高さを表現して日本人の誇りを自覚させる音楽を作れと煽りたてる。音楽は軍需品だとみなされる。音楽することの意味が変わるのである。それまでは西洋の水準に追いつけとか、生徒が先生を聴き手に練習の成果を演奏したり、限られた知識層を相手に公演会を開いていたが、今度は共に戦っている一般大衆と分かりやすい音楽を共有しようということになる。それに奉公音楽は目の前の戦力増強に貢献する音楽を要求するから、自分の芸術的良心に忠実な音楽は無用もの扱いされる。内なる純粋体験に拠る評論や作曲の営みは無視される。したがって奉公音楽はずさんで低級なものとなる。合唱も勧められたが、それはお互いに他の声を聴きあうことで空を飛ぶ敵機が出す音を物理的に聴き分けることに役立つからであった。こんなことでは合唱を心から「楽しむ」ことはできない。だから奉公音楽は人の内面に浸みこんで自己を高める意味での道徳力とはならなかった。山田は時の勢いが変わればその時代に合う音楽をと転換するようになる。
山田は山根からユダヤ人音楽家を排斥したと非難されたことに対して、ヒットラーはドイツをユダヤ人の支配から解放して新しく生きようとしたのだと反論した。彼はドイツの実情をよく知ればユダヤ人が嫌われるのには理由があると言うのだが、ユダヤ人排斥の実態を知っていたかどうかは疑わしい。日本ではユダヤ系ドイツ人の指揮者ローゼンストックが演奏活動を制限された。1937年に日独伊防共協定が結ばれて日本はナチと提携するが、音楽界の中に次のような考えが出てきた。芸術に国境なしと言うのはユダヤの謀略であり、この大東亜戦争下では危険な考えとなる、文化の国家目的を忘れてはいけない、と。三木淸はこの頃、ドイツにおけるフルトヴェングラーの指揮活動とゲッペルスの政治的要求との対立を知っていた。今日のわれわれはフルトヴェングラーによる批判文書を彼の論文・講演集『音と言葉』(1956年)で読むことができるのだが、私はこの種の全体主義批判が日本の音楽家にあったかについてもまだ不明のままでいる。
さて、山根の山田批判の妥当性は作品でも検討すべきだろう。彼は「連合艦隊行進曲」を作っているが、音はよくはねて軽快であり、曲想は盛りだくさんである。でもそれは前線での兵士の現実生活を背景にしたものでないから、どこか空々しい。兵士が口にした「誰か故郷を思わざる」のように心の奥底に届くようなものではない。彼が平時に作曲した歌曲は日本語の言葉の意味や抑揚を生かしているが、そこにも次のようなことがあった。彼は滝廉太郎の「荒城月」を編曲しており、その方が原曲よりも愛され歌われるのだが、ずいぶん改変されている。最初の「ハルコウロウノ ハナノエン」だけ取りあげてみよう。原曲は4分の4拍子で速度記号はアンダンテ、強弱記号は冒頭にメゾフォルテとあって、最初の章節にクレッシェンド・デクレッシェンドが1回だけある。音符の長さは8分音符。そして「ハナノエン」の「エ」にシャープが付いている。それに対して山田の編作では、同じ4分の4拍子でも4分音符と倍の長さにされ、強弱もピアノで始まり、クレッシェンド・デクレッシェンドが2回に増える。ピアノ伴奏になるとあちこちに指示記号が付けられる。そしてあのシャープ記号が日本にはない音だとして消される。全体として朗々と表情たっぷりである。それと比べると原曲はまったくすっきりと清潔である。以上の比較は楽譜を並べると一目で分かる。今日滝の故郷である大分県竹田市の少年少女合唱団が原曲のままの演奏を受けついでいる。私は山田の編曲を改竄だとみなした海老沢敏に共感したい。
2 山根銀二――見逃された個体的創造性
山田を批判した山根の方はどうか。彼の音文協の活動に考えさせられるものがある。
1941年11月29日に日本音楽文化協会が発会式を迎え、山根は趣意書の発起人の1人として署名している。それによると、音文協の目的はそれまで民間で自由に放任されていた音楽活動を外に対しては「文化日本ノ威望」を欧米の諸列強に示し、内にあっては「皇道翼賛」を教える「健全なる楽曲」を作ろうというものであった。音楽の国家的意義が上から説かれるのである。そのために音文協は国家行事に協力し、演奏会や優秀な作品および演奏への助成、厚生音楽運動の振興等を行なった。会の理事や監事、会長、顧問等をみると、こんな人がと思うようなわれわれが知っている人ばかりである。これはプロレタリア音楽の場合とは別の次元の音楽の政治化である。山根らはどうであったか。後年に彼らはその音文協を使って当時の政治的圧迫――複雑極まる検閲と人権無視の誰何と検束――の中にあっても音楽の内容を高め、西洋のクラシック音楽の灯を消さないようにしたと振り返るのである。この点では朝日新聞の論評はあたっているが、われわれの関心はどのように音楽の質を保とうとしたかに向かわねばならない。
山根は太平洋戦争中の1943年4月に『音楽公論』誌で「国民音楽の理念」と題した座談会を司会している。座談会は音文協において「日本国民としてほんたうに持ちたい音楽」を考えようというものであった。そのためにはただ西洋式のオーケストラを地方にもって行って上から啓蒙するだけではだめだろう。もうこの頃になると、歌謡曲や流行歌(中山晋平のものが代表的)がラジオ放送やレコードによって国民の生活に入っていたが、山根はそれを踏み台にして退廃的でなく健康な歌が、もっと必然的で内的な歌が要求されていると考え、若者に理解されだしている西洋音楽を基礎にして今日の社会情勢にあった国民歌を求めていく。そのモデルとして山田の「からたちの花」や大中寅二作曲の「椰子の実」、「荒城の月」や信時潔の「海ゆかば」があげられる。国民歌なるものは以前の社会状態ではできなかったが、今の戦時体制のもとでできると考えられたのである。ここに体制に入ることで体制に抗するという姿勢を垣間見ることはできよう。
でも山根は山田と同じ平面にもいる。彼は同年12月の『音楽文化』誌で音楽の任務を私利を捨てて戦争遂行に挺身しなければならないと説き、そのために西洋音楽で日本精神を盛った荘重雄渾で健全清純な歌を作るべきだと唱える。そして彼は戦争も末期の1944年5月に同誌に論説を寄せ、音楽家は空襲下における国民を慰撫激励するために忠誠心にあふれたる国歌曲を供給すべき時である、音文協がそれを実行すると書く。ここまでくると、彼らが維持しようとした音楽は国策に応じないとできない客観事情があったとしても、戦後に山根が行なった山田批判は何であったのかと思ってしまう。山根は戦時統制の中に入ってそれを利用しようとしたのだが、ミイラ取りがミイラになることもある。音文協は愛国詩を国民歌に作曲して軍事保護院に献納する。これでは音文協は音楽家の内的衝動からくる創造的な営みを見捨てることにならないか。山根は音楽家が音文協に入らねば音楽から離れる――それは生計の道を閉ざすことにもつながる――ことになるとその活動を正当化するが、他に音楽家が生きる方法はなかったであろうか。
秋山邦晴は後年に山根から戦中での活動について証言を得ているが(『音楽芸術』1976年9,10月号)、それによると、山田は天皇制軍国主義を嫌っていたが、隣組との防空訓練や出征兵士の見送り等を断ることができなかったことに示されるように、その嫌いな感情が生活の中にまで浸み込んでおらず、そのことを作曲する技術力もなかったのである。秋山は山根と違って、創造のなかで「抵抗」した音楽家の作品を発掘することがあった。その例として、松平頼則の歌曲「古今集」や早坂文雄の雅楽に基いた「古代舞曲」等。秋山はそれらが日本的なものを人種を越えて創造的なものにしていく実験であったと評価する。当時は『万葉集』の「相聞歌」は斥けられ、『古今集』は女々しく軟弱だと片づけられていたが、自分の考えを1人であっても押し進めていく作曲家がいたのである。音文協はそういう個体の生き方に目が届いていなかった。
山根は戦後はどう活動したか。彼は『音楽美入門』(1950年)で相変わらず音楽をイデオロギーと関わらせる。イデオロギーの内容は社会進歩と社会主義リアリズム、民主主義と社会主義となるが。彼は自分が戦中に全体主義にカモフラージュであったとしても関わってしまったことに想いを致すことなく、山田とは別であるが、かなりスムーズに戦後に移行していく。
山根は戦後に戦中と矛盾する発言をすることがあった。私はそれをただ突くのでなく、それがどこからきているかを知りたいのである。1952年6月の『音楽芸術』で座談会「音楽と政治」が開かれた。それは戦後民主主義に対する逆行の時であった。彼は講和条約の締結に際して祝典歌が作られたことに抗議する。その作詞者は斉藤茂吉、作曲者は「海ゆかば」の信時潔であった。反対の理由の一つはこうであった。歌は政府が上から与えるのでなく、下から盛り上がってくるべきであり、精神生活に指導が与えられてよいのは政党が国民の日常生活と結びついて文化運動を企画する場合であること。政党が社会の中の政治集団として国家と区別されるのは良いとしても、党=国家の現存社会主義国で音楽家の自発性は抑圧されたことが見逃されている。……21世紀の今日、アイドルが「海ゆかば」を能天気に口にすることがあるが、戦中にそれを言うに言われぬ鎮魂の想いで受け止めた世代はどう思うだろう。
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