東大音感合唱研究会の内田義彦とその問題史的意義(4・終)

著者: 野沢敏治 のざわとしはる : 千葉大学名誉教授
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 Ⅳ 東大音感合唱研究会――明日の糧となる音楽を
 内田は戦後、どう抑えられても伸びんとして根を張る芸術と社会科学を求めて活動していった。前者の1つが東大音感合唱研究会(以下、音感と略す)での活動であり、後者は経済学史の研究であった。両者の違いと関わり――それぞれ他に自己を見る――については拙著で検討しているので、ここではこれまで見てきた日本の音楽活動の流れの中で音感が占める位置を探ってみたい
音感は1946年6月に石本美砂保らの音楽好きが集まるサークルとして始まっ
た。その活動についてはサークルからの各種発行誌や島崎美代子編著『ピアノ・コーラス・幼稚園――母・石本美砂保の世界――』、吉松安弘の紀要論文「ある学生サークルに見る戦後史」(上)――音感合唱研究の軌跡――」を参照されたい。内田はそこでの理論的指導者であり、演奏指揮者であった。サークルの標語は「明るく生き生きした音楽を科学的な方法で」であり、その内容は後で出すとして、研究会の性格を実によく示している。その音楽は近代西洋の調性音楽が中心であったが、よくある俗流文化人のように郷土の祭ばやしや美空ひばりの流行歌を馬鹿にしてヨーロッパのクラシックを第1にするような外面的なものでなかった。それは学生生活をしつつ自己の内部変化と関わらせ、今よりもっと良い明日への生活の源になるような歌を求めたのである。その生活とは何か、実社会で働く労働者や農民でない者が生活に根ざした歌を歌えるのか、それがいつもサークルでのテーマとなる。
 指導者としての内田の方法は科学的で理論的であり、その考えには社会思想史上の自然法的なものがあった。以下にその中身を出してみたい。
 会の標語にあるように内田は科学的方法をとる。科学という言葉は戦中の神話的政治の反動として新鮮に受け止められていたが、ここでは歴史の法則を研究する社会科学の意味とは別に、音楽の歴史の流れや音の自然科学的な研究を意味していた。彼は古典派につながる近世ルネサンスの音楽に遡って、旋律に和音が使われていたことに注目する。それは西洋音楽の1つの特徴であり、伊沢修二も認めていたように、雅楽を除けば日本のものではなかった。
歌と言えば旋律であろう。だが彼はその旋律から練習を始めなかった。洋楽では旋律は和音の上にあるから、その和音を理解しないといけない。その例としてシューベルトの即興曲がピアノで演奏され、右手での旋律と左手での分散和音が全体として和音になることが聴き取られる。この和音には幾つもあって、それぞれ性質が異なる。それが配列されて曲となるのだが、この和音進行はでたらめでなく一つの必然性をもつのである。主和音→下属和音→属和音→主和音というように。また音の強弱もリズムも基本的には和音によって規定されている。内田はそう捉えて日本での洋楽輸入のありかたを反省した。日本ではこの和音的要素は大衆の間になかったから、そこにショパンの旋律を輸入しても浪花節となってしまうと言うのである。生徒は「センリツの持つ表情に身についた自信のある理解が持てず大先生小先生の弾くとほりに小心翼々として真似をする」ことになったのである。この物まねの状態は兼常清佐が『音楽と生活』(1935年)の中で常々指摘していたことであった。そこで内田はまず和音から始める。それも簡単なものから複雑なものへと順を追って。そのようにして曲を和音的に理解すれば「作曲者の意図としている所を自分自身の耳と頭でもって考へ感得する」ことができ、でたらめな解説をしたり先生の言うままに覚えなくてすむようになる。
 さてこの和音は音響学的にみて合理的にできている。内田はそのことを教える。それはすでに前掲の『音楽事始』で伝えられていたことなのだが、彼はそれを学生に講義するのである。和音は高さの違う音の重なりであるが、その重なりには「一定の規則」がある、弦楽器による3和音の場合、弦は振動すれば音が出るが、それを半分にして短くすれば1秒当たりの振動数は2倍と多くなり、音は高くなる。反対に弦を長くして振動数を少なくすれば音は低くなる。この2倍の関係をオクターブと言う。どの楽器も通常は1番振動数の少ない基音の上にその整数倍の倍音がある。ピアノであれば真中のC(ハ長調のド)から2オクターブ下のCを基音とし、その上に2倍・4倍・8倍のCがある。4倍のCと5倍と6倍のところにE(ミ)とG(ソ)がある。実に簡単な数学的関係である。お互いによく耳を澄まして他の音を聴きあうことで正しい音程を取れば美しいハーモニーを作ることができる。……以上の音響理論は今日では中学校の授業や高校のコールユーブンゲンの練習で学ぶだろうが、当時の大学生には初耳のことであった。
 内田の指導は徹底しており、最初の頃はお互いに他の音を聴きあって、CEG(ドミソ)の和音を合わせるだけに何時間もかけていた。いつになったら歌を歌うんだと不平がでるほど。この和音練習は演劇で他人のセリフに注意することで自分の役を作る方法に通じていた。だから新劇の方でも内田等の合唱練習を演劇の基礎練習の一環に取り入れるのであった(小林和樹氏の証言)。この和音練習が同会独特の美しい響きを作っていく。
 内田の練習の仕方は実に良くできていて体系的であった。まず最も基本的な3和音(ドミソ)をやる。それから抽出唱といって、ピアノで出した和音の中から1つの音を聴き分けてそれを声に出してピアノの音とけさせる。次に分割唱といって、ピアノで出す和音に合わせてその音を短く歯切れよく出し、その打鍵後にも残るピアノの音を聞いて合っているかを確かめる。これはリズムの練習にもなる。そして声を出さない時にもピアノの和音を聴いてみる。それで音と音の関係が分かる。こうして各パートがそれぞれ別の音を同時に出して合わせると「のどや口のあたりが同じ様に共鳴するのを感じる」。小さな音やハミングで和音の感じをつかむ場合にはただ聞くだけのつもりで耳に集中する。そうやっていくと、和音の響きが耳に刻み込まれていく。その後で、聴音(音を聞いたら直ちにC、E、G,等と口に出して言ってみる)とカデンツ(旋律を和音の流れに乗せて聴く)の練習が来る。もちろん練習曲が入る。「カッフェー」や今日誰もが歌ったことのある「フレール・ジャック」等の楽しい輪唱、ドナ・ノービス、ドイツ歌曲等。このほかに内田等は他の場所でレコードの聞き比べや曲名のあてっこ遊び、戯曲の読みあわせ、観劇、素人人形劇等、実に贅沢な「楽しみ」の時をもっていた。
 音感は体系的な方法をとったから、一般学生を相手に9回の初等講習会を開いて卒業演奏にベートーヴェンの第9「合唱」を予定した時に、素人の音痴にそれが歌えるのかと訝られたのだが、実際できたのである。もちろんプロのように上手とは言えないが。
 内田が和音を重視することには思想的な理由もあった。戦後間もなくの1948年、雑誌『未来』で音楽をめぐる座談会が開かれた。それは従来の知識人や楽壇が社会から遊離していたことを自分を含めて反省し、その有機的な一環になるような文化を作るために開かれた。それは細くも1つの水脈として今日に至っている。座談会で発言した人々には次のような共通認識があった。今ある西洋の市民音楽は市民社会の初期の頃には民衆の民謡等に根ざしていたが、資本主義の末期になってソヴェトが出てくるようになると、ショスタコヴィッチなどは第1次大戦後のモダニズムに影響を受けて複雑で形式的になっている。古典派の単純さに戻るべきだ。これは園部や山根の進歩主義者と同じ見方であり、内田も大きく言えばその中にいるのだが、ちょっとした違いがある。彼は近代音楽の特徴を和音にあると述べた上で、日本の浪花節には和音に乗った旋律という法則はなく曖昧模糊としている。いわゆる民衆的な音楽は本来の民衆性から歪められているから、それを発展させることでは和音的な音楽は出てこない。それは不自然だから今の子供には受け入れられない。子供に合理的な和音を教えるには無理に押しつけなくても、もともと子供にある自然なものを引きだすことでできる。日本でも合理的な発声はできる。「啓蒙」とは何もカントを引き合いに出さずともこういうことを指すのであり、「コロンブスの卵」を自分のなかに見つけることだと言える。これは歴史貫通的な自然法の考えである。内田は自分が拠るべきものをそこに賭け、その実験を音感で行なったのである。……敏感な人はそれが日本の半封建的な土地所有と国家による上からの近代化を批判して健全な産業構造と国内市場形成を求める彼の実践とつながることに気づくであろう。さらには彼が格好のスミス入門として『国富論』の大学教育論に注目したこととつながることにも。
具体的には喉を浪花節的に使うのでなく、口を大きく開けて共鳴する倍音を利用した。そのことさえ守って他と合わせていけばハーモニーはできる。ハーモニーができればそれだけで楽しく、物悲しいセンチメンタルな旋律にとらわれることはなくなる。健康な音の面白さが解る。それが解ってこそ、短調の音楽が自然なものを抑えつけていることに対抗する力だ(ハ短調の第5交響曲!)ということも解ってくる。ここにはもはや明治期の伊沢らの形式的な長調・短調の区別はない。こうして素人であっても西洋音楽の本質をつかむことができるのである。プロの音楽家はソナタ形式の大交響曲にその本質を置くだろうが。内田は簡単な和音から複雑な和音を追った。その場合最も難しかったことは優しい和音を練習することであったと言う。それはちょっとでも狂えばすぐに分かり、歌謡曲的に心を込めると変なものになるからであった。簡単な和音を退屈でもやり続けると、そういう音でないと嫌になり、複雑なものをやっても浪花節的でなくなる。こうして大衆は科学的な方法でちょっと練習すればプロのオーケストラと一緒に第9を歌うことはできるのである。そのことは今日の事実でもある。他方、丸山真男はその和音を日本に入れるに際しては目的意識的に訓練することを説いた。民衆の音楽は半封建的な社会生活に規定されている面があるから、それを破るには政治活動の他に文化闘争も必要になる。それは自由競争に任せておくのでなく、職人的な訓練を課すことでなければならない、と。内田は丸山と微妙に違うのだが、それは経済学と政治学の立場の違いにもなっていく。
ここで内田のベートーヴン観を瞥見しておく。ベートーヴェンの曲はモーツアルトのように耳に快くなく、ごつごつして響きにくい音になっている。それが当時の知識人や学生には圧倒的な影響を与えており、内田もその1人であった。
音楽に社会思想が入る。第3交響曲はナポレオンに捧げられる予定であったが彼が皇帝に就いたことを知って献辞を消したことはよく知られている。それで分かるように第3は音の動きにおいてフランス革命の自由・平等・友愛の理念や民主主義の世界観を表現していると解釈される。そしてドイツの勃興しつつある市民階級の感じ方をも表現しており、第5や第9もその延長上にあるとも解釈される。内田もその受けとめ方をするが注、もう少し具体的で掘り下げているのが彼の特徴である。ベートーヴェンは普通、初期はハイドンやモーツアルトの影響下にあり、中期はそれを脱して独自のものを作り、後期にはソナタ形式の発展を究めたが行き詰ってロマン派に橋を架けたと解説されていた。3つの時期の間に明確な区別や飛躍があるのである。内田はそれに対して特に初期と後期の間に連続を見出す。そこに彼の思考の独自性を見ることができる。彼は第9を取りあげる。……ここでも理論的・思想的感性のある人は内田が初期スミスと後期スミスを関連させ、マルクス論でも初期疎外思想と後期経済学を関連させていたことに想いが及ぶであろう。
注 ただし、このベートーヴェンでも後に「ウエリントンの勝利」という駄作を書くまでに反動政治に巻き込まれることがあった。内田も後年にそのことを知る。
内田は日中戦争勃発の前後にローゼンストックの指揮で第9を聴いた。合唱の歌詞の内容は国家間や民族間の戦争と対照的な世界市民的なものであるが、彼はそれに感動するとともに演奏者と一緒になって歌いたい衝動に駆られてしまう。第9にはそういうところが確かにあって、それは単なる交響曲の演奏以上のもの、共にあり共に作る力を喚起する祝祭的なものであった。でも彼は戦後になると時代の雰囲気は明るすぎてしまい、「生活感情」にぴったり来ないこともあった。彼はそういう状況を意識しつつ、音感で第9を取りあげる。その第9に彼は初期のベートーヴェンを見出すのである。
内田はベートーヴェンの初期のピアノ・ソナタ作品10の3の第3楽章メヌエット(?)を取りあげ、従来はメヌエットはウィーン風の美しい旋律で歌うのが常であったが、トリオの部分で素朴な民謡風の踊りが入れられていることに目を向けた。それは18世紀末のベートーヴェンの故郷ボンにおける農民解放の雰囲気の中で生まれた楽しく生き生きした民謡を反映していると、社会科学的に解釈される。このボン時代については小松雄一郎の『べートーヴェンの手紙』(上下、1982年)でも窺えることである。ベートーヴェンはそのボンを出てウィーンの貴族社会に出るが、内田はそこでの勉強と生活が彼の音楽にウィーン風と民謡風との矛盾をもたらしたと解釈する。内田はそのウィーン風の中に素朴なものを聴き取る。その素朴さは中期の傑作群の中では後退すると言いつつ。
内田はその民謡風の健康な旋律が後期の複雑難解と言われるピアノ・ソナタや弦楽4重奏曲・第9にも現われると聴きとる。そういう彼の耳は当時の音楽評論家にないものであった。彼はちょっといたずらっぽく、ベートーヴェンがそのころ「ダンカン・グレイ」注という愉快で素朴な歌曲を作ったとして自分の解釈を傍証する。でもこの歌は石本美砂保が松原雅典の宛てた手紙によれば、ベートーヴェンに対する先入見――苦悩を通じての歓喜を表現した楽聖――が邪魔して「明るいユーモアあふれる人間らしい感じ」は素直に受け入れられなかったようである。内田のベートーヴェンは反対に喜びを正面にだし、哀しみや怒りをその影におくのである。これはいかにも内田らしい捉え方である。この面のベートーヴェンがあって、第9冒頭のレシタティーヴォでそれまでの3つの器楽楽章が否定されてすべての人間を抱き合わせる「素朴な喜び」が歌われるというのである。ニヒトゥ・ディーゼ・テーネの意味は第1楽章から第3楽章までの器楽の行き詰まりを否定して必然的に人間の声を出すと解釈されていたが、内田はもっとベートーヴェン音楽の本質と関わらせるのである。こういう内田はベートーヴェンを神秘的に捉えない。第9の合唱の中に「神」がよく出てくるが、それは歌曲「自然における神の栄光」の場合と同じく啓示的なものでなく、理神論的な自然法を意味すると捉えられる。法(law)には実際の法律と自然の法則の2つがあり、前者を守らないと権力によって罰せられるが、後者はそれを守らなくても人間によって罰せられることはないとしても生きていくうえで困ってしまう。自然法は実定法と対抗する。この自然法観は『生誕』におけるケネーとスミスの経済思想の異同やマルクスによるそれらの乗り越えの議論になり、晩年の『読書と社会科学』(1985年)の中で自然法という概念装置を使って日常生活を捉え返す実験のところに再現される。
  注 これはスコットランドの農民詩人ロバート・バーンズが古バラッドにつけた節をベートーヴェンが編曲したものである。その歌詞の最初は中村為治の名訳『バーンズ詩集』(1928年)によると――「ダンカン グレーが口説きに来たよ、は は その口説き。酔って楽しいユウルの晩に は は その口説き。マギイ首をばふんぞり返し、斜に蔑みやつたら、ダンカン近寄る術も無し。は は その口説き。」
最後に、音感の1員であった中尾真は内田は音楽を通して芸術一般や社会、自然の捕らえ方を教えてくれたと述懐している(前掲『石本美砂保の世界』、参照)。そして内田の講習会に参加した若き研究者たちはその方法をそれぞれの専門領域に適用しようとしていくのであった。
 音感の活動はやがて革新政党の動向に影響を受けるようになる。創立当初の考えや標語の中に政治用語が入り込み、音楽の独自性や合唱の喜びとの間に溝ができる。音感がレッド・パージ反対の集会に集まった学生のために闘争歌を指導する。歌を広めることが政治や社会の民主化につながると思われたのである。その一方で音楽が政治の手段になると警戒する者も出た。合唱の音符を音楽的に追求することと合唱の歌詞の社会的内容を重視することとが対立していく。これは戦前のプロレタリア音楽運動が辿った道であった。内田はどうであったか。彼は和音の訓練をせずに民衆の歌に戻ることに反対であったが、そうかといって和音を和音のためだけに追求することにも同意できなかった。組織が両者を内的に統一することは難しい。
内田は音感活動の前線から退き、『経済学の生誕』の執筆に集中していく。

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