これまで何度も脱経済成長論に言及してきたが、またもや脱成長論に思いを馳せねばならない。しかもその脱成長論は脱原発と一心同体である。脱原発のための脱成長論と言い直すこともできる。経済成長のためには原発推進も不可欠とみるのが原発推進派の言い分だが、この主張は「亡国・ニッポン」への道につながっている。だからこそ亡国への道を回避するためには脱原発という選択肢以外は考えにくい。
小泉純一郎元首相が最近「原発ゼロ」を提唱して話題を呼んでいる。その目指すところは「亡国・ニッポン」への危機をいかに乗り越えるかであるに違いない。肝心なことは「原発ゼロ」実現のためには「脱成長」をも覚悟することである。(2013年11月18日掲載)
村上達也、神保哲生共著『東海村・村長の「脱原発」論』(集英社新書、2013年8月刊)は、日本におけるこれまでの原発依存症を克服して、脱原発の新しい進路を模索するには不可欠の力作である。
著者の村上達也(むらかみ たつや)氏は、1943年東海村生まれ。東海村村長(2013年9月退任。)、「脱原発をめざす首長会議」世話人として活躍。神保哲生(じんぼう てつお)氏は、1961年東京都生まれ、コロンビア大学ジャーナリズム大学院修士課程修了のジャーナリスト。なお村上氏の肩書は11月の現在すでに「前村長」となっているが、著作を発表した8月の時点では現職の町長だったので、主見出しは「東海村・村長の脱原発論を読んで」となっている。
『東海村・村長の「脱原発」論』から「脱原発」に関する主張の要点を以下、紹介する。
(1)「科学的精神」の欠如という日本の病
問題の根本にあるのは何かと問われれば、我々日本人は科学というものについての根源的な知識、あるいは哲学、科学的な精神がないんじゃないか。ギリシャ文明だとか、中世のヨーロッパでは科学が宗教の中から出てきた。宗教と対峙しながら科学が生まれてきた。それがルネッサンスで大きく花開いて、科学的な精神が17~18世紀の合理主義につながり、産業革命があって、社会が発展してきた。
そういう根っこがあるヨーロッパと違って、我々日本人は科学を自分で思考せずに、完成品として受容した。朝日新聞論説委員だった笠信太郎が言っていた「切り花論」に等しい。日本は西洋の技術を導入して、やみくもに資本主義的な発展を目指してきた。原発もまったく同じ構造で導入されたところに、失敗の原因があった。
(2)持続できる地域社会をつくっていこう
東海村は2011年から2020年までの10年間の第5次総合計画を決めた。その理念は「村民の叡智(えいち)が生きるまちづくり― 今と未来を生きる全ての命あるもののために」ときわめて高い。基本目標として次の三つを掲げた。
*未来を拓(ひら)く=過去に学び、現在を考え、未来を拓くことのできる叡智の伝承・創造を目指す。
*多様な選択=一人ひとりが尊重され、多様な選択が可能な社会を村民の叡智を活かし、村民主体で創造していく。
*自然といのちの調和=自然といのちの調和と循環を重視し、多様な叡智を結集して新たな創造する活力あるまちを目指す。
ここでは「カネ」のことや「地域経済の発展」は、言っていない。これを策定するとき、村民や職員に呼びかけたことはひとつだけだった。「持続できる地域社会をつくっていこう」と。原発では地域社会を持続的に支えられないことははっきりしていたわけだから。
(3)経済成長神話の反省を
今、反省しなければならないのは、経済成長神話なんですよ。成長、成長ということで、高いところを目指して上へ上へと遮二無二歩いてきた結果が、今の惨憺たる日本社会の状況でしょう。
働く人の三分の一が非正規労働者という社会がつくられて、そのうえに労働契約法も改悪して、首切りしやすくするとか、そういうまさに資本主義的な論理で、どんどん人間の存在というものが、低められ、小さくされてきている。盛んに言われるグローバル化という動きについても、これはおかしい。我々を幸せにしないものなのにわざわざ乗り遅れないようにする必要があるのかと疑問に思う。
原発依存、つまり化け物に依存するような社会から脱却して、人間性を回復すべきだろう。しかし脱成長社会に転換することは、たとえば経団連で威張っているおじさん達にとっては、自分の育ててきた産業とそれを通じて得た権力の否定を意味する。そこに原発と同じようなムラ、たとえば経団連ムラがあって、同じように言論の自由もなかったりする。
(4)大変不気味で恐ろしい空気が覆っている
今、日本には暗い雲が立ちこめていると強く感じている。原発が再び、国家の経済、国家の利益、国家の威信を守るための「国策」― これは戦時中の言葉だが― といつの間にか位置づけられ、地域住民の声が届かない中央で物事が決められて、推進に傾いた議論が行われている。
しかも不都合な情報を出さず、事故の検証も不十分なままで周辺住民の意思を問うプロセスも経ずに、原発を再稼働させようとする権力の姿勢に、なぜか全国民的な異議の声が上がっていない。大変不気味で、恐ろしい空気が日本を覆っている。
(5)国民の生命こそ何物にも代えがたい
言いたいことはシンプルだ。人の命は、何物にも代えがたい。原発政策がはらむ住民軽視の姿勢は、すなわち人命軽視の姿勢にほかならない。原発は経済効率がいいとか、安全保障上の意義があるという人もいるだろう。だが、国家のプライドも、産業界の利益も、国民の生命の上にあってはならない。そのことを私たちは戦前の歴史で学んだはずだ。
住民の命を直接に預かる自治体の長こそ、そのことを強く訴えるべきではないか。
自治体の声が国の政策をも動かせるようになったとき、この国のあり方は大きく変わるのではないか。その強い思いが、私に脱原発を公言させてきた。人命軽視のこの日本の腐りきった社会との戦いに、これまで以上に深く真剣に関わっていく所存である。
<安原の感想> 原発「即ゼロ」に踏み切るとき
小泉純一郎元首相は、11月12日、日本記者クラブで会見し、安倍首相に「原発即時ゼロ」の方針を打ち出すよう力説した。朝日新聞(11月13日付)によると、小泉氏の発言内容は以下のようである。
*原発ゼロの時期について「即ゼロがいい」と明言した。原発再稼働については「再稼働するとまた核のごみも増えていく」と反対の立場を鮮明にした。核燃料サイクル政策について「どうせ将来やめるんだったら今やめた方がいい」と中止を求めた。
*原発をめぐる今の政治状況について「野党は全部原発ゼロに賛成だ。自民党の賛否は半々だと思っている。首相が決断すれば反対論者も黙る」と強調し、「結局、首相の判断力、洞察力の問題だ」と安倍首相の決断を求めた。
以上の正当な小泉発言について安倍首相及びその周辺は無視する姿勢である。菅義偉官房長官が12日の記者会見で改めて原発を活用する政策を続ける考えを示したことからも、「小泉発言無視」は明らかである。しかし私(安原)は小泉発言に賛成であり、原発の「即ゼロ」に踏み切るときだと考える。なぜなら原発によって経済成長を図ろうとするのは危険であり、望ましい政策とは言えないからである。
経済成長は人間にたとえれば、身長が伸びて、体重が増えることを意味する。身長が伸びて体重が増えても、人間として心身ともに立派であるとは限らない。同様に経済成長が進むとしても、たしかに経済の量的規模はふくらむが、その経済が質的に立派であるとは言えない。だから上質の経済を創造するためには経済の質的転換が不可欠となる。
焦点の原子力発電は、これまでの原発事故の惨状が明示しているようにいのち・自然・人間との共存は不可能であり、上質の経済とは相容れない。だからもはや脱原発を目指す以外の選択肢はあり得ない。にもかかわらず原発推進にこだわる者たちは、自らの錯覚に気づかず、いのち・自然・人間を粗末に扱う無神経な群像というほかないだろう。
初出:安原和雄のブログ「仏教経済塾」(13年11月18掲載)より許可を得て転載
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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