柿本人麻呂の歌集に「桜花 咲きかも散ると 見るまでに 誰れかもここに 見えて散り行く」という歌がある。およその意味としては、桜の花が散り始めると人々も散るように居なくなってしまうというものだ。この歌は、桜の花そのものではなく、花を見に来た花見客の様子に注目した歌として非常に興味深いものと受け止めている。
美しい花が咲き誇れば、人間に限らず蜂や蝶といった虫たちもたくさん集まるであろうし、食べ物でもよい香りが漂えば人集りができるのは当然のことだ。よいものを目前にすればパッと集まり、用が無くなればパッといなくなるというのは世の常であろう。しかし、この桜花の歌が指し示したかったことは少し別のことだったのではないだろうか?と僭越ながら想像してしまうのは私だけであろうか?
確かに花が散ってしまえば花見も興醒めとなり人々は花弁が散るように家路へと散っていくのは当然のことであろう。しかし、裏を返せば、花が咲かなければ人々は桜の樹には集まってはこない、花が散れば人々は桜の樹には集まってはこない、花が咲かなければ桜の樹には価値はないのか?といった投げ掛けが歌から聞こえてはこないだろうか。
桜の樹は当然のことだが、他の植物同様に根があり幹があり葉がある。花が咲くのは春先の一時だけであり他の時季に花が咲くことはない。しかし、花が咲かない時季だからといって桜が桜でなくなるということは決してない。むしろ、花の咲かないシーズンに光合成で養分を蓄え、根を張り、年輪を太くし樹木としての成長を遂げていく。そして、体力をつけた大きな樹木になってこそ見事な花を咲かせることができるのだと言えよう。
桜の花というものは確かに美しいが、それは桜の樹が生み出した一つの結果に過ぎないのであって、桜の樹の本質は樹の根や幹にあるのであろう。それを花だけ見ては帰ってしまい肝心の樹の本質を見ようとしていないとしたら、それは非常に勿体ないことではないかという問いかけが聞こえてはこないだろうか。花が咲くという一つの結果にだけ目を奪われ、桜という存在そのものへの無関心が実は広まってはいないだろうか。
桜は植物の中でもかなり変わった特徴をもっている。第一に多くの桜は葉が出るより先に花を咲かせるという目立ちかがり屋であること。第二に「クマリン酸」という甘い香りのする抗菌有毒成分を葉に含み、落葉とともに下草を生えさせないようにする生存戦略を持っていること。第三にソメイヨシノのように人間に接ぎ木をさせてクローンとして生き長らえ繁栄している樹があること、等々だ。こうした桜の生存戦略の謎に向き合うことにも意味はあると思う。
桜花の歌は、桜を通して物事の表面上の華やかさだけに目を奪われることのないよう注意喚起しているのではないだろうか?そして、桜だけではなく、スポーツでも学問でも仕事でも何にでも当てはまることなのではないだろうかと。どんなスポーツとて五輪で金メダルを取らなければスポーツではないなどということは決してないし、学問とて大学教授にならなければできないなどということはない。為すべきこと、見るべきことは生活の中に常にあり続けているのではないだろうか。
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