社会・個人・自由・平等・民主主義・権利・義務など思想の基本用語は現在、日本語として定着している。そして私たちの多くはそれを当然のものとみなし、何のてらいもなく使用する。あたかもごく普通の日本語であるかのように。しかしこうした西洋思想の概念は、いずれも幕末から明治にかけて、日本が新たに欧米から輸入したものであり、それ以前の日本社会にあったわけではない。日本古来のものではなく、いわば借り物(借用語)。概念は西洋から、その訳語の漢字は中国からそれぞれ借りたものである。
二重の借り物なので、当然のことながら、こうした西洋思想の概念と漢字に翻訳された日本語の概念は、すべての用語について、かなり相違するとみてまちがいない。
たとえば、英語の「ソサイエティー」 “society” と日本語の「社会」を検討してみよう。アメリカ人の宣教師・医師のヘボン(James Curtis Hepburn)が1867年に発行した日本で最初の英語辞典『和英語林集成』では、“society” は「仲間、組、連中、社中」という語が当ててあり、また、福沢諭吉は “society” を「交際、人間交際、交(まじわり)、国、世人」など、文脈に応じてさまざまに訳し分けている。これは、当時の日本には「国」とか「藩」は存在したが、個人を単位とする人間関係を示す “society” に対応するような現実がなく、したがって “society” に相当することばがないのだから、そうするより仕方がなかったのである。
やがて「社会」という訳語が新たに造られ、“society” の翻訳語として定着していくことになる。しかし「社会」という新造語が定着したからといって、西洋の “society” に対応するような現実が当時の日本に存在するようになったというわけではない。「ことば」はできたが「現実」はともなわない。程度の差こそあれ、これは現代の日本社会についても当てはまる。
「個人(individual)」についても同様だ。”individual” は当時の日本人には、とてもわかりにくいことばだったようである。メドゥーストの『英華字典』によれば、”individual” → a single person, 「単身独形、独一個人、人家」などの訳語が当てられている。人家は、現代日本語では「人の住む家(house)」の意味しかないと思うが、それにしても、日本にないものを翻訳することのむずかしさがひしひしと伝わってくる。士農工商という身分制度がまだ残っていた時代に、日本とはまったく異質のものを表現した英文を目にして、たとえ翻訳者がその意味を理解したとしても、それを日本語でどのように表現するのか、悩み苦しんだことは容易に想像できる。「個人」という新造語が “individual” の翻訳語として定着したおかげで、現代なら、たとえば以下のような英文は瞬時に翻訳できるが、当時はそういかなかったのである。
Everyone should be respected as an individual.
人はすべて個人として尊重されねばならない。
翻訳語の成立について詳しくは、柳父 章(やなぶ あきら)氏の名著 『翻訳語成立事情』 岩波新書を参照してください。おもしろいし、それにいつかきっと役に立ちます。
西洋思想の基本用語のうち、社会・個人・自由・平等・民主主義・義務について、このような的確で簡潔な訳語を考案された私たちの大先輩たちに対して、私は心から感謝しその労苦と知性に感服する。たった一つの例外、「権利」を除けば。
「権利」は、英語の「ライト」“right” を翻訳したことばである。この翻訳語は失敗作といわざるをえない。なぜか?その理由は、日本語の「権利」ということばには、常に、どこか後ろめたい語感が伴うが、英語の名詞 “right” にはそのようなネガティブな意味などまったくなく、むしろ「道義的にまたは法的に認められたもの、または認めたたほうがよいもの」を指すことばだからである。
以下はメリアム・ウェブスター英英辞典から抜粋したもの。ただし参考訳は筆者。
right [noun]
1 : behavior that is morally good or correct (参考訳:道義的に正しい行ない)
2 : something that a person is or should be morally or legally allowed to have, get, or do
(参考訳: 所有・取得・行為について、道義的にまたは法的に認められたもの、または認めたたほうがよいもの)
前述のヘボンの英語辞典『和英語林集成』では、“right” には「道理、道、理、義、善、筋、はず、べき」という語が当ててあり、また、福沢諭吉は “right” に「通義」という訳語を当てつつ、「訳字を以って原意を尽すに足らず」(この訳語では原意をじゅうぶんに表現しきれていない)と述べている。
漢字(=中国の文字)は表意文字であり、一字一字がそれぞれ一定の意味を表す。そこで、「権利」を分解してそれぞれの意味を検討してみたい。権利の「権」は第一義的に力(power)を表す。それは人をしたがわせる力(実権・政権・権威・権力)であり、法的な力(棄権・人権)である。「権」には、どこか力づくの押しつけがましさがあるが、法律には強制力がつきものなので、ま、これは一応認めることにしよう。
一方、権利の「利」は第一義的にはもうけ(profit)を表す。それは自らを利するもの(営利・権利・利益・利子)であり、他を益すること(公共の利益)でもある。もちろんいい意味もあるのだが、利が利を生む、漁夫の利、利にさとい、…など、あまりいいイメージはない。
「権利」の順序を入れ替えて「利権」とすると、第一義的な「利益と権利」という意味よりも、業者が公的機関などと結託して得る権益の意味のほうが強く感じられ、最低なイメージとなる。「名は体を表す」というが、「権利」は “right” の実体(善・道理)をまったく表していない。このような失敗作が定着したことは日本にとってきわめて不幸なことであり、その損失ははかりしれない。もし「権利」の代わりに「道理」という訳語が定着していたら、日本の人権運動は大きく進展していたにちがいない。
しかし過去のことをなげいても問題は解決しない。そこで「権利」はすでに “right” の訳語として日本語に定着しているという現状をふまえて、実行可能な案(折衷案)を提示したい。それは「権利」の代わりに「権理」という訳語を今後、使用したらどうかということ。つまり、「けんり」という音声を維持しつつ、漢字の「権」の文字は残し「利」だけを「理」に変更するのである。幸いなことに「権理」ということばは日本語にまだない。これなら、既存の意味にわずらわされる恐れもなく、しかも「権」の一字は従来通り使用できるので、権利に関するさまざまな用語(人権・著作権・知的所有権など)に影響することもない。
「理」は、道理であり原理であり条理であり真理なので “right” の原意(善・道理)にかぎりなく近い。訓読みするとやまとことばの「ことわり」となり、私たちの愛してやまない平家物語の「祇園精舎」の一節、「盛者必衰のことわりをあらわす」が日本人ならすぐに心に浮かぶはずである。「権利」より「権理」のほうが日本人の心にしっくりくる。この「権理」なら “right” の原意を尽しているので福沢諭吉もきっと納得してくれるにちがいない。
初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/