私は教育者ですよ。籠池さんと同業だ。もっとも、スケールはウチの方がはるかに大きい。権力との結びつきも、格段に深く緊密だ。森友学園問題と、ウチの問題とが同列というわけはないよ。格が違うんだから。影響の大きさも、うんと違うだろうね。
私のことを、「教育者ではなく『教育屋』じゃないか」とか、「学校屋」「授業料商売人」「教育産業経営者」、あるいは「補助金経営者」とかの悪口をいう人ももちろんいるさ。しかし、あれはすべてがやっかみ。気にしている暇はない。
ときおり、どんな教育理念をもっているのかと人から問われたりもする。ウチの学園歌というものがあってね、1番から6番までの最後のフレーズがリフレインになっている。「求めてやまぬ 建学の 理想の花に 酔いしれん」というんだ。あの歌詞、恥ずかしながら私と親父が作った。だから、「求めてやまぬ建学の理想」とはなんでしょうか、と聞かれるわけ。
でも、こいつは愚問。ウチに建学の理念も精神もない。真理の探究とか、学の独立とか、豊かな情操とか、人格の陶冶とか、主権者としての教養とか、そんなきれいごとのタテマエで生徒が集まるはずはなかろう。
大切なのは、「時代の流れを見据えながら、社会のニーズを先取りした特色ある教育」。これに尽きるね。飽くまで、社会が望む人材を育てることで、これ以外にはない。「長い物には巻かれろ」「出る杭は打たれる」という処世訓があるだろう。だから、我慢して「巻かれよう」「引っ込もう」と自制する人材ではダメなんだ。我慢などすることなく、心底、権力にも企業にも従順で、迎合的で、忖度が的確で、上のご意向に逆らわず、社会からはみ出ることのない人間。そのような、現体制・現政権が望む人物、企業が理想とする人材を育てること。それが、ウチの教育理念といえば言えるかも。
人権だとか、労働者の権利だとか、俺にもプライドがあるだとか、自分でものを考えようなんて、そんな人物を企業が喜んで採用すると思うか。現実的に考えてもみていただきたい。時代は21世紀。私たちを取り巻く社会は、とても複雑なものになっている。到底、凡夫ごときがこの複雑な世を自らの意思や理念を貫いて生きていくことなどできるはずもない。だから、学校教育も、徹底して社会に適応できる人材育成を心がけなければならない。そのような教育指導、カリキュラム編成、さらには教育環境の整備がウチの教育方針。
もう少し有り体に言えば、「社会に適応」とは「世渡り上手」であること。世の表と裏とを見分けて、上手に生きていく術を教えること。それこそがあるべき教育であり、社会から求められている教育であり、なによりも経営として成功する教育なんだね。当たり前のことだ。
大事なのは、このカネの世を生き抜く手練手管。政治や中央行政や地方自治体にどのように食い込んで、ビジネスチャンスとし金儲けの道具とするか、それこそが私の実践を通じて、子どもたちに教えていること。これは実に教育的なことがらではないかね。
何しろ、時の総理大臣が私のことを「どんな時も心の奥でつながっている友人、まさに腹心の友だ」という仲。これをビジネスに活かさぬ手はなかろう。学校教育は、緊密に認可行政と結びついている。事業拡大の要諦は、人脈を最大限に活用して、チャンスを逃さないことだ。これも当たり前のことだがね。
このたびは、晋ちゃんにはよく働いていただいた。もとはと言えば、ウチの学園の監事だったひと。それだけでなく、やはり腹心の友だ。たよりになる。晋ちゃんのえらいところは、敢えて瓜田に沓をいれて律儀に友情の証しを示してくれたことだ。なかなかできることではない。
そして、晋ちゃんの奥さんにも世話になった。ウチが経営する保育園の名誉園長におさまっている。これは、行政への睨みをきかすのに貴重な存在。それだけでなく、萩生田官房副長官も元はウチの大学の客員教授として録を食んでいた人。井上義行元首相秘書官も同じ立場だ。それだけじゃない。異例の人事として話題となった木沢克之最高裁判事も元は加計学園監事だ。また、元文部官僚で内閣参与だった木曽功が、現在はウチの大学の学長に就任し、ウチの法人理事にもなっている。そりゃあ、文科省の元高級官僚がいれば、なにかと便利だし心強い。今回の獣医学部設立認可問題でも、役人時代には後輩だったという前川事務次官に「よろしく」と声をかけてもらった。ウチの貴重な戦力だ。
どうだ。ウチと権力中枢との結びつきは縦横無尽。全てがメシのタネになっているというわけだ。たった一つの計算違いは、これまでは誰の目にも触れずに、闇の中でことを進めていくことができたんだ。ところが、このたびだけはどういうわけかすっかりことが露見して、私と晋ちゃんが、私利私欲のために政治を汚した、行政をまげたと、悪者になったような報道姿勢。いったい突然に何があったのだろう。やはり陰謀以外には考えられないな。
とはいうものの、これまでは順調にうまくやってきた。なにもかにも、究極はカネの力だ。そして、権力と結びつき、権力を利用しようという意思の力だ。ウチの学園で学ぶ子どもたち、若者たちは、このことをよく身につけて社会に出る。どう。やっぱり私は、教育者だろう。
(2017年6月1日)
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2017.06.01より許可を得て転載
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