機密保護法に思う

著者: 藤澤 豊 ふじさわ ゆたか : ビジネス傭兵
タグ: ,

特定秘密保護法が成立しなかったとしても、そのようなものが出てくること自体にそりゃないだろうという憤りがある。それだけならまだしも、その程度の社会だったのかと半ば諦めてしまう心情に腹が立つやら情けないやら、どこにももっていきようのない苛立ちのようなものがある。
民主党の大勝、震災から原発も含めたその後の迷走から今度は自民党の圧勝。何かある度に自分たちの社会は自分たちでよくしてゆけるはずのものという、センチと言われようが何と言われようが捨てたら終わりと思う気持ちがある。
素直に歴史を見れば、どれほど隆盛を極めた社会でも、必ず自壊してきた。でも、それは隆盛を極めた後の話で、自分たちの社会はまだ隆盛を極めていない。まだまだ、これからのはずという気持ちがある。まさか、ちょっと前のバブルの頃が日本の最盛期ではない。あんなもので最盛期はないだろう。あんなもの、ただ出来上がった大量生産技術とそれを支えるインフラから社会資本。。。が積み重なっただけのモノ造りででしかなかった。後世の人たちからみた歴史の一ページを飾るに相応しい隆盛を極めた文化や社会があったとは思えない。

なぜ人は行政レベルの機密保持-開示に神経を尖らせるのか。疑問の余地があるとは思えない。フツーに生きてきた人がフツーに考えれば、行政レベルの機密は最低限に抑えなければ民主的な社会が成り立たないことくらい分かっているだろう。どの教科書にも載っている端的な言い方がある。「主権在民」憲法や法律で規定されていようがいまいが、また、国によっては形骸化されて久しいところもあるだろうが、これほど社会のありようの基本を言い表した言葉はない。行政、当然官僚も代議士もそこに住んでいる人たちの公僕でしかない。お仕えする立場の者どもが、主人たる住民に対して何を隠し立てしようというのか?複雑な国際社会の交渉事でその時々に住民に開示できないことがあるのは分かる。当面、機密としておかなければならないこともあるだろう。しかし、封建時代ならともかく、“主権在民“を憲法で謳っておきながら、日本の施政者の精神構造は未だに「由らしむべし知らしむべからず 」なのか?また、日本という国に生まれて住んでいる人たちの多くは、その施政者のありようを、たとえ積極的ではないにしても、当たり前とでも思っているのか?

フツーに日本語を読んで理解する能力があれば十分、秀でた修辞学や法律、社会の専門的な知識はいらいない。フツーに憲法を読んで、フツーに理解すればいい。まだ、文章を誰かの都合のいいように読み変える狡さのない小学生なら、憲法の真意を素直に読める。文字で表記することによって、人間は様々なことを記録として残してきた。言葉で考え文字で残す。以前考え、文字で残されたところから次を考える。人類はこの作業を延々と繰り返してきた。「主権在民」、ここまで端的に書かれたものを素直に理解し得ない、あるいは現状との辻褄合わせに、誰かの何かの都合に合わせて曲解しなければならいようなら、その社会と文化、既に現状に行き詰まっている。

なぜ人は行政レベルの機密保持-開示ばかりに神経を尖らせるのだろう。住民の多くが勤労者で、勤労者は公共機関や民間企業で働いている。そこでの仕事がモノ造りだったり、運輸だったり、様々なサービスだったりしてこの国が国として、機関や組織が機関や組織として、住民が個人として家庭として成り立っている。その人たちの日常生活に特定秘密保護法による負の影響の可能性がどれほどあるだろう。特定秘密保護法などという「主権在民」を愚弄した法律の問題を軽視するもつりはさらさらないが、巷の多くの人たちが日常生活の実感として、その法律故に目に見える不利益をどれほど受けるのか?穿った見方かもしれないが、就業している機関や企業での有無を言わせぬ決定、日常業務の方がフツーの人たちのフツーの日常にはよほど大きな影響があるだろう。

コスト削減で作業者の数が減ってノルマは増えた。規定の残業時間だけでは足りないからサービス残業になる。多くのブラック企業ではサービス残業という考えすらなくなって、個人生活になんらかの、しばし多大な犠牲を払わなければ職に留まれない状況が当たり前のようになっている。肉体的に精神的に痛み、過労死も自殺も日常の風景になった感すらある。万が一訴訟になったとして、一体どれほどの社内事情が公にされることがあるのか。たとえ裁判で追い込まれたとしても、ブラックと言われる企業(すべての組織だが)が自らの不利になりかねないことを開示することはない。

人事異動や職務命令は戦前の“赤紙” (召集令状)のようなもので、事前に相談をされることも示唆されることも、何らかの事情でそれなりの立場にいる人たちに限られる。現在の日本で住民の多くである勤労者の日常生活に関係する情報は行政レベルではなく、就労している機関や企業の意思決定、その意思決定の基礎となる情報にある。
特定秘密保護法などあろうがなかろうが企業内、組織内の日常的な情報は社外秘、社内でも一部の人たちだけしか知り得ない情報とされてきた。フツーの人たちのフツーの日常に大きな影響をおよぼす情報や意思決定が民主的と思われている社会で隠蔽されてきた。それは特定秘密保護法などという法律の有無にかかわらず隠蔽されてきた。

今の日本で、「由らしむべし知らしむべからず 」が社会のあり方だと公に主張する人もいないだろうが、フツーの人たちのフツーの日常生活に関係する情報については、それがフツーのこと、当たり前のことと思わされてきた。労働の場に民主主義がなければ民主的な社会、ましては「主権在民」を実感し得る社会など望むべくもない。そして、当然のこととして特定秘密保護法がでてきた。
ここまで主権者である国民を愚弄した法律を当たり前のように出し得る社会だということを改めて実感させられた。出してくる側以上に出された側の社会認識と意識が問われているような気がしてならない。

Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion4704:140104〕