武者小路実篤と熊谷守一

 偶然なのだが、調布市の武者小路実篤の「仙川の家」と実篤公園を訪ねる数日前に、施設の映画サークルによる上映会で「モリのいる場所」(沖田修一監督、2018年5月公開)を見た。映画は、かなりユニークな生涯を送った画家熊谷守一(1880~1977)のある一日をたどるフィクションで、守一を山崎努、その妻を樹木希林が演じていた。文化勲章を辞退する場面があったので、1968年、守一78歳のころを想定しているのかも知れない。熊井家に出入りするさまざまな人たちも交えて、カメラマンと助手二人の目を通して守一夫婦をユーモラスに描いたものだった。

 守一は、晩年、脳梗塞の後遺症で倒れた後、20年間ほど、豊島区千早町の自宅から外出することを好まず、30坪ほどの荒れ放題?の庭の草木や小さな生き物たちをこよなく大切にし、絵にも書き、「仙人」のような暮らしをしていたらしい。私も小さな画集で、猫やアリの絵を見たことがある。実家の池袋に近い、かつて敗戦直後、校舎のない池袋第二小学校の低学年の時代、千早町近くの要町小学校に通学していたこともあり、気にはなっていた。そして20数年前、熊谷守一美術館のギャラリーで開催の阿木津英さんの歌の書展を見に行ったこともあった。この美術館は1985年守一の次女、画家の熊谷榧さんが旧居跡に建て、2007年、豊島区に作品ごと寄贈して区立美術館になっている。

 武者小路実篤記念館で、実篤の絵や書を見ていて、なんとなく似たような雰囲気が察しられるので、接点はないものかと見ていると、やはりあったのである。軸になっていて、守一独特の筆になる「むしゃさんの書展に」(1968年11月)と題するもので「むしゃさんの字は人がらが出ていておもしろいとおもひます・・・」というものだった。

 帰宅後、記念館の所蔵目録で調べてみると、いろいろな出会いがあったのである。1943年には「熊谷守一・岸田劉生・武者小路実篤三人展」が開かれている。以下はいずれも未見であるが、1954年?「清光会の集りにて」という安井曽太郎と実篤、守一3人の写真があり、守一は、実篤の「無車翁八十五歳祝福画展」の若水会先駆展の題簽を書いたり、遺族あての実篤追悼書簡(1976年4月13日)を送付したりしている。この間、戦後、実篤が安倍能成、辰野隆らと発行していた雑誌『心』(1948年7月~1981年7・8合併)」には、守一の絵が寄せられたり、実篤が守一の「椿に黒鶫」の解説を寄せたりする交流があったことがわかる。

 しかし、描く絵や文字が似ているようでも、守一は、本格的な美術教育を受けた、プロの絵描きであり、実篤は、小説家の余技として絵に向かい合った人であったと言える。その暮らしぶりにも、大きな違いがあった。絵が描けなくなって、困窮のさなかに相次いで子どもを失っている守一、三鷹の牟礼の家では、娘家族ら、大勢の孫たちにも囲まれて15人の大所帯で暮らしていた実篤。30坪の庭、1000坪の庭。自分で掘った小さな池、敷地内に二つの池。守一が、岐阜の名士の家の生まれとはいえ、複雑な家庭環境であったこと、実篤は、貴族、子爵の家に生まれている。こうした違いは、両者の生きた時代では、越えがたい差異となって表れたのではないか。その象徴的な出来事と言えば、実篤は1952年11月3日文化勲章や叙勲を受け、守一は1968年文化勲章を打診され辞退し、叙勲も辞退していることだろうか。

初出:「内野光子のブログ」2025.6.4より許可を得て転載
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