歴史における神話のアクチュアリティ(2)

二 ミュトスからロゴスへ、あるいは神話の非神話への転用

 先ほど記したメソポタミヤ最古の叙事詩ギルガメシュ神話には、「エンキドゥ」という始原の人間が登場する。彼は、主人公でウルクの王ギルガメシュがあまりの暴君であったため天の神アヌが創造神アルルに命じてライバルとして粘土から造らせた野生人である。エンキドゥは、文明を謳歌するギルガメシュの後に登場するものの、位置づけとしては文明を知らない先史人を意味するであろう。本稿で問題にしている神話の世界は、ギルガメシュでなく、エンキドゥに相応しいと言える。あるときエンキドゥはギルガメシュのために斧になり、ギルガメシュはその斧でレバノン杉の森に遠征しこれを護る番人フンバッハを殺した。このレバノン杉は、先史の母神ないし母権を意味していた(注8)。 こうしてエンキドゥは本来は自分自身と同一であった自然を征服する勢力=文明人に変質していくが、それは同時に自己の破滅ともなって、死を迎えることとなった。すなわち、叙事詩ギルガメシュはエンキドゥの死をもって、物語がミュトスからロゴスへと転じていくのであった。

 レバノンは東地中海沿岸のシリア地方にあり、古くからフェニキア人が商業活動の拠点にしていた。彼らはレバノン杉で船をつくり、地中海貿易を独占した。その全盛期は、エーゲ文明が滅ぶ前12世紀からアッシリア帝国の台頭する前八世紀にかけてである。その末期にはギリシアにホメロスがあらわれたが、その頃までに地中海海域では、デーメーテール信仰に代表される母権制的社会が衰退し、代わってアポロンやゼウス信仰に象徴される父権制的社会が出現した。その段階では、神々の姿は不可視となり、代わってさまざまな偶像が考案されるに至っている。先史野生ペラスゴイ人が信仰する神々は山や石、樹木、あるいはワニの鱗だったりした。これらはミュトスに相応しい神体=具象神だった。偶像は考えられず、したがって存在していない。ところが、民族移動の後に出現した有史文明ギリシア人が信仰する神々は真善美や正義・平和であり不可視であったものの、それを包込む偶像はかような抽象神を体現する形姿をしており、その究極の形姿はミロ島のヴィーナスに窺われるのだった。(注9)

 こうして始まった〈神話の文明化〉=〈神話の非神話化〉は、やがて宗教的な領域を中心に、社会のさまざまな分野に適用されていくこととなる。その一つに中世から近世にかけて流行した魔女狩りがある。これは、古くはモーゼの十戒に記された異教信仰の禁止に前例をみるが、その後キリスト教に支配されたケルト・ゲルマン社会での異教信仰の禁止に直接的な起源を有する。(注10)

 ところで、魔女に関連する研究として、上山安敏は安田喜憲編『魔女の文明史』所収論文「魔女裁判」の中で次のように類型化している。「『魔女と魔女裁判』というテーマはヨーロッパで盛んになったが、それには魔女の生態を民族学的な方向からみていく考え方と、現代社会の我々にも身近な魔女狩りを政治学的な方向からみるというふたつの考え方がある。……それらをどのようにしてひとつのなかに統合していくかが、本章のひとつのテーマになる」。(注11)

 さて、魔女という自然界には存在しないものの「生態」とは、いったいどのように解釈したらいいものであろうか。ようするに、魔女は生き物として実体的に存在したのではなく、表象として社会的・文化的に存在してきたのである。したがって、「魔女と魔女裁判」というテーマは表象としての魔女をめぐって取り扱われてきたと言える。魔女の出没するところ、必ずやその出現を促す社会的ないし文化的要因が潜在していると言えるのである。魔女狩りは、そうした要因を前提にして成立したネガティヴな神話なのである。そうであるから、魔女狩りの神話は現代社会にも適用しうる。

安田喜憲は前掲編著の「序論――アニミズム・ルネサンス」と「あとがき」とで、アメリカ軍のイラク攻撃を前近代の「魔女」ないし「魔女狩り」に関連させているが、そこではアメリカ軍ないしキリスト教徒が迫害者に括られている。1970年代以降アメリカではよくそうした現象が生じる。その際、ここでいう「魔女狩り」は比喩的なレトリック、一種の表象である。イラクに実際に魔女がいて指導しているわけではない。また安田喜憲「魔女を殺し自然を破壊する文明の闇からの離脱」にはこう記されている。「今こそ必要なのは、アニミズムの神々を殺し、森を悪として破壊し、魔女を生み出し、闘いを止めることのできない『力と闘争の文明』の闇からの離脱なのである」(注12)。この、文明を一方的に退けようとする態度は短絡的な発想である。この種の研究の難点は、歴史的コンテキストを背景にまで退けていることである。あるいはまた、「魔女」という表象を「悪」というレッテルに使用するといったイデオロギーに傾きがちである。だがそれだけに、魔女狩りが現代でも神話として意味をもち通用するのである。それは、神話の中で攻撃にさらされた人々をして、公然非公然を問わずいっそう結束させ、ときにはカウンター・ミュトスを産むという点でも、効果があると言える。

 次に、19世紀を代表する革命理論であるマルクス主義における神話ないしその意義について検討してみよう。それはマルクス主義の発展神話とでも命名できるものである。すなわち、マルクス主義の中核をなす唯物史観においては、社会とその歴史は総体としてみると必ず進歩していく。正常つまりヨーロッパ的であればモノクロニカルに発展する。ヨーロッパ=正常というこの発想自体は、一九世紀から二〇世紀にかけて、イデオロギー的な立場を超えておおかたの人々に受け入れられてきた。

 それからまた、マルクス主義よりもまずはダーウィニズムの名において、19世紀は進化主義・進歩主義の世紀であった。ただし、ダーウィン本人は、けっして進化と進歩を等値しなかった。適者生存はときにある器官の退化を助長してきたからである。(注13) しかし19世紀人は進化と進歩を等値にして、人類社会の発展神話を創りあげたのである。その神話はちょうど1870年前後のアメリカ、ドイツ、イタリア、そして日本にピタリと当てはまった。これらの諸地域では、当時そろって国民国家が誕生したのであった。それに対してマルクス主義のみが結果を出すに至らず、〈革命の必然性神話〉は未だ革命歌「インターナショナル」の歌詞にのみ描かれるのみであった。――「立て飢えたるものよ、いまぞ日は近し!」

 飢えたり搾取されたりするとストライキや暴動、革命に決起する、という神話は、ようやく1917年にロシアで結果を生んだ。しかし、それから80年ほどして、飢えても搾取されても誰も革命に決起しない状況が欧米を中心に蔓延し、〈革命の必然神話〉は人々を惹きつける魅力を喪失した。20世紀にあっては、革命への情熱よりも物質的繁栄の欲望の方が新たな神話形成に力を発揮していく。その方向において成立したのが、科学技術神話ないし近代化=合理化神話である。

出典:石塚正英『儀礼と神観念の起原』論創社、2005年、第7章

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