四 20世紀神話のアクチュアリティ(1)――ファシズムとコミュニズム
現代人が未来を生き延びることができるか否か、それは科学技術のみにかかっている訳ではない。それ以上に、資本主義の歪みを克服する新たな社会制度、政治制度にかかっている。これまでの100年、すなわち20世紀には資本主義と社会主義が大きな神話物語をつくってきた。それにファシズムを加えるならば、20世紀には三つ巴の様相を呈して社会形成神話が併存したのである。その際、神話の次元では3者は別物であったが、神話を産み出す現実の諸局面では相互に関連しあっていた。本節では、3者は神話としては敵対するものの、現実においては入り組んで関連していたという、その問題を検討する。それはまた、民主主義の無謬性という神話を揺すぶる問題でもある。
まずは民主主義の衆愚性を考えてみよう。周知のように、古代ギリシアの民主主義は奴隷制という経済基盤の上に立っていた。その上に、ギリシア諸ポリス、とりわけアテネの自由市民は、前5世紀ペリクレス時代に民主政治を完成させた。すなわちアテネでは、一定の年齢(18歳)に達した男子に市民権を与え、彼らは全員が公共広場に集まって民会(エクレシア)を開き、政治上の討論を行ない、行政の為の評議会員や裁判官――おおよそ輪番制――を抽選によって選んだ。このように、アテネそのほかのポリスの市民は、全員が民会を通じて直接政治に参加した。だがこの民主主義は、ポリスという社会がアプリオリに前提となっており、ポリスを離れた個人の存在はありえず、したがって個人の意志の反映としての民主主義という次元に立脚してはいなかったし、人権の保障という概念も――人権そのものの概念が欠如していたのだから当然だが――生まれていなかった。
ところで、アテネでペリクレスの時代に民主政が成立した原因として、よくペルシア戦争(前500~前449年)での平民の活躍とそれによる彼らの発言力の増大が挙げられる。しかし、このような平民階級が多数参加するような統治形態たる民主政に対して、かのギリシアの大哲学者ソクラテスやプラトンは否定的であった。例えばソクラテスによれば、「汝自身を知れ!」の格言に象徴されるように、人は知識(Episteme)によってのみ道徳生活を確立し得、ポリスにおける政治にしても、知識ある人によって担われてこそ保障され得る。よって治者は少数となる。それからプラトンは、平等化主義およびその具現である民主政(Democracy)を排撃し、「哲人政治」すなわち貴族政(Aristcracy)の方を高く評価する。彼にとって、実際的に行なわれていたギリシアの Democracyは衆愚政治(Ochlocracy)ないし暴民政治(Mobocracy)としてのそれに映ったのである。大衆を軽視するプラトンにとって最良の政体は貴族政である。もしこれが腐敗すると、まず金権政治(Timocracy)になる。その結果やがて政治権力が少数者に握られて寡頭政治(Oligarchy)に堕落する。これは必ずや大衆によって批判され、そこから民主政(すなわちプラトンにとっての暴民政)が出現し、さらにその反動として僭主政(Tyranny)が民主政にとって代わる、とプラトンは考える(注19)。ただし、現実の歴史上では、僭主政は金権政治から民主政への過渡期に出現した。
さて、20世紀初頭のドイツでは民主主義から、衆愚政と連動した独裁政が生まれた。すなわち、ワイマール民主主義は国民投票など手続きとしてのみ用いられ、形骸化し、プラトンの言う衆愚政治に依拠した独裁政に道を譲ったのである。そうなると、以後はどのような社会政治現象が生じるか、この問題について、ライヒは彼独自の「大衆の性格構造」理論から次のように説明する。
「『穏やかな』ブルジョワ民主主義の時代に、あくせくしている工業労働者は原理上二つの可能性のいずれかが彼の前に開かれている。一つは、地位が上だと考える中産階級との同一視であり、いま一つは、反動的形態と正反対の生活形態を生み出すかれ自身の社会的立場の同一視である。前者は、中産階級の反動性を妬み、時には模倣しながら――経済的な機会を与えられるなら――、その生活をまるごととり入れる途を択ぶ。他方、後者は、反動のイデオロギーと生活形態を拒否して労働者階級独自のイデオロギーと生活形態をとり入れる。前者の社会生活も後者の階級生活もともに同じ影響にさらされているので、いずれの方向からも同質の強い牽引力がはたらく。」(注20)
労働者たちは、鉄鎖のほか何も失うものをもたないような生活苦からはい上がりたい、中産階級の方に上昇したいと願う。しかし、労働者はいくらドレスアップしてみても所詮心根からして労働者だ、などと当の中産階級に差別され見下されていると感じるや、労働者たちはいっそう劣等意識を深めたり絶望したりするものの、反転して階級格差の廃絶を唱える2勢力、すなわち社会主義とファシズムのいずれかを熱烈に指示するようになる。その際、ファシズムの神話物語においては、まずもって古代ギリシア人をゲルマン人と同じ人種として北欧人種に括った。1936年ベルリン・オリンピックにおけるギリシアからのトーチ(聖火)リレーとアスリートたちの肉体美の誇示は、神話の奥深さを演出してあまりあるものだった。その上で、ギリシア人以外たいがいの諸民族を非アーリア系に一括して排外する筋書きを用意し、労働者の階級意識をショーヴィニズムで塗り替える運動に血道をあげた。それに対してマルクス主義の神話物語においては、社会的窮乏化の進行は労働者に階級意識を自覚させ、彼らはインターナショナルの崇高なる連帯感を抱いてヨーロッパ的規模でのプロレタリア革命に決起する、あるいは、資本主義の矛盾はそれ自身の弁証法的な深まりの先において、共産主義革命という解決の突破口を切り開く、という筋書を用意した。
両勢力とも民主主義を用いて解放神話を用意したということでは同列だったが、その内容においては相互に次元を異にしていた。ナチズムはドイツ・ナショナリズムを高揚させる内容であり、マルクス主義はそれを削ぎ落としインターナショナリズムを高揚させる内容であった。第一次世界大戦で英仏に敗北し亡国の淵に立たされたドイツ人にとって、魅力ある神話は、どちらかと言えばナチズムの方であった。
ところで、神話は過去に意味を添えるばかりでなく、むしろ未来を積極的に語る。「日はまた昇る」など円環をなすにせよ未来まで構想するのが神話であるとするならば、それは神話と言わずユートピアと称する方が適切である。それほどに、ユートピアもまた神話と深く結びついている。羽仁五郎によれば、ユートピアの発生はそれを抱くものの自己解放に関係する。「現存の社会と対立し、それを圧迫と感じ、これを批判し、より高き目標に向かってこの現在より解放されようとする」(注21)のがユートピア精神である。円環をなすにせよ、未来を語らない神話、未来を意識しない神話などありえるはずもない。したがって、あらゆる神話は同時にユートピアであるとも言える。
出典:石塚正英『儀礼と神観念の起原』論創社、2005年、第7章
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