2012年1月10日 連帯・共同ニュース第212号
■ 「3・11」から早くも10ケ月が経ようしている。これは現在でも進行形の事件である。被災地の人々にとっては復旧も復興も未だその途上にありそのようにある。だが、他方でそれを忘れさろうとする動きもある。政府の「福島第一原発事故収束」宣言はそうした一つである。現在進行形の原発震災に線引きをして、事件を小さく見せようとする動きである。こうしたいうなら人為的な過去化作業とは別に、歴史の流れというべき動きがもう一つあることを見ておかなければならない。次から次にと事件が生起し、「3・11」だって忘却とは言わないが相対化されて行くことがあるのだ。それも歴史的事件として過去化され、その度合いだけ現在からは相対化される。「3・11」の大震災の被災地から距離のあるところの住む人々にはそういう傾向が強くなる。どんな大事件であっても時間が経てばそうなる契機を自然として持つが、現在では歴史的な事件の生起する度合いとその流れが速くなるからそれが特にそれが強いのである。
■ 政府や電力会社などが自己の責任を免れ、また小さくするために事件を忘れさせようとする動きは姑息な方法も含めてある。これは怖くはない。だが、歴史の流れが事件の忘却化と相対化を促すのは怖しい。なぜなら、これは自然に属し、意志的(自覚的)な抵抗は難しいように思えるからだ。つまり、人為的な権力の所業に対してなら抵抗の持続も困難ではないが、自然に属するように見えるものには抵抗の持続は難しいのである。僕らは歴史の流れの中で出てくる自然観《自然という流れに解消してしまう意識》もまた日本では権力の思想であることを自覚しなければならない。政治権力や社会権力は人為的なものとしてあるように思えるが、その背後には自然なものがある。それは権力を背後で見えない形で支えている力でもある。権力に抵抗し政治や社会を変えて行こうとする部分にとってはこの存在はいつも自覚していなければならないことだ。時は権力に味方するように働く方が多いのだ。脱原発の運動もまた同じである。3・11から時間が経てば脱原発の運動はそれだけ困難が増して行くことはあるのだ。人々の希望や願いとは別に時間は権力の方に味方になる。だから、意識的な自覚的な執着が必要である。この執着はなぜという問いには自然の流れが権力に加担することへの抵抗として出てくるが、今の脱原発の運動に必要なことだ。テント前広場という意志空間はその執着の象徴である。テントは自分にとってだけではなく他者にとっても必要な抵抗=執着の持続である。 (文責 三上治)