安倍政権下では、明治以降の日本の歴史を全面的に肯定する歴史修正主義的な議論が目立ち、元首相自身も、東アジア諸国に対する日本の加害の歴史を否定する議論を好んだ。これに対して中国や韓国などばかりでなく、欧米諸国の政府やメディアからも、その傾向を懸念する声が上がっていた。
芥川賞作家の奥泉光氏と現代史研究の加藤陽子氏の著書『この国の戦争:太平洋戦争をどう読むか』(朝日新聞出版)は対談形式で、歴史修正主義の議論だけでなく、いわゆる通説の見直しを促す最新の研究成果を紹介している。教科書でも研究によって定説が変われば、定期的編集作業のなかで書き直されている。本稿では、他の著作も紹介しながら、3点を取り上げる。
真珠湾奇襲攻撃
真珠湾攻撃が不意打ちになったのは、ワシントンの大使館職員がタイピングに手間取ったからだとか、ローズベルト大統領によって仕組まれた罠に嵌ったからだなど、日本を免責する物語が長く語られてきた。一定以上の年齢層の人々には馴染みある話であろう。
しかし現在では検定教科書でも、奇襲攻撃は日本軍が意図して実行したものと説明されている。つまりアメリカ太平洋艦隊に、より重大な損害を与えるための日本側の謀略であったとする説が採用されている。最も多くの高校で採択されている山川出版『新日本史』では、次のように記述されている。
(日本は)アメリカ・イギリスに宣戦布告して太平洋戦争が開始された。その際、日本の軍部の謀略によって、日本から駐米日本大使館への電報が遅らされ、そのため日本大使館から交渉打ち切りの通告が遅れた。
加藤氏らの著書でも、この問題については元外交官の井口武夫の『開戦神話』(中央公論社、2011年)の紹介も含めて、詳しく説明されている。興味深いのは官僚たちの動きである。終戦直後に作られたストーリーには、極東軍事裁判における外務省の責任回避の思惑も働いていたと指摘している。つまり、外務官僚たちは、開戦時と終戦時の外務大臣だった外務官僚出身の東郷茂徳を守るべく、駐米大使館の不手際説を意図的に流したというのである。開戦時の駐米大使は海軍出身の野村吉三郎であったこともあり、外務省を免責し海軍の責任を強調したという。
日独伊三国同盟
日独伊三国同盟は1940年9月に締結されている。山川出版『新日本史』では、締結の経緯について、以下のように説明されている。
ヨーロッパにおけるドイツ軍の相次ぐ勝利により(40年6月ナチスドイツ軍のパリ占領など:筆者注)、陸軍を中心に、すでに1938年にドイツから提案されていた軍事同盟を結ぼうとする空気が強まった。……陸軍は、ドイツとの同盟に消極的な海軍穏健派の米内内閣を倒した。この結果、1940年、第二次近衛内閣が軍部の支持を得て成立し、9月には日独伊三国同盟を結んだ。
もっぱら国際情勢からの説明であり、国内事情としては陸海軍間の対立を指摘しているだけである。一般的な理解は今でもこの程度であろう。しかし、近年公開された資料などからは異なった景色が見えてくる。
加藤氏らの著書では、ドイツの動きを警戒する外務官僚らの見解が、政策判断に大きな影響を与えたことを指摘する。つまり、ドイツ優勢で講和が成立すれば、東南アジア植民地の再編は不可避となり、その際に日本が不利にならないよう、ドイツに接近するべきだとする意見が、政権中枢に強まっていたというのである。当時の日本は泥沼化した日中戦争に苦しんでおり、エネルギー、食糧の確保のため、欧米各国が植民地経営する東南アジアへの進出を企図していたからだ。加藤氏は以下のように述べる。
加藤:ドイツの完勝で第二次世界大戦が終わってしまうという恐れが強かったのだと思います。強い国と同盟を結んでアメリカに対抗したい、というよりは、南方の植民地の処理に興味があった。ドイツを牽制するための三国同盟ですね。
(中略)
奥泉:ドイツを牽制しつつ南方地域のブロック化を推し進め、資源の獲得を効率よく行うためには、ドイツと同盟を結ぶのがいいというわけですね。(137-138p.)
現在の教科書が採用している説に比べ、日本が同盟締結に踏み切る背景として国内の政治権力中枢の動きと判断に焦点が当てられ、より説得的である。教科書の記述も近いうちに変わっていくだろう。
なお、本書では触れられていないが、ドイツ軍完勝のもとで講和が実現すると考えた外務官僚の間では、ベルサイユ条約で日本の委託統治領となっていた旧ドイツ領の南洋諸島の返還要求がドイツからなされる可能性が懸念されたことも、三国同盟締結へ進む動機になったと指摘する研究もある。
大東亜共栄圏
以上のように三国同盟の締結が、ドイツ完勝の場合に予想された東南アジア植民地の再編において、日本の立場を有利にすることが直接の動機だったとすれば、同時期に作られ使われた「大東亜共栄圏」も、元々は植民地の再分割に関わる構想の用語だったことになる。
大東亜共栄圏については、2016年に出版された河西晃祐『大東亜共栄圏-帝国日本の南方経験』(講談社)が、用語の創出から、その後の使用法の変遷について、詳細な検討が加えられている。また今年7月には、安達宏昭『大東亜共栄圏』(中公新書)も出ているので、そちらを参照していただきたい。河西の書から一か所だけ紹介する。
松岡によって対ドイツ牽制策から勢力圏相互承認構想へと展開されていった大東亜共栄圏構想は、松岡の手を離れて「自存自給」のための構想へと祭り上げられたのであった。
だがそもそも松岡ですらその内実を詰め切れてはいなかった構想の中身が、他のメンバーによって深く検討されることはなかった。(85p.)
大東亜共栄圏は外務大臣だった松岡洋右によって唱えられるのだが、当初は、三国同盟と同様、ドイツを牽制する構想として始まったものの、目まぐるしく変化する国際情勢下、東南アジアの権益確保の議論に矮小化され、さらに植民地の欧米諸国からの解放という付け焼き刃的な戦争目的の議論に利用されたのである。
学術会議の任命拒否問題
安倍政権下、自民党内では「大東亜戦争」という呼称が好まれ、一部では「先の戦争は東南アジアを欧米の植民地支配から解放するための闘いだった」との議論を展開する動きさえ目立った。例えば麻生太郎氏は、繰り返し大東亜戦争という語を「失言」している。しかし、最新の研究は、そのような単純な議論を完全に否定する。省庁などの機関、さらに個々の軍部を含む官僚たちの行動記録のレベルまで明らかにして、政策決定過程を明らかにしつつあるのである。
知られているように加藤陽子氏は菅政権(実際には安倍政権で決定されていたが)によって、日本学術会議の会員に推薦されながら任命が拒否された。政権側は一切、説明を拒否しているので、詳細は不明である。しかし加藤氏の研究が、歴史修正主義者たちの姿勢を冷静に正面から否定するものであることが明らかであり、任命拒否の理由が奈辺にあったのか推測させるに十分である。
安倍氏が亡くなり、修正主義的議論の声はかつてほど大きく聞こえてこなくなった。現政権が安倍政権時代の姿勢を修正し、国際的な信頼を取り戻したいのであれば、遅ればせながら加藤氏らの会員任命手続きを行うべきである。
初出 :「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion12481:221024〕