40. 仏教の伝統の中にある日本には「因果応報」の意識が強い。特に悪いことをやるとそれがブーメランみたいに自分に帰ってくる。敬愛する日本女性が、人を殺した犯罪者は死刑を前に死と直面する必要があると仰る。僕は今のところ人を殺していないけど、大動脈瘤らしきものにひびが入るのを恐れて生きている。普通、僕らは死と直面しているのだが、直面しているあたりまでが「因果応報」なのである。人を殺したのは、節制を怠ったのと同じで、死に直面しているのは死刑囚も僕も同じであるわけだ。死んじまえば「因果」は及ばない。あるいは、死から始まる「因果」は、生前の人物の責任の範囲外にある。
12. (12番が抜けていたので、ここで補う)有閑階級に属す学者たちがトマス・モ
アが匿名で書いた「ユートピア」を論じている。戦後日本にもエラスムスと
並んでトマス・モアのファンは多い。彼に関する映画もあるが、研究書のほ
とんどすべてが、基本的には「軍事国家」であるモアの「ユートピア」を論
じている。なかには当時英国の政治的最高位であった「大法官」に収まって
いたモアの政治家像を細々と述べているものもある。
ところがだ、そういう研究書に限って、「国王至上法」に反対して死刑への
道を歩むモアについては何も触れていないのだ。
要するに「成功者」としてのトマス・モアは戦後日本の「優等生」たちにも
好かれているが、彼の反体制的な最後のステージについては校内暴力を無視
するスタンスの優等生たちらしく、やはり無視の態度を貫くのである。
歴史的にも、政治的にも、更には宗教的にも(彼はカトリック教会から聖号
を与えられている)、モアが偉大とされるのは「通俗的」には彼が当時の大
逆罪に連なってからの彼の国家権力に対する姿勢から「死刑」に至るまでの
茨の道によっている。
また、「ユートピア」が「軍事国家」であるにもかかわらず「憲法第九条」
に反対するファシストたちの教本になりえない理由は、今さらここに繰り返
すまでもないだろう。もちろん、ここでは死刑廃止が目的なので、紙幅を節
約せねばならない。
41. 醍醐聡氏の内閣府およびメディア報道批判:醍醐聡氏はご自分のブログで内閣府の死刑存続への国民支持率統計とそれに対するメディアの姿勢を批判しておられる。「ちきゅう座」2012年4月1日。
『私は昨夜のNHKのニュース画面にこの85.6%という数字が「場合によっては死刑もやむを得ない」という選択肢への回答だったことが映 されたのを見て奇異に思った。「場合によっては」という条件を付けた死刑容認の回答を「死刑容認」と一括りにカウントしてよいのか?こうした回答は「死刑 の是非はケースバイ・ケース」という意味だと解釈することも大いにありではないか?』
42.刑事事件における「死刑」には「国家組成」上の権威意識がある。優等生は「国家」の枠組みを信じて疑わないような意識上の限定線を持ち、その線を越えた現象を解釈しようとしない。法律などを学んだ輩は「国家」にしか住めない体質にさえなる。また現在の日本共産党を含めた「優等生・左翼」たちは、特に戦後、「社会」や「日本社会」で「前衛」意識の下に立ち(これが実際的な市民的リーダーシップに結びつかないところに問題があるのだが)、「戦後社会」との意識上の齟齬を生じたまま、バブル後の時期にはむしろ「国家意識」への転回を推進し、特に日本共産党は完全な「国内政党」として地歩を固め始め、現在に至っている。日本の明治維新後の「優等生」は「ステイツマン」としての意識を持ちやすい。「社会」を睥睨しながら戦後優等生組織の官僚制の生育を祈って「戦後の虚妄」に賭けたりしてしまうが、今振り返ってみて、新しい「優等生」はその後、先祖返りしていくのみであった。つまり、「死刑」は現在も、その出世民主主義的な体制に育った「優等生」たちの手中にある。
刑事畑で、一度「死刑判決」を出した判事は一つのステップを得るに違いなく、メディアや司法組織の動きのなかで注目を引くようになる。「死刑判決」は、そのような機能を負ってはいけない。
43. 「死刑執行」の経費は「殺人プロセスの経費」でしかない。生産を伴わず犯罪対策は社会に還元されない。