61.「国民国家」はひとつの行政体の中に民族社会を閉じ込めてしまう。だから、「死刑」はある時点から社会秩序とともに国民管理や民族管理の機能をも果たし始める。「近代法体系」は、如何に日本が「単一民族」であろうと「国家」と「法体系」との両規制の間に「民族」や「社会」の多元性を引き裂いている。その意味では神島二郎の言う「馴化単一社会」は常に近代法制の前で完成の邪魔をされ続けているのだ。しかも、「死刑」に帰着する日本国家の「法治」あるいは「法の支配」は、ここでは明らかにゲマインデに根ざす民族の固有性の成長に対する警戒を強め続けている。つまり、「死刑判決」は個々のゲマインデの保守的、祖国的、ふるさと的、共同体的反発を封殺する近代日本国家の道具のひとつになっている。われわれは近代史において朝鮮から始まり沖縄も北海道も中国大陸も台湾も、最近は尖閣列島まで飲み込み続けてきたのである。「土着右翼」のこの点における怠慢は明らかであり、現在、彼らの多くは国家官僚勢力「優等生」組織のチンピラ的警護班に堕している。そして「荒魂」は石川淳の小説に閉じ込められ、「いやな感じ」(高見順)は過去の記憶の下品な表現とされてしまうのだ。(最近の日本の平和ボケ小説はノーベル賞候補作すら読んでいないんです。ごめんなさい。もちろん、マリオ・バルガス・ジョサが60年代から積んだラテンアメリカの現実は、かの日本という「法治国家」のマージナルな局面をさえ照らし出している。「緑の家」参照。)
62. ガリバーは、空飛ぶ島「ラピュタ」を後にして陸地に降ろしてもらう。「ラピュタ」がどのような「高踏的空中楼閣国家」であるかはともかく、「バルニバービ」は明らかにわれわれの近代史における「植民地」そのものなのだ。
「忙しそうにしているくせに、何もいい結果が生まれていないのは一目瞭然だったし、それどころか、こんなに無茶苦茶に耕された土地も、こんなに廃屋同然といってもいいくらいいい加減に建てられた家屋も、こんなに悲惨と欠乏そのものといった表情や態度を示している国民も私はまだ見たことがなかった」(242頁、岩波文庫)。
これは第三世界の姿だ、とは、いまや仮説にすらできない。この状況はいまや先進諸国内の「国内植民地化」の一風景でさえあるのではなかろうか。(訳者の平井正穂氏はスウィフトに対する好意に欠けているように見える。僕ほどお人よしでないのは結構だが、彼が社会科学の眼を持っている可能性を看過しておられるのかもしれない。)
このバルニバービにも第三世界に特徴的なラピュタ側の勅許を得たいろいろな専門分野が統合された研究所(アカデミー)があるのだが、これらの研究所も現実の急襲を受けた場合、やはり日本の高等研究所のように『予想外』を繰り返すだろう。それは彼らが「現実」と向き合わず「優等生」の世界にいるからだ。実はこれこそが日本における集団的「誤審」、すなわち「冤罪」の発生する構造的要因なのだ。もちろん、これらの高等研究所では大橋教授のようにプルトニウムの味付けにこだわったり、いくらシーベルトを上げても子供が甲状腺癌にならない手段を考えたりする人たちがいるのだろう。
63.近代日本の組織システムには思想や宗教に対する真剣さが欠けており、それは底の浅い技術革新や世代交代の身軽さを社会に用意するが、その不定さに≪締り≫を与えるのはやはり彼らの「島国国家観」である。マルクスは「宗教はアヘン」であると言って、ドイツ国民の宗教性を批判した。日本の近代はその言葉を深く政治の中に生かしきっている。ビスマルクに学んだ伊藤博文は仲間内では操り人形を操る手まねをしながら「明治大帝」の立場を半分同情もしたそうだ(「大日本帝国の試練」隅谷三喜男)。然るに、その身振りはおのずと大衆の中にも浸透し、国歌、国旗と言いながら、それらが単なる「道具」に過ぎないことを逆アッピールしている。そのようなシステム上の問題が「死刑判決」と「死刑執行」へのスタンスを司法官僚や行政側において意味の軽いものにしている。そしてこの態度は「島嶼」空間の中では別に特別なことではなく「常識」なのである。
64.ウィキペディアを真に受けると江川紹子は:
『「やむを得ない時にのみ課せられる死刑」と無期懲役刑との間に仮釈放のない終身刑を導入するという考えを持っていたが、医療刑務所で手厚い介護を 受けている高齢の収容者と施設に入れず孤独死する一般市民がいる矛盾などから、終身刑の導入とそれに伴う死刑の廃止には反対との考えに変わったという。』
ここにも日本における幾層にも重なった「不定」な判断の形態がまとめて出現している。いわく、「やむを得ない時にのみ課せられる死刑」もそうだが、「医療刑務所で手厚い介護を受けている高齢の収容者と施設に入れず孤独死する一般市民がいる矛盾」という論法はまったく別の次元の社会的事象をふたつ並べてその「差異」を「矛盾」と言い張っているようなものだ。ただ「死刑囚」が痴呆症でぼけてしまった場合、それでも彼を「死刑執行」する論理もまた「国家の殺人」の性格を物語る。江川の立場からは国家との共犯関係に立つか否かか、勲章をもらえるかの問題でしかない。
65.「死刑」や「収監」が基本的にはシステムや組織からの排除として運営されていること。誰が何を何で排除するのか。日本国家が犯罪者を日本国民の目を意識して正義の執行として排除しているのか。ここではルーマン的な問題も生じてくる。「法治国家」というシステムだけが、社会の生み出すシステムなのだろうか。日本の組織、日本の企業、日本の学校、日本の村、日本の家族、日本の同好会、日本の宗教団体、これらシステム上のイデオロギー問題の頂点に「死刑」が現れるのは、漫画の話ではない。