東日本大震災による被害を伝える遺構の撤去が進んでいる、とのニュースに接するたびに、私は「見るのがつらい、という地元の人たちの気持ちは痛いほど分かるが、大震災の被害を永く、具体的に後世に伝え得る、かけがえのないモニュメントなのだから、ぜひ保存してほしい」という思いにかられる。同じ原爆の被害に遭ったものの、被爆のシンボルを残した広島と、残さなかった長崎の差をこれまで長い間見てきて私としては、「歴史に残る出来事への人間の記憶は、その出来事を象徴するシンボルがあった方が、シンボルがない場合よりも、より鮮烈となる」と考えるようになったからである。
報道によると、宮城県気仙沼市のJR鹿折唐桑駅前に、東日本大震災の津波で打ち上げられていた、福島県船籍のまき網漁船「第18共徳丸」の解体作業が9月9日から始まった。気仙沼市が7月に市民を対象におこなったアンケートでは「保存が望ましい」とする回答は16%にとどまったという。「震災を思い出すから見たくない」というのが、大半の市民の感情だったようだ。
また、やはり東日本大震災の津波を受けて鉄の骨組みだけが残った同県南三陸町の防災対策庁舎について、佐藤仁町長が9月26日、「残すとなると、庁舎の存在が復興事業の支障になる」と述べ、解体・撤去する方針を表明した。11月から解体作業が始まる。
この庁舎では、迫り来る津波からの避難を防災無線で呼びかけた町職員、遠藤未希さんら42人が犠牲となり、全国的な注目を集めた。町は当初、保存する方針だったが、遺族らから「見るのがつらい」との声が出たことから、方針を転換した。
地元の事情は理解できる。なによりも地元住民の意向は尊重さるべきだ、と思う。でも、私は「なんとも残念。できれば、どちらも残してほしかった」という思いを禁じ得ない。なぜなら、広島、長崎という二つの原爆被爆都市で、被爆建造物をめぐる市民の反応を見てきたからである。
私は1966年から“広島詣で”、“長崎詣で”を続けている。毎年8月に、両市で平和記念式典や原水爆禁止大会が開かれるので、その取材のためだ。1994年までは全国紙の記者としての出張だったが、その後はフリーのジャーナリストとしての訪問である。
広島を象徴するものは「原爆ドーム」だ。広島県産業奨励館だった建物だが、あの日、すぐ近くで破裂した核爆弾の爆風や熱線で破壊され、いまでもその無惨な姿を天空に向かってさらしている。それを見上げられる場所に来ると、だれしも歩みを止め、しばし無言になる。想像を絶する原爆のすさまじい破壊力に圧倒され、身動きができなくなるのだ。折れ曲がった鉄骨、焼けただれた石壁やレンガ、ドーム周辺に散らばる破片を眺めていると、原爆の閃光で焼け死んで行ったおびただしい市民の苦悶が胸に迫ってくる。
内外から広島を訪れる人で、原爆ドームを訪れない人は、まずいない。いまや、原爆ドームは「世界平和」と「核兵器廃絶」を訴えるシンボルとして世界の人々のイメージの中にしっかりと焼き付いた存在となり、1996年には世界遺産に登録された。
そこに至るまでに、保存か、撤去かをめぐって市民の間で論争があった。中国新聞社編『ヒロシマ四十年 森滝日記の証言』(平凡社、1985年)には、こんな記述がある。
「ヒロシマの悲劇を象徴する原爆ドームの存廃論議が出始めたのは、広島の復興が軌道に乗った二十六年ごろ。『ヒロシマを後世に伝える貴重な証人』という保存論に対し、撤去論は『ドームを見るたびにあの日を思い出してやりきれない』という被爆者の悲痛な声だった。その後も存廃論が繰り返されるなか、ドームの損壊は進み、広島折鶴の会が街頭で募金や署名活動を始めた三十七年から、ドーム保存の世論が高まってきた」
「こうした世論に広島市もようやく腰を上げ、四十年度予算に原爆ドーム補強調査費百万円を計上、同年七月末から佐藤重夫広島大工学部教授らが調査し、同十一月『補強工事により保存可能』と報告した。この日、広島市議会が満場一致で採択した『原爆ドーム保存の要望』決議を受け、浜井信三市長は原爆記念日の八月六日、『ドーム保存のため、国内はもちろん国際的にもできるだけ多くの人々から募金を募る』と発表した」
その後、広島市は保存資金の募金を呼びかけ、6600万円が集まった。これを基に67年8月、ドーム保存工事が完工した。
私はこれまで、広島で出会った広島市民に、原爆ドーム存廃についての意見を求めてきた。全員が即座に答えた。「やはり、残してよかった」と。
一方、長崎はどうであったか。
私が初めてここを訪れたのは1964年だが、広島の原爆ドームに匹敵する被爆遺構が見当たらず、意外に思ったことを記憶している。何かあるだろうと探してみたら、爆心地から南東へ800メートル離れた山王神社参道に「片足鳥居」があった。核爆弾の爆風で鳥居の半分が吹っ飛んでしまったのだった。貴重な被爆遺構と思ったが、これでは被爆のシンボルとしては原爆ドームに到底かなわないな、というのが率直な感想だった。
長崎に被爆を象徴する建造物がなかったわけではない。長崎市民ならだれしも、広島の原爆ドームに匹敵する被爆遺構と考える建造物があった。爆心地の東方500メートルに建っていた「浦上天主堂」だ。浦上地区のキリスト教信徒による30年もの勤労奉仕と募金によって1914年(大正3年)に完成した聖堂である。
しかし、原爆で破壊され、廃墟と化した。天主堂にいた信徒30数人と司祭は即死。そればかりでない。浦上の信徒約1万2000人のうち8500人が被爆死したと言われている。
廃墟となった浦上天主堂は、いまや存在しない。撤去されてしまったからだ。その間のいきさつを、長崎平和研究所編『ガイドブック ながさき』(新日本出版社、1997年)は次のように書く。
「浦上天主堂の廃墟は、広島の原爆ドームとともに、原爆の威力と悲惨さを物語る長崎の代表的な原爆遺跡として注目されていました。そして、広島の原爆ドームと同様に、これを核戦争の負の遺産、平和祈念のシンボルとして永久保存しようとする被爆者と市民たちの声は高く、市議会でも活発に討論されました。だが、破壊がすさまじく、保存が困難であるとか、天主堂の代替地が見つからないなどの理由で、1958年4月ついに全面撤去され、長崎はこの歴史的な証人を失ってしまいました」
これまで、私が長崎で出会った人たちは、みな、「浦上天主堂の廃墟を残して置くべきだった」と嘆いた。そこには、由緒ある建造物はいったん撤去してしまえば再び目にすることはできないという無念さがにじんでいた。
ところで、2009年に平凡社から出版された、高瀬毅著の『ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」』が、波紋を広げている。これは、浦上天主堂の廃墟が取り壊された経緯には謎が多いとして、その解明に挑んだノンフィクションだが、その中で、高瀬氏は、天主堂の保存に当初積極的だった当時の長崎市長が、米国を訪問後、「原爆の悲惨を物語る資料としては適切にあらず」と発言して、撤去路線に転換した事実を指摘し、市長の翻心の裏に、天主堂の廃墟を残すことを歓迎しなかった米国側の働きかけがあったのでは、と推論している。
米国はなぜ天主堂の廃墟を残すことを歓迎しなかったのか。高瀬氏は「米国からみれば、それは反核・反米感情を刺激する建造物として、キリスト教徒の上に同じキリスト教徒が原爆を落とした罪の象徴として、忌まわしいものに映っただろう」と書く。
私は1977年に、崩壊前のソ連のスターリングラード(現ヴォルゴグラード)を取材で訪れたことがあった。ここは第2次世界大戦で独ソ戦の舞台となり、この街をめぐる攻防戦が7カ月にわたって行われ、双方にそれぞれ数十万の戦死者を出した。結局、ドイツ軍が敗れ、第2次大戦の転機となったわけだが、攻防戦で破壊された街の一角がそのまま保存されていた。
また、ヨーロッパの歴史に詳しい友人の話によれば、やはり第2次大戦中、連合軍の空爆によって街の大半が灰燼と帰した東部ドイツのドレスデンでは、戦後、破壊された市街が復元されたという。ポーランドの首都ワルシャワも、第2大戦による戦火で荒廃した市街を戦後、復元したとのことだ。
どうやら、ヨーロッパでは、歴史的な出来事の舞台となった地域の建造物は後世に残そうという伝統が根強いようだ。それにひきかえ、日本は歴史的遺物に対しては概して淡泊と言えようか。この違いは、ヨーロッパが伝統的に石の文化(建材は石)であるのに対し、日本は木材と紙の文化(建材は木材と紙)だからであろうか。
初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
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