殺人的国家財政赤字、これこそが金融資本主義の剰余価値搾取そのものではないのか? オールジャパンとちきゅう座読本テキスト化近未来努力目標について

副題:即座に変えられる日本の意識と政治。ジャーナリズム限界大学アカデミズム限界を問う知性情報革命としての対話的連帯と実践

 

(1)植草一秀オールジャパン、ネット始動への期待と要望

(2)財政赤字の構造からみる資本論

(3)日本のあらゆる負の遺産から決別する革命の論理学。

 

ここ数日のちきゅう座投稿は、特に読み応えのあるものが多くあった様に感じていました。

(ついつい読み込んでいて筆が止まっていました)

 

また、報道番組でも報じられていたシャープの話、東芝の話などまさに、『資本主義の終焉と歴史の危機』にて語られている「利子率革命」そのものの様な様相です。

 

安保法制、TPPとアベノミクスの失敗と共に違憲的ほころび、苦しい行き詰まりを見せてきているのではないでしょうか?

 

 

(1)植草一秀先生のオールジャパン、ネット始動への期待と要望

安倍政権の違憲安保法制閣議決定を許さない

http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/post-225a.html

「そのための運動をネット上で始動させる予定である。」

 

「知られざる真実」ブログだけではなく、オールジャパンとしてのホームページ的独立が支えられる可能性があるのか?

 

まさに自民党や民主党や日本共産党が持っているような政党的ホームページを凌駕する出発が飾れるならこれには期待が高まらざるをえない。

 

しかし、既成の政党のホームページは、退屈で、あまり足を運ばないのだけれども、山本太郎氏がやっているような、ツイキャス、動画を取り入れられる対話的連帯と補助支援者の投稿を集められる様な、第二ちきゅう座的システムを取り入れていくのはどうでしょうか?

 

一人で、政治は、出来ない上に、大衆への広報と啓蒙的要素においてしか広がって行かないものだからです。

 

残念ながら権威対権威の戦いとなっている政治への関心は、国民的に低く、自民党の独裁、やりたい放題を許している状態となっています。

 

朝日新聞社もTBS毎日新聞も個々の記者の中には、抵抗を試みたいと心に思っているものもいないわけではないはずですが、いよいよ大政翼賛会的日本の政治、経済の行き詰まりの中で、どの様なスタンスで、どの様な、方向に向けて、情報発信すべきか戸惑っている様子が見受けられます。

 

今の日本の政治的経済的貧困的危機に対して、居ても立っても居られない人々が、ツイッターなど声を上げ、更に、ちきゅう座やたんぽぽ舎の集会やデモに合間を縫いながら参加しているがまだまだ、暗中模索的で、連帯の力を発揮できているとは言い難い状況をリードする為のオールジャパンの呼び掛けであると期待する訳です。

 

従来の左派や労働組合運動的な逆側の全体主義ではない、しっかりした対話から連帯へと日々向かう動画やツイキャス的な山本太郎氏の持つ、視覚化を取り入れた始動こそ、求められている様に感じられるのです。

 

山本太郎氏は、かつては、新党ひとりから新党ひとりひとりへ更に、生活の党と山本太郎となかまたちとはなっているものの、ツイキャス演説となると一方的に、歩行者、大衆へと政治演説となる域を出ない限界が感じられています。

 

小沢一郎氏と政党を組んでもまだ新党ひとり的な様相に感じられる部分があります。

 

本来、主張が、的を射ていて、多数派を形成していくのがディベートであり、民主主義のはずですが、たとえ巨大資本や既得権益、利権に阻まれていようとも、先に書いた方向の確からしさやスタンスを決められない予備軍的記者やツイッター発信者が点在しており、連帯して多数派を広げて行けず、孤立している人々の接着剤となるオールジャパンの場を期待したい訳です。

 

その様な、暗中模索している抵抗を既に、ちきゅう座もしています。

 

政治的連帯と多数派、巨大資本と自民党に対抗する為に、かつての民主党政権の様な、野合ではない、知的連帯を基礎にしながら、対話的に、納得の中で、広げていかねばなりません。

 

四年後の総選挙までとしても時間がありませんし、民主党以上の勢力として、更に、植草一秀先生の6大問題を理解して、賛同、連帯しつつインターネット基地をツイッターやフェイスブック個々バラバラな書き殴りではなく、協力して、オールジャパンホームページをブログの域を越え、動画、ツイキャスを交えつつ、植草秀一先生の書き込みだけではなく、第2ちきゅう座的もしくは、ちきゅう座と連携して、打倒自民党暴走政治としての基本姿勢的対話連帯としての具体性、実践性を視野に入れる事を是非、お願いしたい訳です。

 

リベラル21、たんぽぽ舎、ちきゅう座それぞれあって更に、その様な、拠点が、増えつつ、こころざしを同じくする者の作業目標や学習ともなる投稿拠点やちきゅう座的読んでから投稿掲載の方法は、書きっぱなし、置きっ放しともならず、庶民、大衆としての政治的興味の高まりや受動的だけではない参加としての場たるオールジャパン連盟の深まりともなるからです。

 

是非、この様なアンチ巨大資本、アンチ自民党、民主主義を取り戻す有志からリゾーム的展開の望めるインターネットにて5大都市をつながられる基盤を期待したいのです。

 

(2)財政赤字の構造からみる資本論

 

国家と経済

http://revolutio.exblog.jp/21765065/

『略奪国家』

『資本主義の終焉と歴史の危機』

『21世紀の資本』

いずれも、非マルクス経済学側からの問題提起となっています。

 

宇野理論とマルクス

http://gken.sakura.ne.jp/gken/wp-content/uploads/2014/12/main1.pdf

こちらの見解では、資本論でのマルクスの立場は、〈収斂説〉となっていますが、やはり、僕としては、あくまで、収斂ではなく、〈革命〉であったと考えています。

5月30日世界資本主義フォーラム(小幡道昭氏)のご案内

https://chikyuza.net/archives/52990

資本論の読解が、難解であるまた、完成された著作だけではなく、草稿が多重にあり、しかも、第2巻第3巻は、マルクス自身が、完成したものではない故の永遠の未完性があろうからです。

 

しかし、本来は、マルクスが問題なのではなく、資本主義社会の分析が、問題であり、現実の社会が問題である手助けとして、『資本論』が、役に立つのか?

 

その個々人の主体性こそが問題であり、労働者の民主主義が問題なのです。

 

賃金は、労使の闘争によって決定される。

 

もし労使が対等であるなら何が剰余価値であるのか理解し、正当な賃金要求が、知識的にも教育的にも法的にも到達しているならその段階にて、資本主義と言う搾取する者とされる大部分の者の対立は、克服され、平等性の中で、共産主義ではなくとも社会主義として、到達していると言えるからです。

 

給料袋の中身は、初任給20万円であるべきか?21万円であるべきか?

 

これは、質の問題ではなく、具体的な量の問題であり、計算される問題、そのサンプルとして、価値形態論もあるのですが、モデルを具体的な状況に、当てはめる事が出来る前に、労使の権利としての平等性は、何によっているのかの問題が、剰余価値以前にあるのではないかとなるでしょう。

 

WーGーW’売るために買うか買う為に売るかはどちらでも良いのですが、

 

貨幣が、貨幣と交換される様になっていくWーW’(利子)の付くサラ金や金融の場としての取引の正当性は何によって担保されているのかと言う事の問題こそが、金融資本主義の問題ではないでしょうか?

 

資本論が、商品と貨幣を問題として、労賃としての狭い搾取、どこかの工場や会社の事をモデルとしてまずは、考察しているのではないかと言う事が、誤りであり、

 

まずは、『略奪国家』にて語られている様な、社会全体性としての略奪としての金融資本主義、具体的に、銀行支配、それだけではないが、

 

(p267『資本論』の新しい読み方)

さらに、大企業が大銀行と融合して「金融資本」になっている。その結果、一握りの独占的支配者と金融財閥が経済を支配し、国家にたいしても決定的な影響を行使するのである。

 

この全体を搾取としない限り、財政赤字の説明は、つかないのではないだろうか?

(未来が、食いつぶされている!)

http://revolutio.exblog.jp/21795046/

 

まさに、利子(搾取)が、利子を呼ぶ、高利貸しの世界が、ここにあると言う事に他ならない。

 

『カジノ資本主義』の中でも、語られている様に、実態経済的な労働による正当性もなく、ただただ、金融の支配によるGーG’としてある事を明確にするだけで、その構造は、革命権の対象となるのではないだろうか。

http://revolutio.exblog.jp/

 

資本論の剰余価値とは、その事を語っているのであり、金融資本主義の支配に結び付けて、考察されるべきではないだろうか。

 

具体的な問題に結び付けられないのであるなら何ら唯物論的でもないと言う事になり資本論は、無味乾燥な観念論のモデルに収まってしまうだけとなりはしないのかという事である。

 

しかし、ここで述べられる事柄は、資本主義のシステムを裁く事ではなく、放漫経営の金融資本主義、資本家的であったりと言う人を裁く事であり、無責任支配を裁く、もしくは、革命権的法的措置を執行する事であるという事である。

 

田中一郎さんの述べる東電の賠償こそが、それであり、更に、東電のみで支払えない場合、本来は、何ら、罪のない国民の血税を当てるのではなく、強欲資本主義、支配階級、官僚支配としての支配階級の経営責任としなくてはならないその為の政治革命が、急がれると言うオールジャパンとしての植草一秀氏の論に結びつくのではないだろうか。

 

原発はいい加減な管理をして他人様に大迷惑をかけても、賠償も補償も謝罪もしないのか=踏み倒される原発震災被害者の損害賠償・補償

https://chikyuza.net/archives/52968

 

裁かれるのは、金融資本主義の支配者階級であり、技術者立国としての合理的シムテムではない、剰余価値の終焉が、資本主義の終焉であり、社会主義、民主主義のシステムへと移行する。

ピケティ氏の言う教育格差健康格差が是正されるという事である。

 

では、具体的に、どこからが、剰余価値的搾取性であるのか?

 

既に、述べているように、質ではなく、量的規定の具体的問題として測るにはどうしたら良いかの問題であるのだろう。

 

(具体的に現在のそれぞれの値段は、剰余価値を含まず適正かを問う事であり、ブログは、ここでも無料で使用しているが、ちきゅう座ページの維持費は幾らか?オールジャパンページ作成の値段、維持費は、幾らであるのか?人海戦術的多数派としての労働者階級社会主義技術価格としていく事、その具体的な経済学的書き換えから開始されて然るべきであり、その討議を総会へとあげていくべきと考えているのです。)

 

アラブの春でも、ガタフィ大佐は、無惨に裁かれ、贅沢な財産は、没収されたのだろう。

 

民主主義革命、二段階革命ではない悲惨によって、その後に、混沌が残されているのだろうけれども、日本の場合は、正に、システムとしての社会主義立国技術者立国、労働者国家として搾取のないモンドラゴン的協同組合的放漫金融資本主義的財政赤字国家ではない搾取のないオールジャパン民衆労働者国家に移行できる二段階革命的あり方を示すことが出来ている。

残存するシステム非人間的非人倫的部分の追放機械主義から社会主義=人文主義復興への移行と量的規定としての剰余価値資本家階級の放漫経営の追放だけである。

 

ここをまず明確にしなくてはならないだけの事である。

 

革命権とは何か?

大塚家具のお家騒動にも若干、学べるかも知れないが、更に、オールジャパンは、民主党政権の骨抜き傀儡化からも学ばなくてはならないだけである。

 

真の政治革命とは何であり、外交政策論としてのヴィジョンを孫崎享✖️植草一秀動画対談ツイキャスなどの広報によって、オールジャパン連帯を広げて行くのが、次のステップかも知れない。

 

アメリカ土下座外交だけの盲目だけではない、真のアジア外交、中国、韓国、北朝鮮、ロシア、外交、更に、ヨーロッパにまで、広げよという事である。

 

当然、無責任歴史支配としての戦後史、「屈辱の日」問題、辺野古基地問題、としてのオール沖縄延長としての政権が、オールジャパンのヴィジョンであるのは当然であろう。

 

植草一秀氏のネット始動始動が、ブログの枠を越えでて、フルに、インターネット技術を活用されるホームページ形式へと成長される事を期待する、支援する資本論分析、資本主義分析、金融資本主義分析乗り越えとしての論理学的基礎が、これとなるわけであるのだ。

 

(3)日本のあらゆる負の遺産から決別する革命の論理学。

 

では、必然的日本革命としての論理学を明らかにしていくべきである。それと、インターネット戦略、オールジャパン、『ちきゅう座読本』『うちゅう座読本(文化実践力批判判断力批判美学総体系)』は、如何に真体系化されるのか?

 

これである。

 

世界資本主義と世界革命の礎としての日本民衆蜂起としてのオールジャパン革命とは如何に、対話されそして、連帯され多数派を形成出来るのかの問題である。

 

『ちきゅう座読本』は、

ピケティ氏の『21世紀の資本』への日本からの返信であり、『真性21世紀の資本論と格差論』として、日仏対話として、池上彰✖️植草一秀✖️ピケティ対談を来年5月に企画出来るテキスト性を担保できるのかの挑戦であるのだ。

 

日仏外交政策、文化交流論

http://revolutio.exblog.jp/21794988/

 

既に、資本論も『21世紀の資本』もテキストとして、既在するものであり、弁証法的正反合としての『真性21世紀の資本論と格差論』テキストへと仕上げる『ちきゅう座読本』広報戦略と言うわけである。

格差論第二弾を打ち上げなくてはならない。

 

オールジャパンとちきゅう座の連携で、ちまちました入門的便乗出版物不況以上の事を大衆レベル、民衆レベルによって、公然と資本主義分析のテキスト化事業としようと言う提案となるわけである。

 

これが、全てのものへ先駆けての日本革命の第一歩となるわけである。

 

全力の連帯とテキスト化をオールジャパンと共に、皆で、仕上げていきましょう‼️

 

これは、新自由主義的資本主義剰余価値階級的便乗商法ではなく、正当なる日本からのフランスへ、そして、ピケティ氏への返信、謝辞としての企画テキスト化なのである。

 

『同時代言論の地平』としての展開である。

 

これ以上に、具体的な未来への道筋はあるのだろうか?

逆にお聴きしたいのだ。

 

過去の悲惨は、変えられない。

変えられるのは、近未来である。

 

続く。

どなたでも参加できます。若者たち多数の参加を是非、一愛読者の立場からもお願いしたい。

ちきゅう座第10回総会に向けて:運営委員長からのご挨拶(再掲載)

https://chikyuza.net/archives/52630