民主主義が正常に機能するための条件整備が必要なのだ。いかに迂遠であろうとも。

(2025年7月21日)
 惨憺たる参院選の開票結果である。なんとも虚しい限りの民主主義。社会が壊れかけている感がある。この世の行く末を案じざるを得ない。

 参院は、良識の府ではなかったか。選挙は、その良識を具現する手続ではなかったのか。民主主義の美名を汚し、排外主義を競い合う場にしてしまったのは、いったい誰の責任なのか。

 高校生だった昔の記憶がよみがえってくる。熱心な英語の先生が希望者を募って、課外で原書の購読会をやった。その教材が、バートランド・ラッセルの《What is Democracy?》だった。60年安保直後のころ。当時、まだラッセルは生きて活躍していた。

 細かいことはすっかり忘れたが、その内容が刺激的だったことだけはよく覚えている。それまで、民主主義とは疑いもなく素晴らしいもので、この世に民主主義さえあれば明るい未来が開けると教えられていた。民主主義こそが万能薬という思い込みを真っ向から否定する論旨だった。

 戦前には民主主義がなかったから、国民の自由は奪われ、貧困が蔓延し、侵略戦争が起こって国の内外にこの上ない惨禍がもたらされた。その反省から、日本にも民主主義が導入された。だから、もう大丈夫。国民の自由が奪われることも、貧困が蔓延することも、侵略戦争が繰り返されて国の内外に惨禍をもたらすことも、もうない。民主主義万歳だ。そんな楽観論を、ラッセルの書は、打ち砕くなものだった。

 ラッセルが説いたのは、民主主義が正常に機能するには、それなりの前提なり条件が必要だと言うことであった。その条件が調わないところでの似非民主主義は、権力に正当性を付与するだけの手続に堕する。無益というだけではない。時として、民主主義は危険な権力を生み出す。当然といえば当然のことだが、選挙結果に拝跪してはならない。果たして選挙に表れた民意は正しいか、常に心しなければならない。

 選挙が民主主義の全てではないが、あらためて選挙が正常に機能する条件とはなんだろうか。ラッセルが説くところではなく、昨今の事態を考えたい。
 大きくは、下記の2点に収斂されるのではないだろうか。
 (1) 有権者に提供される選挙情報の正確性の保障と、
 (2) 選挙情報を咀嚼して的確な投票をする有権者の判断能力

 (1)は、主としてはメディアの問題である。文字メディア、放送メディア、ネットメディア、マスメディア、ミニコミ、そして口頭の発言、意見交換…。ごく最近まで、その主流は、新聞とテレビの報道であった。その情報の送り手は、それなりの質を備えていた。有権者が受け取る情報の信頼性は比較的に高いものと前提されていた。

 ところが、ネット文化が一般化されるにつれて、事態は大きく変わってきた。新聞の購買数が激減してきた。若い世代はテレビも視ないという。選挙情報の主役はは、SNSやYouTubeに変わりつつあるという。明らかに、選挙情報の正確性は劣化している。むしろ、デマやフェイク、煽動の情報が有権者に届けられている。

 (2)は、このような劣化した情報の受け手である有権者が、それでも的確な判断ができる能力を備えているのかを問うている。ことは学校教育の質の問題であり、意見交換を重ねての世論を形成する文化に関わる問題である。残念ながら、有権者の能力は不十分極まるとしか言いようがない。

 とすれば、民主主義が正常に機能する条件の成熟はない。むしろ、急速に悪化している。それが、異常な兵庫県知事選挙や、今回の排外主義選挙になっている。明らかなデマとフェイクと扇情的な言動が、有権者のもとに繰り返し届けられ、扇動者の意図に有権者が操られている危険な構図が現実のものとなっている。

 扇動者の狙いは、有権者の不安な心情に付け入り、デマとフェイクと短絡的なキャッチフレーズで、攻撃の対象となる「敵」を作り出すことになる。ポピュリズム政治の通例である。人権という理念や、あらゆる差別を許さないという信念を内面化していない有権者は、ポピュリズム手法に惑わされることになる。

 この危険な事態を何とか是正しなければならない。民主主義を正常に機能させるために、愚直に、繰り返し、デマ情報に警告を発し、排外主義の危険性を訴えていきたい。

初出:「澤藤統一郎の憲法日記 改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。」2025.7.21より許可を得て転載

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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