民衆の理論の復興(1)中野@南京さんありがとうございます(2)中国愛としてのマルクス研究の位置づけ

(1)中野@南京さんありがとうございました。

前々回の資本主義フォーラム「21世紀の貨幣論」の時に、感じた疑問そのままであり、同じ危惧を感じて即日のうちに、氏自身の事を思って発言されたであろう優しさに嬉しさを感じていました。

 

不毛な議論で時間と紙面を浪費したくはないのですが、価値形態論の今日的暗礁、そして、宇野理論、廣松哲学についての問いは、アカデミズムとしての学者全体へと投げかかられている問いであり、根底的誤解によるものであろうともしっかりと答えていかねばならないものではないかと感じています。

何故、今だに基本的な誤解をも払しょくできないでいるのか?

それこそが、日本の学術そのものの低迷の原因ともなっているのではないでしょうか?

 

それが、マルクスだけの問題ではなく、アカデミズムそのものへの批判として反転してあるのだと言う事を是非、諸先生方、ちきゅう座的今後の発展のためにも肝に銘じてほしいばかりなのです。

 

自然科学の方法論と社会科学、資本主義分析の方法論としての関連については、再三、引用しているこちらに既にあるものです。

 

異常なピケティブームを支える経済学の貧困(2月25日掲載)

 

https://chikyuza.net/archives/51094

そもそも、近代経済学こそが、自然科学に狭めて模倣している事、ピケティ氏が、数理経済学に失望したと言う経緯について流布されている経緯から、更に、今日的マルクス経済学者の諸先生方は、アダム・スミスに回帰しつつ、対抗する意味で、「政治経済学」と言う表現に依拠、対置させている事が伺えます。

 

既に、資本主義フォーラムの方にて、ご指摘されている方もいるかも知れまも知れませんが、中野@南京産の様に、当日、行くことが出来ない方もいらっしゃるでしょうし、また、インターネット上の広報の方が、幾分広くもありますので、付けくわえてみました。

 

しかし、現在のマルクス経済学者の中流意識についての批判、怠惰さに対しての訴えとしては、決して、意味をなさないものではないものとして是非、受け止めてほしいと感じています。

 

さて、25日は、計画通りに、資本主義フォーラムには出席適わず、

社会理論学会

社会理論学会第109回月例研究会(2015年4月研究会)

https://chikyuza.net/archives/51906

こちらに、参加させていただきました。

かなり興味深い情報満載であり感謝するばかりです。

部外者は、参加できないのかなと前回の投稿にて、危惧を少し書き添えていたのですが、参加は、一般も自由との事でした。

そして、会員となる特典は、別にあるとの事でした。

 

レジュメも配布されていましたので、それに、即して、書き出したい欲求もあるのですが、それを、今行う事が出来ない膨大さがあり、いずれ、次回以降に少しづつでも展開できたなら幸いと思っています。

 

(2)中国愛としてのマルクス研究の位置づけ

さて、

25日は、一か月前の古賀茂明氏発言問題も再び、今更のように触りだけ取り扱わざる負えない「朝まで生テレビ」もあり、それなら、古賀氏自身をテレビ朝日は、「朝まで生テレビ」に呼んで、議論を尽くすと良いのであるが、その勇気も田原総一朗氏にもなく、やはり、形ばかりの口上に終始するに留めるばかりの不完全燃焼メディア支配を印象付けるばかりでした。

 

孫崎享さん一人を孤立して出演させる方法論、

植草一秀氏、古賀茂明氏「日本の言論規制とアメリカ支配」に抵抗する連盟として、複数参加させることによって、出演料が、かさむわけでもないだろうし、パネラー枠が、10数名と限られているわけでもないだろうし、首都圏的大集会議論の場として、解放する位でなくてはこの国の活性化は、不可能であり、その規制そのものが、日本の言論弾圧的メディア独占を地でいっているテレビ朝日、「朝生」田原総一朗支配の実態であるのだろう。

そもそも、もはや、民主党はいらない。その段階まで、日本の批判的知性の怒りは、達しているのだと言う事を知らねばならないのだ。

 

民主党の解体なくして日本政治再生なし

http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2015/04/post-1735.html

ブレまくる安倍晋三氏が米国議会で述べること

http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2015/04/post-72e1.html

政治経済学的核心について突きつけ続けている植草一秀氏、そして、古賀茂明氏の排斥に対して、何ら、無理解なる「朝生」は、まさに、メディアの残骸以外の何ものでもなく、取り残されていく日本の現状そのものの「象徴」であるのだ。

田原総一朗氏は、「象徴天皇」として自身の位置を保持したいだけなのだろうか?

どこまで、民衆をそして、人間の歴史そのものの悲劇を愚弄し続ければ気が済むのだろうか?

 

これほどに、今の日本は、危ういのである。

 

残念、本来、昨日の社会主義理論学会2015年度(第26回)研究集会(『さあ「資本論」を読んでみよう』著者余斌氏講演)

https://chikyuza.net/archives/52499

こちらについて最大限に語りたいものが多かったのですが、「前口上」があまりに長くなりすぎて、時間が来てしまいましたので次回とします。

 

 

(2)-2 中国愛としてのマルクス研究の位置づけ

余斌氏は、現在の中国は、過渡期である。そして、中国愛と民衆愛を基調にしている事が伺えて良かった。

では、次回、さらに、そのマルクス論の位置づけも交えて、序説の域をどこまでも抜け出せないのですが、語りだせたならと考えています。

 

(3)期待される学習会の再掲載

 

個人的な興味の範囲でいつも恐縮ですが。

 

5/2(土)茨城反貧困メーデー 働くのがイヤになった人のための階級闘争(茨城・つくば)

https://chikyuza.net/archives/52528

5・11ルネサンス研究所シンポジュウム -アラブ・中東世界の行方とパレスチナ-

https://chikyuza.net/archives/52410

第3回 シンポジュウム 7月13日(月)18:30~21:00

講師:的場昭弘 「グローバル資本主義の現状とゆくえ」(仮題)

コメンテータ 伊藤 誠      会場はいずれも専修大学

 

《参考》

青山雫氏のレジュメを読んで

https://chikyuza.net/archives/52533