気候変動問題は、民主主義で対応すべき課題か、それとも人権問題か。

(2023年1月11日)
 昨日の赤旗「学問・文化」欄に、京都の浅岡美恵弁護士の『世界で広がる気候訴訟』と題した寄稿が掲載されている。「地球温暖化を止めたい」「国の怠慢ただす市民と司法」という副題が付いている。

 これまで日本の弁護士たちは、日本国憲法を拠りどころとして、さまざまな分野の訴訟に取り組んできた。一例を挙げれば、「平和訴訟」「基地訴訟」「戦後補償訴訟」「生存権訴訟」「労働訴訟」「政教分離訴訟」「教育権訴訟」「原発訴訟」「ジェンダー訴訟」「メディア訴訟」「消費者主権訴訟」「株主オンブズマン訴訟」等々。そして、分野を横断する「政策形成訴訟」の遂行を意識してもきた。

 しかし、浅岡さん指摘のとおり、我が国ではこれまでのところ「気候訴訟」は話題にもなっていない。「公害訴訟」「環境訴訟」の経験と伝統は脈々とあるにもかかわらずである。

 浅岡論文は世界の事情をこう解説している。

 「地球温暖化を止めたい。政府の対策では間に合わない。市民のそんな思いを託した気候訴訟が世界の注目を集めています。市民や NGO が政府や企業に対して《温室効果ガスの削減目標の引き上げや適応策の強化を求めるもの》《石炭火力やガス田採掘を止めさせようとするもの》《自然の中での先住民の暮らしを守ろうとするも》《グリーンウォッシュと言われる企業の欺瞞的な広告に対する訴訟》などです。
2015年以降に特に増加し、昨年までに1200件を超え、欧州や米国だけでなく、ラテンアメリカ、オーストラリアやアジア諸国などにも広がっています。気候の危機が広く認識され、この10年の取り組みが危険な気候危機の回避に決定的に重要とされていることが、若者の訴訟提起を後押ししています。」

 ところが日本では、まったく事情が異なる。

 「日本では神戸製鋼の石炭火力発電所についての訴訟で、原告側には訴える権利も認められなかった(21年大阪地裁判決、22年同高裁判決)」

 浅岡論文は、オランダやアイルランド、そしてフランス、ベルギー、チェコ、パキスタン、コロンビア、ブラジル、ドイツなど海外の画期的な重要判決を紹介している。その多くは、多量の温室効果ガス排出を続ける企業と国策に削減を命じるものである。紹介される判例を素晴らしいと思う。羨ましいとも思う。しかし、我が国では非常に難しい。

 難しい理由は、大きくは二通りある。実体法上の問題と、訴訟法上の問題である。

 実体法上の問題とは、国家や公的機関、あるいは企業に、気候変動を予防すべき具体的な法的義務が必要だということである。具体的な法的義務がなければ、その履行を求める訴訟も、義務の不履行を違法とする損害賠償請求も困難と言わざるを得ない。憲法だけからこのような義務を紡ぎ出すのは、至難の業なのだ。

 訴訟法上の問題とは、《裁判を起こせるのは、自分の権利が侵害された、あるいは侵害されそうになっている人に限られる》ということ。国や企業に違法があったとしても、その違法が自分の権利に関わるという人でなければ、裁判は起こせない。

 仮に明らかな違憲・違法な事実があったとしても、その違法によって自分の権利を侵害された、あるいは侵害されそうな人でなければ訴訟は提起できない。民事訴訟であれ、行政訴訟であれ、原告個人の権利に関わるものでなければ、適法な訴訟とはならず、訴えは却下即ち門前払いとなる。

 三権分立についての普通の考え方は次のようなものである。国会が国権の最高機関であり、議院内閣制のもと国会の多数派が作る内閣が行政権を行使する。つまり、国会と内閣は、民主主義の理念で構成され運営される。司法は、その構成も運営も民主主義的な理念によるものではない。司法を貫くものは人権尊重の理念であって、当然のことながら多数決原理によって左右されない。司法は、人権侵害を救済する場面では立法や行政に優越するが、人権に関わらない問題には口出しをしない。それが司法をめぐる三権のバランスの取り方である。

 浅岡論文には、こうある。

「2019年12月、オランダ最高裁は、気候変動による被害は現実の重大な切迫した人権の侵害であり、原告ら国民を気候変動の被害から守るために、政府に温室効果ガスの削減目標を引き上げるよう命じました」という。しかも、その理由中で、「世界でコンセンサスとなつている水準の削減は、法的義務としたという。

「世界では、前記ハーグ地裁判決に触発された訴訟がで提起されアイルランド最高裁判所は20年7月に対策計画に具体性実行性が欠けているとし同月フランスの国務院も22年3月までに対策の強化を命じましたベルギー家チェコ共和国パキスタンやコロンビアブラジルなどでも国に対し適応対策や森林保護の対策強化を命じる判決が出ています」

 浅岡さんが言うとおり、「日本の裁判所はこれまでのところ政策によって対応されるべき問題として判断を避けてい」る。人権の問題として把握していない。飽くまで選挙を通じて国会で処すべき、民主主義の課題という位置づけなのだ。

 この壁をオランダ最高裁は易々と飛び越えて、「国民全体の人権の問題」とした。そのとたんに、気候変動問題については国会ではなく、裁判所がヘゲモニーを握って政策決定することになった。これも、一つのあり方ではあろう。浅岡論文の最後はこう結ばれている。

 「司法も世界に目を向け、私たちや子供たち、将来世代を破壊的な気候災害から守るために、科学の指摘を受け止め、生命や自由を守る司法の使命を思い起こす必要があります」

初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2023.1.11より許可を得て転載
http://article9.jp/wordpress/?p=20598

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion12718:230112〕