水俣病が映す近現代史(1)【近代日本黎明期】

19世紀前半、三度目の改革も成果むなしく、権力の衰えを露わしてきた江戸幕府末期の日本。それに沿うように様々な古典的思想が浸透し、倒幕運動の下地を固めていた。

1840年には英国が策略したアヘン戦争により清が領土の一部を奪われ、不平等条約を締結させられたという情報が、鎖国中の日本にも不穏な空気のように忍び込み、時代の大きな波が待ち構えているのを予感させていた。

それが突然姿を現したのは、1853年の黒船来航であった。船団は4隻。うち2隻が3400トンの蒸気船であった。合計で132門の大砲が、首都江戸の目前、浦賀の沖に並んだ。彼らは「開港」すなわち「開国」を要求した。返答を約束した1年後、今度は7隻で来航。国内には反対意見が多かったが、有無を言わさず開国する羽目となった。

黒船の蒸気機関は近代資本主義をさまざまな意味で象徴していた。開港の直接的な目的は、捕鯨船の蒸気機関が使う石炭と水の補給であった。捕鯨は食肉としての鯨ではなく、主に潤滑油の搾油が目的だった。潤滑油としての鯨油は合成油が開発されるまで代用品が無く、必需品だった。

アメリカは、日本の開港によって偏西風に逆行する太平洋航路を確立した。極東は「地の果て」ではなく「西の海の向こう」となったのである。日本の開国は、近代資本主義が両手で地球を抱え込んだことを意味していた。

水俣病の原因企業「チッソ」創業者、野口遵の父、野口之布(ゆきのぶ)は1831年、加賀横山氏20石の家臣で、金沢生まれの野口寛左衛門(藩士江守氏の臣)の長男として生まれた。生まれ年から計算すると22歳で黒船事件が起こっている。1858年の不平等条約(日米修好通商条約)締結のとき27歳。ちょうどそのころ、之布は東京湯島の昌平坂学問所に遊学、長州の高杉晋作と机を並べていたという。加賀藩に帰ってからは漢学者として藩の子弟の教育に携わった。

1864年、長州藩が京都で武力衝突事件(蛤御門の変)を起こすと、幕府は勤王党の一斉弾圧を始める。長州征伐に強く反対した之布は終身刑に処せられ、長い投獄生活に入った。

1866年、尊王派である水戸藩出身の徳川慶喜が第十五代将軍に就くと、同年佐幕派であった孝明天皇が急死する。1868年1月、慶喜は政権を天皇に渡し、264年間続いた江戸時代が終了。孝明天皇の子供が満14歳で明治天皇として即位する。

1868年、新政府大赦によって之布は3年7ヶ月ぶりに釈放される。その後、北越戦争(戊辰戦争のひとつ)(1868年~1869年)に新政府軍として従軍。勝利を収め、新政府の中枢が欧州に出払い(岩倉使節団)留守政府となったとき、官吏として東京に招かれる。乳飲み子を抱いた妻との3人で上京。加賀藩前田家の領地であった本郷弓町の長屋に住まいを移した。その乳飲み子が、チッソの創立者となる遵(したがう)であった。1873年7月生まれであるから、上京はその頃であったと思われる。父の之布は司法省などに勤務した。

野口遵が生まれた1873年は、新政府の中枢である大久保利通が「富国強兵」という言葉を使った年だった。それが明治政府のスローガンとなり、挙国一致体制となって経済発展を図り、軍事力を強化していく。その背景には、1858年、欧米列強と不覚にも締結した不平等条約(安政五カ国条約)という足かせだった。明治日本にとって「近代化」とは、この足かせをもがき外すこととほぼ同義であった。

日本の近代化はまず軍事力の増強を推進力として、殖産興業政策、教育、法制度、そして鹿鳴館に象徴される欧化イメージ戦略と、裾野を広げながら持ち上げていく様相だった。

軍事力でいえば、島国日本では海軍の増強が不可欠であった。しかし当時の日本には木造帆船の技術しかなく、石炭蒸気船の建造と運用が急がれた。造船と海運でにわかに財を成したのが1875年に設立された三菱(社)であった。特に海運については政府より特別の保護をうけ市場を独占していった。軍艦の製造については欧米に圧倒的に遅れをとっており、主要艦はイギリスから輸入しつつ、近代兵器を次々と導入して増強した。

明治新政府は1873年徴兵制を敷いた。まだ欧米列強には及びもつかないにわか仕立ての軍事力は、近隣アジアに照準を向けることで、存在意義を見出そうとした。

1874年、琉球を巡って清(台湾)に出兵(征台の役)し、琉球を日本領と認めさせた。

翌1875年は朝鮮で軍事行動をとった。(江華島事件)江華島は漢城から北西約4km。鎖国中の首都目前に日本の軍艦が侵入したことで砲撃を受けた。軍艦(雲揚号)はわずか245トンの木造汽船だった。国旗を掲げ、水の補給を求めての寄港要求だったと主張すると、朝鮮の砲撃行動は国際的な非難を浴びた。それに乗じて日本は艦船6隻、陸兵200を率いて再び江華島に迫り「不平等条約」を飲ませた。条約の不平等な内容も、強引に締結する方法も日本がかつてアメリカから学んだ方法だった。

これらの清や朝鮮に対しての強硬策が功を奏したことによって、日本はアジア方面にのみ想像的に主権を回復させた。とりわけ朝鮮に。しかしこのときから日本は、古来より患う「征韓論」という宿痾を、さらにこじらせてしまうことになるのだった。

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