水俣病が映す近現代史(2)「征韓論」の行方①

19世紀後半、鎖国中の李氏朝鮮も日本と同様に鎖国を保つか開国かで揺れていた。実権を握っていた大院君が鎖国派であるのに対し、実子である国王高宗(コ・ジョン)は開国・開化派で、朝鮮には近代化の先鞭をつけた日本の助けが必要だと考えていた。彼が親政を行うと宣言したのが1873年、江華島事件の2年前であった。日朝修好条規が結ばれたいきさつにはそのような背景があった。

日本が開国と鎖国とで分裂しながらもすんでのところでまとまり欧米の支配を切り抜けたのとは逆に、朝鮮には長引く政治の混乱が待っていた。親子での政権の奪い合いに加え、高宗の后(閔妃と呼ばれているのでここではそう表記する)とその一族が台頭したのである。高宗政権は実質的に閔妃一族の勢力に実権を握られた。

高宗・閔妃政権は、日本以外に米・英・仏に対しても開国を進めた。すると、国内で米穀不足や物価高騰などが起こり、政権にたいする不満が高まった。(特に米穀は日本に大量に輸出されていた。)1882年、兵士らによるクーデターが起こり、政権要人と日本公使館を襲撃し日本人軍事教官を殺害した(壬午軍乱)。

高宗政権は転覆し、大院君が政権に戻る。しかし1ヶ月後、清が反乱軍を鎮圧し大院君を捕え、高宗・閔妃政権を復活させた。こうして清は朝鮮への宗主権を固めようとした。一方日本も日本公使殺害と焼き討ちの見返りに賠償金の支払いと、日本軍駐留などを認めさせ(済物浦条約)半島への足がかりを残した。

1884年、金玉均(かつて日本に遊学し慶應義塾で福澤諭吉の支援を受けたことのある)や独立党は、清朝から独立し日本の明治維新を模範とした朝鮮の近代化を目指すべきと考え、日本側と協力しクーデタを計画。高宗・閔妃政権のうち閔妃一族の要人を殺害した(甲申事変)。独立党は、閔妃一族の勢力を排した高宗政権を擁立したが、李鴻章率いる清軍がすぐさま介入し、日本軍も撃退されたため、政権は3日間で倒れた。金玉均は日本に亡命した。

そして保守派・親清派で構成された高宗・閔妃政権が復活した。政権は2度のクーデタを救われ、清に対する依存度をますます高めた。甲申事変後、清と日本との間で朝鮮出兵の際の相互事前通告などを取り決めた天津条約(1885)が締結された。

朝鮮国内では外国貿易の影響で物価高などに苦しむ農民に、儒仏道を総合した東学という朝鮮独自の宗教が浸透し、日本と西洋の勢力の排除をスローガンに掲げ、朝鮮南部の農民を組織化していた。1894年2月、東学の指導者全琫準(チョン・ポンジュン)によって農民反乱が起こり、たちまち全羅南道全域に波及した(「甲午農民戦争」あるいは「東学党の乱」)。朝鮮王朝政府は独力でそれを鎮圧することが出来ず、清に出兵を要請した。日本も天津条約に基づき出兵した。

ちなみにこの年(1894)3月、閔妃は甲申事変の首謀者である金玉均への復讐として、日本に刺客を送り、活動資金の話を持ちかけて(諸説あり)上海のホテルに誘い出し、銃殺した。

金の遺体は朝鮮に送られ、八つ裂き、さらし首にされた。日本の新聞は、彼の暗殺を清と朝鮮の策略であると報じて反清感情を煽り、福沢諭吉は朝鮮の獄門刑を「野蛮」と蔑んだ。

清との戦争を開始する直前の段階で、日本の懸念は、清に権益を持っていたイギリスの動向だった。外交交渉を重ね、宣戦布告の直前7月16日に日英通商航海条約を結ぶことに成功した(領地裁判権の撤廃・完全自主権の一部回復もそこで果たした)。

日清双方に対するイギリスの中立的立場を確認した日本政府は、さっそく23日に朝鮮王宮を襲撃・占拠し、高宗国王を捕え、日本に協力的姿勢を示していた大院君を新政府首班とすることを認めさせた。そして陸海戦ののち漢城(ソウル)付近の清国駐留部隊を駆逐し、8月1日宣戦布告を行った。いわゆる日清戦争が開戦した。

日本陸軍は、朝鮮半島を北上進撃し清国陸軍を撃破しつつ9月中には朝鮮半島を制圧した。日清戦争の主戦場は朝鮮半島だったのである。その後、鴨緑江を越え、翌1895年3月上旬までに遼東半島をほぼ占領した。日本海軍は95年2月には黄海と渤海の制海権を掌握した。

1895年4月下関。清の李鴻章が伊藤博文・陸奥宗光らとの講和交渉に応じた。結果、日本は賠償金2億両(テール)とともに、遼東半島・台湾の日本領化・澎湖諸島の割譲を受けるなどの成果を得た。また、清に朝鮮の独立を認めさせた。

しかし直後にロシアが、独・仏を巻き込み、日本の遼東半島領有は清国首都を脅かし、朝鮮の独立を妨げるものだとし、その放棄を勧告した(三国干渉)。日本は、拒否した場合の問題の波及を憂慮し、また下関条約の批准を優先させるため受け入れざるを得なかった。日本の国民はこれを屈辱として意識に刻み、ロシアへの対抗意識を醸成させていくことになった。

とはいえ本格的な近代戦争に初めて勝利した喜びは国民を熱狂させた。台湾を植民地として獲得し、アジアの中で他民族を侵略する立場に立つことになった。賠償金の2億両の多くは軍備費関連に当てられた。釜石に続き官営八幡製鉄所が作られた。また、製糸・綿紡績など軽工業を中心とした第一次産業革命が始まったとされている。

さらに、日清戦争の勝利は1858年に締結した不平等条約(安政の五カ国条約)の撤廃へと結びついた。各国と通商航海条約を締結したことで、領地裁判権が撤廃され、関税自主権の一部が回復した。

その背景には、清から得た賠償金3800万ポンドを準備金として、日本が開国以来の銀本位制から金本位制に移行できたことがある。日本は欧米の搾取対象から、貿易相手に格上げされ、実質的に資本主義陣営の仲間入りを果たしたのである。(英は1816年、独・仏・米は1870年代に銀から金に移行していた。)

下関条約によって、清の支配を離れた朝鮮には独立の契機が訪れたのだが、ロシアの介入が強まった。清の後ろ盾を無くした高宗・閔妃政権は、専制体制を強めつつも、清に代わる後ろ盾をロシアに求めようとした。朝鮮における立場を回復する機会を狙っていた日本は、現政権に反感をもつ勢力と結託し、1895年10月8日未明、王宮に侵入し閔妃殺害を決行した。

日本に王妃を殺された朝鮮では親露派陣営が「国母復讐」などを掲げクーデターを起こす。高宗はロシア公使館に逃げ込んだ。その後朝鮮は親露派で固められ、事実上ロシアの傀儡政権となった。ロシアの東アジアへの侵出が明白になり、日本国内では反動的に「朝鮮は日本の生命線だ」という世論が盛り上がり、朝鮮からのロシア排除を目指していくことになる。
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