江戸時代の日本は風力、水力、そして薪や炭のように植物が太陽エネルギーを固定した燃料など、完全なる循環型エネルギーを用いる社会だった。生産力が自然のメタボリズムと均衡していた。それを崩したのは、まさにそれを崩しに来た黒船の推進機関である石炭エネルギーであった。
1872年、イギリスから輸入された石炭蒸気機関車が日本で最初の鉄道(新橋-横浜間)を牽引した。また同年、政府が設立した「富岡製糸場」では動力に石炭蒸気機関が使われる。その後、1880年代になると民間の紡績、製紙等の工場でも蒸気機関が普及し、生産性を爆発的に向上させた。1885年には政府直営の炭鉱である三池炭鉱が開坑。ほかにも政府の支援を受けた民間企業による炭鉱開発が進んだ。
電気の利用はそれよりずっと遅れる。
1882年、初の電気事業者である東京電灯会社(現・東京電力の前身)が開業し、銀座に電灯が灯る。1887年には、日本橋茅場町に設置した第2電燈局(25kWの石炭火力発電所)から、初めて配電線による電気供給を行った。
だが、エジソンが電球を実用化したのが1879年。銀座に電気が灯るわずか3年前だった。直流モーターの実用化が1870年代、交流モーターは1888年にニコラ・テスラが発明した。それらもすぐに日本に伝来した。電気技術は、蒸気機関のように完成した技術ではなく、未成熟の新技術として日本にやってきたのである。
世界が電気という産業革命を仕切り直すような革新的なエネルギー技術の登場を迎えたとき、日本が欧米列強とほぼ同じスタートラインに立てたことは重要である。それまでの日本の「遅れ」を帳消しにするような事件だった。
東京では急速に電気の使用が増加し、1887年、5箇所の発電所が建設された。また他の都市部(名古屋電灯、神戸電灯、京都電灯、大阪電灯)でも相次いで電力会社が設立された。
1888年には宮城県仙台に日本初の水力発電所、三居沢(さんきょざわ)発電所が造られ紡績工場の照明に使われた。1891年には日本初の売電のための水力発電所、琵琶湖疏水を利用した京都市営蹴上(けあげ)発電所(160kw)が完成した。
1892年7月10日、東京電灯の電灯数が合計で1万灯を越えたことを祝い「電灯一万灯祝典」が皇居前広場で盛大に開催された。およそ10万人が集まったという。ちなみに翌年、浅草の神谷バーでは「デンキブラン」なるカクテルが発売される。「デンキ」は新しいものを象徴する流行語となっていた。
「電灯一万灯祝典」のとき、チッソ創立者となる野口遵は帝国大学電気工学科に入学したての1年生であった。同窓には「新しいもの」を嗅ぎつけてきた者たちが大勢いた。同期に、後にチッソの前身日本窒素肥料株式会社で野口の女房役となる市川誠次。水力発電所の設計技師となる森田一雄。そして1年後輩に日立の創業者となる小平波平、2年後輩に日本窒素肥料の設立メンバーで現在の「デンカ」の創業者となる藤山常一がいた。
ちなみに野口は生涯、帝大との関係を維持し、電気工学や化学にかんする最新情報を取り入れるための拠り所としていたらしい。それを継承してか、野口が死んだあとの戦後チッソも東京大学と太いパイプを持ち続ける。
野口が卒業したのは1896年。日清戦争勝利の熱狂の余韻がまだ残っていた。莫大な賠償金が入り、金本位制が確立した。開国以来日本を縛りつけていた不平等条約も大幅に解消され、欧米との対等な貿易が展望できた。
なのに野口は国や大企業には就職せず、福島の郡山電灯という小さい会社に就職し、技術長として発電所建設を担当する。野口を「日本のベンチャー先駆者」と称える方面は、このへんの彼の身の振り方に「器の大きさ」を強調したりする。この時代、帝大時代の親友であった藤山常一と再会し、彼と三居沢発電所の電力を用いたカーバイド製造の研究などを行ったりした。たしかに自由が多く、得るものが多かったようである。
1898年、父之布が死去。家族を扶養するため退職して東京に戻り、ドイツの企業ジーメンスの東京出張所に就職する。ここで彼は技術のみならず、ビジネス、特に水力発電所建造における水利権の獲得や特許取得の要領を身につけた。ジーメンスの極東支配人はのちに「ジーメンス事件」の被告となるヴィクトル・ヘルマンだった。
野口はジーメンスに席を置きつつも別会社を設立したり、宇都宮電灯株式会社の発電所建設に当たったり、ここでも自由にしていたようだ。ジーメンスもわずか2〜3年で辞め、長野県安曇電気、江ノ島電鉄の設立、駿豆電軌の電化などを次々と手掛けている。
野口が浪人していた戦間期は、日本は来るべきロシアとの戦争にむけて、軽工業から重工業へと産業の重心を移していく時代であった。1897年、農工業の振興に関連した軽工業(地主)を対象に融資をおこなう日本勧業銀行、1902年には重工業を対象とした日本興業銀行が設立された。ふたつの国策特殊銀行が産業の発展を後押しした。
そうして日本各地に雨後の筍のように工場が建ち始めた。電気の需要はそれに応じて劇的に増加し、発電所が各地に次々と造られた。しかし正確にいうと、雨後の筍のように建造されたのはむしろ発電所の方であった。電力の消費先として事業を興し、工場や鉄道に手を拡げる電力事業者が多かったのである。
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