水俣病が映す近現代史(4)「征韓論」の行方②

著者: 葛西伸夫 かさいのぶお : 熊本県水俣市在住
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【ロシアの東進】
ロシアは17世紀末ピョートル大帝の時代からシベリア方面への「東進」を進めてきたが、クリミア戦争(1853-56)敗戦後はそれに集中する。1860年、ロシアはアロー戦争仲介の見返りとして、清に黒竜江左岸と沿海州(日本海をはさむサハリン・北海道の対岸)の領有を認めさせた。

1891年シベリア鉄道建設に着手。だがハバロフスクまで繋がる直前、アムール川沿いが難工事で進まなかった。ロシアは日清戦争に敗けた清に対日軍事同盟を持ちかけ(1896年 李-ロバノフ密約)、そのなかで満州内を通りハバロフスクを結ぶ鉄道の敷設権を認めさせていた。ハバロフスクの先には、ロシア念願の不凍港ウラジオストクがあった。(完全な不凍港ではなかった)

1897年9月、山東省でドイツ人宣教師殺害事件が起こり、ドイツが膠州湾に艦隊を派遣、山東半島を勢力下に置いた。列強諸国はその動きに乗じて次々と清朝政府に迫り、それぞれ租借地を獲得するという「中国分割」を行った。

ロシアは、旅順・大連を租借し、東清鉄道本線の敷設権と、その途中駅ハルビンから遼東半島先端の大連・旅順を結ぶ南満州鉄道の敷設権を認めさせた。1903年、シベリア鉄道が、完全な不凍港である大連・旅順と結ばれた。ロシア艦隊が東アジアを虎視眈々としている様子が日本から見えた。

【日英同盟】
日本と同様にロシアを脅威と感じていたのは英国だった。
英国は南アフリカ戦争(1899-1902)に手を焼いてアジアをおろそかにし、中国分割に乗り遅れていた。しかし南アフリカで発見された世界最大級の埋蔵量を持つ金鉱を、英国は死守しなくてはいけなかった。ゴールドは英国=ポンドの生命線だったのである。とはいえアジアを放置しておけばやがてインド領の支配が脅かされる。

その状況に目をつけた日本は、1902年英国と軍事同盟を結んだ。
イギリスの清国における特殊権益と、日本の清国・朝鮮(大韓帝国)における特殊権益を相互に承認し、第三国と戦争となった場合、他の一方は中立を守ることを約した同盟であり、日本にとってはロシアとの決戦を見込んだ布石であった。

【日露戦争の舞台裏】
日露戦争は1904年2月に火蓋が切られた。日本は短期戦で勝利を収める算段だった。しかしロシアの得意とする地上戦に苦しみ、戦線は想定外の膠着状態となった。日本にとってそれが想定外であるのは、早々に戦費が逼迫したことからうかがえる。

急遽、日銀副総裁高橋是清が同社員の深井英五(のちの総裁)とともに英国に渡り、公債を募集した。金本位制と日英同盟が日本の強みだったが、世界の下馬評はロシアの勝利だったため、なかなか買い手が見つからず、しかも金利が高かった。

結局ロンドンの銀行が希望額の半分である5百万ポンドを購入。そのあと高橋らはアメリカに渡り、ユダヤ系資本のクーン・ローブ商会(のちのリーマン・ブラザーズ)が5百万ポンド購入した。合計1千万ポンドで、ようやく戦争の継続が可能になった。

もうひとつの戦費調達が、煙草に続く、塩の専売制だった(塩専売法 1905年元旦公布)。これによって政府が塩の製造、輸入、販売を独占的に行うようになり、日本中の塩田が国家の管理下となった。管理下となると同時に塩田の整理・合理化が進められた。

憂き目にあったのが、江戸時代よりおよそ300年以上生産が続けられてきた水俣の塩田であった。甘みのある美味い塩と評判で、九州各地へ運ばれていた塩は、水俣の主要な産品であった。それが国家の手で突然奪われたかたちとなった。現在のチッソ工場の敷地の大部分はかつての塩田跡である。

やがて鴨緑江の戦いや日本海海戦で日本が勝利する度に日本国債の金利は下がり、買い手も現れるようになった。戦費が膨大に膨れ上がったが、公債でやりくりしながら勝利で終わらせ、ロシアからの賠償金で償還するしか道がないという「背水の陣」を敷いていた。日本の戦死者は4万人を超え、負傷者は7万人に及んでいた。

戦争を終わらせたのは外的要因であった。戦争中の1905年1月に「血の日曜日事件」を機に第1次ロシア革命が起こり戦争継続が困難となったのである。

1905年8月、アメリカ、ニューハンプシャー州のポーツマスで講和会議が始まった。17回に及ぶ会議で、ようやく9月に講和条約が結ばれ、日本は概ね勝利の結果を得ることができた。

日本は朝鮮(1897年からは大韓帝国)に対する保護権をロシアに認めさせた。また、遼東半島南部の租借権と南満州鉄道の営業権を認めさせた。

しかし、肝心の賠償金がとれなかった。日清戦争勝利の2億両を覚えている国民にとっては不満が多く、小村寿太郎全権大使が帰国すると民衆が暴動を起こし、日比谷焼打ち事件等が起こった。官邸、警察署などが襲われ、講和内容を支持していた国民新聞社も襲撃された。

ちなみに国民新聞を主宰する徳富蘇峰は、弟の蘆花とともに、代々水俣で代官をつとめていた徳富家の人間である。

戦争中に発行した大量の公債は、多額の利子が上乗せされ、長きにわたって日本を苦しめることになった。結果的に戦費の約4割は外債で賄われていた。金本位制においては、正貨(ゴールド)の保有量が国家財政の健全性の指標である。戦費でゴールドが僅少となった日本は、戦後も外債を発行してゴールドを補給するという悪循環を繰り返した。日露戦争後、国家財政の30%が公債費、30%が軍事費。残りの40%で国を回していた。日露戦争の借金を最終的に完済できたのは1986年であった。

【「征韓」の完了】
その後政府は賠償金の失敗を払拭するかのごとく、3次にわたる日韓協約を締結させ、急速に大韓帝国の保護国化を進めた。英国とは第二次日英同盟を締結し、日本の大韓帝国に対する保護国化を承認し、日本は英国のインドなどでの権益を認めた。同じくアメリカとは桂=タフト協定(覚書)で日本の大韓帝国での優越権を認め、引き換えに日本はアメリカのフィリピンでの優越権を認めた。

1909年10月、伊藤博文が朝鮮人の安重根に暗殺されたことを機に、1910年8月22日、大韓帝国を完全に日本の支配下とし、植民地化を完了した。首都「漢城」(現ソウル)を「京城」とし、朝鮮植民地支配の中心機関として朝鮮総督府を設置した。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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