水俣病が映す近現代史(6)野口の起業

【野口の浪人時代】
チッソ創業者の野口は、帝大を卒業後、ひとつの帰属先に落ち着くことなく日本中の様々な事業の設立に関わったり、辞めたジーメンスの製品の委託販売をする「庭田商会」を作ったりとか、電気事業が自由競争下で急成長していくなか、自由気ままに活躍しながら、どデカく当てる何かを手探りをしていたようだ。

日露戦争真っ最中の1905年には、高校の同級生で飲み仲間でもある福島金馬(のちに久原商事の社員となる)とアメリカとヨーロッパの銀行に、東京電灯への融資(どういう関わりか不明)を取り付けに行っている。桁は違うが、日露戦争の金策をしていた高橋是清らとは逆に先にアメリカに渡った。そこでは断られたが、ドイツに行くと日本は日本海海戦に勝利していて、融資が成立したという。

この頃の野口の注目すべき事としては、1903年、郡山電灯時代に再会した帝大電気工学部の2年下の藤山常一とふたたび三居沢でカーバイドの研究・製造に着手したことだろう。今回は帝大同級生の市川誠次も参画した。市川は卒業後北海道炭礦鉄道に入社したが戻ってきていた。

ここでいうカーバイドとは「炭化カルシウム」のことで、水と反応して可燃性のアセチレンガスを出す。この燃焼が熱と同時に非常に強い光を発する。なので1890年代後半にカーバイドランプが発明され、携帯用の照明や自転車・自動車の明かりとして広く普及した。今でも夜釣りで使うこともあるらしく釣具屋で売っているのを見かける。お祭りの露店の灯りとしての(独特の臭いとともに)記憶に残っている人も多いようだ。

1903年の時点ではすべて外国製だった。カーバイド製造がこのあと大きな化学工業に化けることを彼らが知っていたかどうかは想像に楽しむしかない。いずれにしろ翌年日露戦争が始まり、運良く旅順攻撃でカーバイドが大量に使われ、価格が吊り上がり、彼らは大儲けをすることになる。行軍の携帯用照明としての需要だと思うが、市川の伝記には、爆薬にカーバイドが使われたとされている。どういった爆弾か詳しいことはわからない。

大きな転機はその翌年、1906年。
野口は新橋の行きつけの店で呑んでいたとき、常連の日野辰次(鹿児島県議会議員。のちの衆議院議員)と永里勇八(鹿児島の鉱山主)から、鹿児島の金鉱山に水力で電気を供給しないかという話を持ちかけられる。

その後資本ゼロの野口が強引な金策に駆け回ったところをみると、その話をよっぽど気に入ったらしく、すぐさま飛び乗ったようだ。日露戦争で大儲けしたあと舞い込んで来た金鉱山への投資話。追い風に満帆を広げた。

【急増する金需要】
鹿児島には、現在の伊佐市周辺と串木野市周辺に、江戸時代から産出している金鉱山が多く分布している。それらの鉱山は現在ではすべて閉山したが、1981年に発見された菱刈鉱山はケタ外れの埋蔵量と含有率(世界平均の約10倍)を誇っている。現在に至っては、鹿児島の金の総産出量は、閉山した佐渡金山のおよそ4倍に及んでいる。今日でも住友金属鉱山株式会社によって毎年6トンの金が産出されている。

当時でも鹿児島は佐渡と1位を競い合うほどの金の産地だった。1897年に銀本位制を金本位制に転換してから金の需要が急増し、さらに日露戦争での公債発行で正貨(ゴールド)が不足していた。それで政府が金鉱山の開発に力を入れたことを背景に、民間の金鉱山関連への投資熱が急騰していた。

永里らの金山は、牛尾、大口、新牛尾の三鉱山だった。明治10年頃から始まって、日露戦争のころが最盛期だったという。

それらの近隣には、九州では筑後川に次ぐ長さをもつ川内川(せんだいがわ)が流れていた。永里らは、曽木の滝という巨大な滝があるので、その落差を利用して水力発電所を作れないか、というのであった。実際は、彼らはその話の2年もまえに建設許可を得ていて、事業者をずっと探していたところだった。

金山は鉱脈を地下に掘り進めていくと大量の地下水が噴き出してくる。それを電動ポンプで汲み上げていた。その電気は現場付近で、火力で発電していた。燃料の石炭は、遠くは大牟田から海路で運んでいた。

【水俣】
その石炭を船から馬車に載せ替えていたのが水俣だった。
400台ほどの馬車が仕事を待っており、石炭を積むと峠を越え鉱山まで40km以上の道のりを運んだ。そして帰り道は、地域で伐採された坑木用の木材に積み直し、同じ経路を大牟田の炭鉱まで運んだのである。そうして水俣港は塩の搬出に加えて、金山の活況とともに石炭・坑木の中継基地として、多くの船、馬、人が行き交っていた。

石炭輸送の仕事は農家の貴重な現金収入となっていた。街や街道には店や淫売屋が建ち並び始めた。南九州の僻地にもずいぶん遅れて「近代」の賑わいがやって来ていたのである。だがそれは国家の塩専売に伴う塩田合理化、それと野口らの水力発電によってまたたくまに消されてしまいそうになっていた。

【曽木電気の設立】
1906年1月12日、野口らは曽木電気株式会社を設立した。社長は野口、取締役にはすべて永里ら鹿児島県人が就任した。(藤山と市川は名前を連ねていない。)資本金20万円のうち10万を鹿児島側で調達し、もう10万円は飲み仲間で下谷銀行の支配人をしていた千澤平三郎から調達した。その後下谷銀行は倒産したらしい。

タービンと発電機はジーメンスに発注した。出力880kw。電圧は当時としては珍しい高圧の1万1000ボルトだった。野口はジーメンスに支払うべき発電機の代金についてはうまいこと言って踏み倒したと後年述懐している。いずれにしろ場当たり的に推進した計画だったようだ。

発電所の工事は1907年12月10日に完了した。水路延長330m、導水管の落差は20m。1907年10月に大口鉱山に、1908年3月には牛尾金山に送電を開始した。

【日本カーバイド商会の設立】
野口、藤山、市川らの本命はカーバイドだった。曽木電気の話は「渡りに船」だったといえよう。
彼らはカーバイド事業を行う(三居沢とその後建てた長岡製造所を統括する)ために1906年4月に日本カーバイド株式会社を設立したのだったが、三居沢・長岡製造所を手放し、鹿児島方面に拠点を移し新たにカーバイド事業を興そうと、1907年3月日本カーバイド商会を設立した。

曽木電気第一発電所の発電機の11,000Vという高電圧は、ある程度の長距離送電が可能だった。また、発電出力は、金山と近傍の町村での電灯消費を合わせても半分余る計算だった。それと、余剰電力を電灯用にしたら採算が取れない。それらの条件から、当初から余剰電力でカーバイド誘導品製造を見込んでいたことは明白である。

【水俣工場】
カーバイド工場の用地候補には、熊本県佐敷郡計石(はかりいし)村(現・葦北郡芦北町)と、鹿児島県中出水(いずみ)村(現・出水市米ノ津)が上がっていた。計石村は不知火海東岸の漁業の中心地で近くに石灰を産出する鶴木山があることで候補になったらしいが、工場ができると農家の労働力が奪われてしまうので誘致しないと村会で決議された。それで出水に絞られたところに、県境を跨いだ北隣の水俣市からラブコールがかかったのである。

水俣村は、塩田は廃田、水力発電所が出来て石炭ももうじき要らなくなる。水俣港には船も人も馬車も消えてしまうだろう。

そんなとき、曽木の電気が余ってとなり町にカーバイド工場ができるという話を聞きつけてきたのは、前田永喜という男だった。父親から相続権を抹消されたほどの遊び人だったらしい。彼は役場の人間を集めて、10人くらいで野口のところに交渉に行った。

曽木発電所から出水まで電線を引くより、水俣までは電柱80本分遠い。なのでその分は(水俣)村で寄付する。工場敷地も通常の売買より高かったらその分を村で負担する。米ノ津港よりもよい港に改築する。などという好条件を提示した。頼みに行った集団のなかに曽木電気の株を大量に持っている医者がいた。それらのことがあって、急遽水俣に確定したらしい。

1908年6月、工場への通電と同時に、村に初めての電気がやってきた。
1908年8月、水俣工場は完成し、カーバイドの製造を開始した。生産量は月に15トン程度であった。工場の敷地は水俣川左岸の河口で、現在は埋め立てで土地が広がり住宅地となっている。塩田跡地に工場が広がるのは後年である。

【第二発電所】
1907年、曽木電気が日本カーバイド商会に電力供給を決定した直後、第二発電所の建設を開始している。第一発電所より下流に(6箇所587mのトンネルを含む)全長1245mの水路をひき1590kwの発電機を4基回すというもので、出力は6360kw。第一発電所の8倍にも及ぶ。なお、発電電圧は2,000Vで、昇圧して2万Vで送電した。

完成直前の1909年9月、大雨による洪水が発生し、第一発電所は大損害を被り、廃止となった。それで、急遽1ヶ月後、建設途中の第二発電所の1基目の発電機から稼働し始め、工場の停止期間を最短にとどめた。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1304:240712〕