水俣病が映す近現代史(8)天草・島原の悲劇

1637〜38年にかけて起こった「天草・島原の乱」は、天草や島原の百姓やキリスト教徒が中心となり、江戸幕府にたいして大規模な武力蜂起を起こした事件である。ことの詳細については割愛するが、この事件は幕府に強い衝撃を与え、キリスト教禁教の徹底、鎖国体制の完成など、その後の体制に大きな変化をもたらした。
では現地天草・島原ではその後どのような政策が行われ、どんな影響が及んだのか。

【幕府による移住政策】
一揆によって約3万7千人が犠牲となり、天草・島原の人口は激減した。島原半島南部にいたってはほぼ無人となったという。そこで幕府は、九州各藩と全国の天領に移住令を出した。一万人に一戸の割合で移住者を選び出せと。移住者には住まいや農具の提供、種苗も無償貸与、農耕用牛馬の同行も許され、3年間の年貢免除という優遇まであった。あまりの高待遇に無許可の移住者まで多く現れ、取り締まるのが大変だったという話もある。とにかくそれによって人口が増えるきっかけとなった。

現在でもこの地域では先祖が移住者だったという人にあたることが多い。移住とともに流入した他文化が根づいてはぐくまれたものもあった。たとえば有名な島原そうめんは、当時天領だった小豆島からの移住者が持ち込んだという説が有力である。製塩、焼きもの、漁法等も諸説ある。

また、天草は天領となったことで流刑地に指定され、多くの受刑者が入ってきた。

【禁教政策】
幕府はキリスト教の禁教を強化したが、残存したキリシタンを改宗させるために仏教寺院の増設を命令し、曹洞宗10寺、浄土宗6寺が創建された。江戸時代から九州地方に多い一向宗(明治以降「浄土真宗」と言われる)を避けたのは、一向一揆の経験からだと考えられる。既に薩摩藩や相良藩では一向宗は固く禁じられていた。

水俣には、薩摩や相良の「潜伏一向宗」が藩を越えてやってきて、彼らが念仏を上げるための「隠れ念仏部屋」のある寺がある。キリスト教と一向宗の教義の親和性、「教会」と「講」の共通性に為政者は気づいていたのかもしれない。

幕府はこうして積極的に改宗を進めるが、知られている通り多くのキリスト教信者は200年以上ものあいだ密かに信仰を守り続け、孫子の代にまで繋いできた。いわゆる潜伏キリシタンである。

【天草の人口爆発】
天草は温暖湿潤で農作物の生育には適した気候だが、土地の約7割が山岳・丘陵地で、平地が少ない。そのうえ保水力が低い地質で、農業用水も豊富ではない。だから農作は米よりも甘藷(さつまいも)が中心となった。一方で海のほうは、西岸(東シナ海)も東岸(不知火海)も、どちらも近海で捕れる魚介類が豊富である。つまり漁労に参入する障壁が低い。とくに不知火海側は穏やかな内海で、漁民と非漁民の区別がほとんど無い。魚介類はいわば収穫物であって、海際に暮らす住民は、山から海までが連続した「畑」だといった感覚を持っている。したがって、全国でよく見られる農家と漁業者との対立関係は天草には少なく、両者のあいだで食物の交換や、姻戚関係を結ぶことも多かった。そういった社会が島民の自給自足を支えていた。

その天草で、日本の歴史の中では珍しく人口爆発が起こっていた。1643年、乱の直後推定1万人程度だった人口は、移住政策により16,000人程度に増えたが、その増加はそのまま200年間以上続き、1868年の調べでは15万6千人にもなっていた。江戸時代にこのような10倍にもおよぶ人口増加が起きた地域は日本ではほかに無い。これにはいくつかの要因が考えられる。

ひとつは潜伏キリシタンの存在。彼らは産まれた子の「間引き」を行わなかった。ただ、同じくキリシタンが潜伏していた五島は(資料によって相違が大きいが)人口増加は江戸時代を通してせいぜい2倍以下である。同じく平戸藩ではむしろ減少している。なのでこれだけでは要因が説明できない。

天草・島原一揆後、幕府が直轄で管理を行ったため、社会が比較的安定していたこともあるだろう。また、五人組制度や宗門改帳による住民管理、それと流刑者の監視が徹底していたため、人口流出が少なかった。
それらに加え、農業と漁業とが支え合う安定した食料自給があった。

これらの様々な要因が複合的に機能したと思われるが、天草の人口爆発についてはさらなる研究が必要だ。

【移住・出稼ぎで離散の島に】
江戸時代末期、天草は限界近くまで人口が増加していたが、限界をはっきり突きつけられたのが、明治時代に入ってからの地租の金納化だった。物納年貢を差し引いた物々交換でかろうじて保っていた自給自足経済に、換金作物や、現金収入のある業種への転換の必要が出てきて、社会は混乱した。同時に封建制度が解かれると、一気に移住や出稼ぎが始まった。長男だけ残し、きょうだい全員外地に移住するのが普通だったという話を聞いたことがある。

政府主導の集団移住もあった。1871(明治4)年、およそ100人が北海道浦河への集団開拓移住をしている。海外には、1885年に約150人がハワイへ砂糖きびプランテーションへ移住。1892(明治15)年にはニューカレドニアのニッケル鉱山に約500人が集団出稼ぎに行っている(5年後15%しか帰還しなかった)。

ペルーやブラジルへの集団移住は熊本県出身者が全国で最も多いが、そのなかにも天草出身者は多かった。正確な割合はわからないが、上天草市や苓北町は海外移民が多かったとされている。

一方、零細漁民、とくに天草本島から離れた離島である、御所浦島、獅子島、長島などの漁民は新たな漁場と定住場所を求めて対岸へ渡ることが多かった。中でも水俣や芦北地方には多数の漁民が移り住んだ。最初は船を接岸させて船上で暮らしていたが、やがて陸上に住居をこしらえて定住した。リアス式の海岸はそのまま天然の良港となった。

やがて天草からの移住民による漁村社会が対岸の九州側リアス海岸部(出水北部から日奈久付近まで)に、既存の集落を避けるように、陸からは道が無く船でしか往来ができないような場所に点々と形成されていく。移住は一時ではなく、集落が形成され社会基盤が整い住みやすくなってきたところに、親類縁者を頼って渡ってくる者もいたので、長い期間にわたって人口は増え続けた。

水俣付近では、人口集中部を除いた南部と北部に移住者が多かった。水俣南部(鹿児島県境にかけて)は国有林とされておりその管理人のほか定住人はほとんど居なかった。そこで天草移住者たちによって築かれた漁村群は、水俣病の発生期にメチル水銀が直撃することになる。

なお、天草から水俣に来た移住者にキリシタンがいたという話は確認できない。キリシタンたちは禁教が解けたあとやってきた宣教師のもとで信仰をつないだと考えられる。また信者は西海岸に集中しており、不知火海側の島々には信者はいなかった。

【からゆきさん】
「からゆき」とは、19世紀後半、主に東アジア・東南アジアに渡って働いた日本人労働者のことをさす、九州で使われていた言葉だったが、森崎和江の文学作品等の影響で「からゆきさん」として、貧しい家の娘が海外で奉公させるなどと言われて女衒に買われ、渡航先の海外で娼館や売春宿で働かされた話として世間に伝わっている。

このような人身売買は、実際には東・東南アジアにとどまらず、シベリア、満州、ハワイ、北米、オーストラリア、アフリカに渡った日本人女性の例もあり、明治から昭和初期にかけて、正確な数の把握は困難だが数万から十万人もいたと考えられている。

そして前述の海外出稼ぎや集団移住の話と混ざり合って、「からゆきさん」は困窮していた天草・島原の売られた娘たちの悲劇として伝わっている。私もそう思っていた。しかし、南島原市で専門家に聞いた話では、実際最も多く渡航して行ったのは、神戸や北九州などの都市部の特だん貧困層でもない一般婦女子だったという。海外によい仕事があると巧みにだまされて渡航して行った。

そもそも天草・島原だけでは「からゆきさん」の数が足りない。規模から考えて、これは政府が黙認した(あるいは計画的に組織した)シンジケートによる大規模な人身売買であった可能性がある。少ない資料のなかで確かめてみると、日露戦争のあと海外娼館の日本人娼婦が急増している。正貨獲得のためのプロジェクトであった可能性もある。

「からゆきさん」が身内にいた家族・親類は、その存在を恥としてひた隠しにした。それが資料がほとんど残存してない理由であるし、逆に口之津(南島原市)の民俗資料館におそらく公立資料館では唯一「からゆきさん」に関する資料が展示してあるのは、口之津が中継地点に過ぎず、ここの出身者がほとんどいなかったからだ(口之津港は長いあいだ、遠浅で大型船が入港できない有明海への中継港として栄えた)。「からゆきさん」タブーが希薄だった島原から語り継がれたことで、天草・島原の貧困悲劇と混同され、話が通俗化したのではないか。とにかく「からゆきさん」には明らかにしていくべき近代の闇が奥に潜んでいる可能性がある。

【水俣の女郎さんたち】
ただし天草・島原の娘売りの話は実在する。
水俣にはチッソ工場正門付近と繁華街の周縁に、かつて女郎屋が軒を並べていた場所がある。14年ほど前は工場まえの女郎屋跡は、いくつか残存していた。親が女衒だったという人に中を案内してもらったことがある。一階は料理屋や飲み屋で、急な階段を上がっていくと、不自然に狭い寝室がいくつもある。普通の家にはない丸い窓があしらわれていたのも印象的だった。

二十歳にも満たないころ女郎屋で飯炊きをさせられていた人にも話を聞いた。彼女の店の店主は天草出身なので、天草の人は雇えず奄美の少女たちを囲っていたという。
石牟礼道子の作品に度々登場するように、彼女らの話に出てくる女郎たちは、天草や島原を故郷に持つ者が多かった。

水俣の年寄りが「天草は宝の島」と口にするのを聞く。天草は農作の効率は悪いが、その分地下資源が豊富だ。質の高い石炭や石灰石を産出する。それと陶石。有田焼の陶石は地元で取り尽くして以来、現在まで天草から仕入れている。砥石の産地でもあって、みやげ屋には砥石が並ぶ。だが「宝の島」という言葉の奥には女郎たちの出生地という含蓄がある。港町牛深の有名な「ハイヤ節」の「ハイヤ」は「入んや」という女郎屋の呼び込みである。

近代に入って資本主義経済が浸透していくなかで貧困化した天草・島原の農漁村から、「性」が換金商品として貢ぎ出されたことは確かである。

工場を受け入れ、熱狂している対岸の町にも、彼女らは売られて行った。

【貨幣経済と熱狂】
1873(明治6)年の「地租改正」は、土地の私有権が公認され、税金が金納化されるという、土地制度と税制の両面における変革だったが、すべての土地の価値を一元的にカネの単位に定量化したところが核心だった。小作料も金納化し、そこから交換という営みにカネが媒介するようになった。あらゆるものの価値がカネで測られ、カネに価値が帯び、やがてカネこそが価値になっていく。明治維新の本丸は地租改正であり、それによる資本主義の導入と普及であった。

江戸時代、土地所有権は複雑だったが、地租改正後ほぼそのまま土地所有者は地主となった。やがて商品経済が浸透すると、所有している山や田畑を売ってカネに換える地主や、その土地を買い叩いたり高利貸しを始めてさらに蓄財する地主が現れた。前者はやがて土地を失い没落し、後者は大地主に。やがて土地所有は大地主に集約されていった。

没落を免れた地主も、カネが放つ無限の交換価値の誘惑に打ち勝てる者は少なかった。カネであらゆるものが手に入るという幻想に肥大化した欲望が向かったのは、商品化された「性」にほかならなかった。

元チッソ社員で労組委員長であった岡本達明の聞き書き『水俣の民衆史』を読むと、女買いに狂って次々と没落していく無惨な地主らの姿が多くの証言から浮かんでくる。水俣の場合、農地解放までに2つの大地主を残し、すべての地主が没落していった。

堕ちてくる彼らを待っていたのが、カーバイド・石灰窒素工場での労働だった。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1306:240720〕