水俣病が映す近現代史(11)アンモニア合成

著者: 葛西伸夫 かさいのぶお : 熊本県水俣市在住
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核技術と、石油やエレクトロニクス文明のせいで隠れてしまっているが、20世紀はアンモニア合成こそが最大の発明であったとここで強調しておきたい。

なぜならアンモニアは、空気として無尽蔵に存在する窒素を、人間が自由に利用するために手にすることのできる最初の形態であるからだ。そうやって空気から「解放」された窒素は、人間の手で肥料、火薬、樹脂や繊維(高分子化合物)に姿を変え、20世紀を過去の人類史とはまったく違うものにしてしまったのである。

【最初のアンモニア製造】

もうすぐ20世紀の幕が開こうとする1898年、イギリス科学振興協会会長になったウイリアム・クルックスはその就任演説で「無限にある空中窒素を人間の手で植物が吸収できる形に変え、肥料にすることはわれわれ科学者の双肩にかかる緊急の課題である」と述べた。20世紀初頭の科学者たちはまるでその託宣に従うように、次々と発見・発明を花開かせた。

1890年代末、アドルフ・フランクとニコデム・カローによる石灰窒素の発明がそれを達成させた。

同じふたりが、1901年頃、石灰窒素を加水分解してアンモニアを製造した。これが人類初のアンモニア製造だった。

彼らの発明は当時、肥料の発明として注目を浴びた。

しかし1902年、ドイツの化学者ヴィルヘルム・オストヴァルトは、アンモニアを硝酸に酸化する触媒プロセス「オストヴァルト法」を発明した。これは、人類が硝酸を無尽蔵に作り出せることを意味していた。が、当時はまだその意味に気がつく人は多くなかった。硝酸は火薬の原料となる。それまで火薬は地下資源である天然硝石から製造していた。

【色めき立った世界】

いわゆるアンモニア合成と呼ばれる、空気から直接アンモニアを合成する技術は、1908年、ドイツのフリッツ・ハーバーが発明した。この方法は、水素と窒素を触媒上で400~600°C、200~350気圧で反応させてアンモニアを合成するというものだった。

1910年、ドイツBASF社でカール・ボッシュとの共同開発で工業化に成功した。1913年、本格的な生産が、ドイツ南西部ルートヴィヒスハーフェンにあるオパウ工場で始まった。

アンモニア合成法が工業的に確立したというニュースは、すぐに世界を駆け巡った。

なぜならその頃にはアンモニア合成の意味を世界が理解し始めていたからである。世界の国々、そして世界中の企業がにわかに色めき立った。

日本の企業も黙っていなかった。詳細不明だが、12件の特許が登録されたという記録がある。野口も1914年に著書『工業上より見たる空中窒素固定法』でハーバー・ボッシュ法が最も有力なアンモニア合成法だと書いている。当然特許取得を狙っていただろう。

しかし、1914年に第一次世界大戦が始まり、ドイツが日本の敵国となり特許取得の交渉ができなくなった。(ドイツはアンモニアの工業的生産の確立を確認して開戦に踏み切ったという説がある。)

ハーバー・ボッシュ法を取得した日本企業は、BASFからノウハウを取り入れる前に開戦したので実用化していない。そこで国は1917年「工業所有権戦時法」を公布し、ハーバー・ボッシュ法を「敵国財産」として接収した。そしてアンモニア合成の独自開発を目指した。

ドイツを敵国とした各国は、そのようにハーバー・ボッシュ法の類縁技術の研究を次々と開始した。初期に技術が確立したものとしてはフランスのクロード法、イタリアのカザレー法とファウザー法であった。どれもハーバー・ボッシュ法と原理は一緒で、触媒の成分の差異だけが特許侵害を免れているようなものだった。(触媒にあわせて温度や圧力にも違いはあった)

【日窒の単独行動】

1921年1月、野口は石灰窒素の特許の更新のためイタリアに向かった。

ローマの石灰窒素工場で野口は、テルニ(ローマの北75km)にある化学者カザレーのアンモニア製造のことをこっそりと紹介されたらしい。さっそく製造プラントに行ってみると、日産0.3トン程度の小規模パイロットプラント(実験設備)が稼働していた。テスト段階ということもあってか、特許交渉がまだ誰ともまとまっていなかった。しかし野口はそこですぐに特許取得を決断する。

ところで、日本の企業(特に財閥系や大手)、三井、三菱、住友、三共、日本化学工業(大倉系)、大日本人造肥料(元・東京人造肥料)は、1921年「東洋窒素組合」を結成した。日窒は、その参加を断っていた。

もうひとつ、三井をしのぐ巨大企業も参加を断っていた。当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった鈴木商店である。1917年に当時のGNPの10%に相当する売上を記録し、日本最大の総合商社となっていた。

野口は、カザレーの応接室で、鈴木商店ニューヨーク支店からの書状を見せられていたのである。「彼らもうちの方式に興味を示しているよ」と。そこで鈴木に取られてはならないと野口は即、本社に電報を打ったのだった。

特許料は1000万リラ。当時の日本円で約100万円だったという。本社は寝耳に水で、重役会は紛糾したがしぶしぶ了承し、野口は仮契約をして帰国した。(100万円は現在で5億円くらいか。電報一通で5億を押し通す、日窒は実質的に野口のワンマン企業だったと言える。)

カザレー側は、鈴木商店の名前を出し野口の野心にうまいこと火をつけたが、カザレーのテストプラントを見ただけてこれはいけると判断したのは技術者野口の彗眼だった。もっとも最大の決め手は、水素の製造法が日窒伝統の電解式であったことだろう。カザレー方式以外はすべて水性ガス方式(石炭から水素を抽出する方式)であった。

一方、鈴木商店は1922年、ロンドン支店長・高畑誠一がアメリカの商人の仲介でレール・リキード社のクロード法を手に入れた。こちらは特許料約500万円での契約だった。

ちなみに1923年には大日本人造肥料がイタリアのファウザー法の特許を取得する。

【カザレー式工場の創設】

1921年初頭に野口はカザレー方式の仮契約を個人名義で結んだが、同年の12月ふたたびローマを訪ね、日窒として本契約を結んだ。イタリアではインフレが進んでおり、仮契約時の1.6倍の金額での契約となった。

カザレー式を導入する新工場は鏡工場に決定した。

1922年、鏡村に隣接する文政村の約11万坪を獲得し、3月10日に起工式が予定された。が、前回書いたように、煤煙問題をめぐって地元の漁民と農民が工場建設に反対し、日窒はこれをきっかけに鏡工場の増設を中止した。

決断が異常に早かったのは、延岡という有力候補地があったからであろう。工場の新設は増設よりはるかに高いコストがかかるが、宮崎県の県外送電反対運動も盛り上がっている最中で、日窒が株主である五ヶ瀬川発電所の電力を県内で使える。

延岡は県庁から最も離れた旧城下町で、近代化に遅れている危機感から工場誘致に熱心だった。建設が決まって、1922年8月3日の地鎮祭には住民2千人が集まり、酒やぜんざいがふるまわれ、相撲大会が開かれたり、歌え踊れのお祭り騒ぎとなったという。

延岡工場は、水素を製造する電解工場(水の電気分解)、アンモニア合成工場、硫酸工場、硫安工場、すべてを収め一貫製造をめざした。工場装置の建設段階から、イタリアのカザレー社の技師も派遣された。完成までに13ヶ月かかった。

1923年9月20日、発明者のカザレー本人が来て、アンモニア合成の試運転が行われた。その後、トラブルが続き生産量が上がらなかったが、改修を重ね、11月9日、日産2900リットルの製造が成功した。これを日本のアンモニア合成の工業的成功の日としている。

【日窒に追随した企業】

日窒に先を越された鈴木商店は、1922年4月クロード式窒素工業株式会社を設立し、下関市の南端の陸繋島である彦島にアンモニア工場を建造し、1924年12月はじめての合成に成功した。1925年2月より本格操業を開始。だがトラブル続きで、日産5トン以上の成績を上げたのは10月になってからだった。

レール・リキード社との契約時、工場に赴いて稼働しているプラントを確認したのは、鈴木商店の塩や油の研究者であった。実際の現場を知っている野口との違いがそこに現れたのだろうか、クロード法がハーバー・ボッシュ法の2倍の効率で生産ができるところに関心が向かい、1000気圧という超高圧を利用する技術の難しさを見通せなかったのかもしれない。実際、クロード式窒素工業は数度の爆発事故で多数の死傷者を出すことになる。

次にアンモニア合成の工業的生産に成功したのは、老舗の大日本人造肥料だった。ファウザー法を導入し、富山市に工場を新設して1928年から生産を開始した。

【国策による迷走】

大日本人造肥料の次にアンモニア合成を工業化したのは昭和肥料株式会社であった。

この会社は東信電気(元鈴木商店傘下で千曲・信濃川系の電力会社)と東京電灯(現・東京電力)が出資して1928年に設立された。のちに新潟水俣病を引き起こす昭和電工の前身であり、現在は「レゾナック」という社名になっている。

昭和肥料は、日本独自のアンモニア合成法を採用した。

この日本独自の方法は、農商務省が1918年に東京工業試験所(現・産業技術総合研究所)に設立した臨時窒素研究所が開発した「東工試法」と呼ばれるものであった。

臨時窒素研究所は、1917年に国が「工業所有権戦時法」を公布し、ハーバー・ボッシュ法を「敵国財産」として政府が接収した翌年に設立された。ハーバー・ボッシュ法の類縁技術の研究のため国策として組織されたと思われる。

所長にはドイツでフリッツ・ハーバーの元で学んだ経験のある小寺房治郎が就任した。しかし、研究は積極的には進まず、9年後の1926年ようやく独自の触媒を開発し、中規模試験でアンモニアの生産に成功する。その技術を昭和肥料に採用させると同時に研究所は解散した。

一方で日本政府は、接収してあったハーバー・ボッシュ法をわずか1万円少々で1921年4月に東洋窒素組合に払い下げ、研究開発から製造まで任せようとした。しかしドイツBASF社が生産ノウハウの教授について多額の対価を要求したので(戦間期のドイツである)、見送ることとなった。

結局、生産活動はおろか研究開発も行わず、ハーバー・ボッシュ法で生産された硫安をドイツから輸入する際に、自身の持つ特許権侵害を理由にロイヤルティー(使用料)を徴収するのみの存在となった。

このようにして、アンモニア合成を巡る国策に翻弄された財閥系や大手は、この分野で著しい遅れをとることになった。

住友はアメリカで開発されたNEC法を導入し、1931年に住友肥料製造所(現・住友化学愛媛工場)で生産を開始。三菱はハーバー・ボッシュ法を導入した。

【鈴木商店の「嫉妬」】

日本のアンモニア合成は日窒が先導を切るかたちとなり、生産も順調に進み、他社の追随を許さなかった。

1924年に入ってからは延岡工場は日産5トンとなり、同年12月には月産760トンを記録した。その月で計算すると、合成硫安は、変成硫安のおよそ半分のコストで済んでいることがわかった。

その日窒の順調な生産状況に「嫉妬」したのは、鈴木商店のクロード式窒素工業株式会社であった。

クロード方式を導入したが、あまりにも多くのトラブルが発生し、職員が疑心暗鬼になり、日窒はカザレー法式を採用していながらこっそりとクロードの技術を盗んだのではないか、と考えるようになった。

1925年6月、ついにクロード式窒素工業は、官憲を連れて証拠写真を撮るために延岡工場に乗り込んだ。延岡のカザレー法(6~800気圧)とクロード法(1000気圧)は圧力の違いがあるが、同系統の触媒を使用していた。このため、触媒についての特許侵害を問題とした。

1928年5月ついに訴訟を起こし、触媒使用に関する特許権抵触を理由に日本窒素肥料延岡工場のアンモニア製造禁止と損害賠償を請求した。一審は日窒の勝訴となり、最終的に大審院まで争われたが、1929年4月、鈴木商店の倒産とともにクロード式窒素工業は三井鉱山の手に移り、三井の方針で和解となった。

のちに分かったのは、カザレー方式が優れていたのはその方式そのものより、水素ガスの純度にあった。水電解方式は、石炭から取り出すよりはるかに純度の高い水素を得られていた。

【鏡工場の閉鎖】

日窒は国内の硫安需要が急増していることを背景に、すぐに拡張計画を立てた。拡張は延岡だけでなく、水俣工場にもカザレー方式のプラントを導入することを決定した。1925年7月に着工し、1926年の12月に試運転、翌年4月に本格製造が始まった。その年、鹿児島本線が水俣駅に開通した。水俣工場の拡張は鉄道の開通と連動した計画だったかもしれない。

鏡工場には、カザレー方式が導入されることはなかった。1927年、日窒は鏡工場を閉鎖し、大日本人造肥料に220万円で売却したのである。

閉鎖が決定したときは、米騒動のときと同様に工員たちの反対運動が起こり、水俣工場にまでその運動は飛び火したが、日窒は無視を貫いた。ただ、工員には転職先が用意されていた。

行き先は新潟であった。

1926年、日窒は信濃電気株式会社と共同出資で新会社「信越窒素肥料株式会社」を設立し、同年、工場は直江津に新設された。

鏡工場から技術者と熟練工など約200名、それと石灰窒素の製造設備を直江津に移した。工場長には元水俣工場長の岩崎勇が着任した。

1931年、昭和恐慌で一旦工場は停止され、1937年日窒は株を譲渡して手を引くが、これが現在日本最大の化学メーカーである「信越化学」の前身である。

【新天地、朝鮮】

鏡工場は、労働運動がひときわ激しく、近隣の漁民や農民は工場の新設を許さなかった。工員のあいだに師弟関係が発生し、「派閥」が生み出され、対立関係から闘争状態になったりした。日窒の技術者が人違いで刺殺されている。

それと、話の位相が違うが、野口の愛人「小千代」が彼の子供を2人残して病気で急死している。

野口は、こういった煩わしさや災いからいっさい離れたいと思ったのかもしれない。閉鎖の決断は、この頃の日窒の体制から考えて野口の「鶴の一声」だったであろう。なにしろ、彼の会社にはもう、労働運動も環境汚染も気にする必要のない、天国のような新天地、朝鮮半島が用意されていたからである。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1310:240805〕