水俣病が映す近現代史(14)続・牙を剥いた植民地主義

朝鮮窒素(朝窒)の最初の工場建設は、朝鮮半島の東北沿岸部である元山から75km北の咸興郡湖南里周辺に建設された。咸興の南なので後に「興南」と命名された。

日窒は1937(昭和12)年に創業30周年記念として約600ページに及ぶ社史を製作している。コート紙に4色で刷られている豪華本である。
そこには「興南の地は十年前には二・三十戸の鮮人漁民の見るかげもなき小部落であった。其處(そこ)に近代的大工業都市が目眩しき速度で建設されたのである。」と書かれている。しかし、百周年社史ではどういうわけか「工場敷地とされた一帯には百数十戸の人家があるばかりだった」とこっそり改められている。
1400余名が暮らしていたという資料もあるし、工場の敷地だけで二〇〇戸収用したという証言もあるし、正確な数は分からない。だが少なくとも二・三十戸という規模ではなかったようだ。

百周年社史では「百数十戸」とあるのに「興南工場の計画は原野に街をつくるに等しいものであった」とも書いている。朝鮮集落の「百数十戸」など、どかすのはたやすかったということだろうか。

工場建設がいかにして「目眩しき速度」で達成されたか、東亜日報(三・一運動以降、朝鮮総督府による「文化政治」が始まったことで朝鮮人による新聞の発行が可能になった。政財界の有力者が中心となって1920年4月1日に創刊した。)が次のようなことを暴いている。

朝窒と組んだ警察は、買収に応じない住民を検挙したり、地主たちを区長の家に呼び集め、警察が押印を強要したりした。多くの警察は、会社の買収予定価格の1/4にしかならない40銭から50銭に一坪の値段を決め、押印させたりした。頑なに拒否した地主は2~3週間ほど拘束し、押印させた。土地を強制収用された住民たちは、朝窒が用意した土地に移転したが、防波堤もなく風雨の日は船も船をとめることもできない海辺であったり、農業もろくにできないような、家も立てられない水たまりの多い土地であったりしたという。

土地の売り渡しを拒否しているにもかかわらず朝窒は強制的に土地の測量を始めていた。それを止めようとした朝鮮人に朝窒の社員が暴力をふるい、しまいには短刀で刺すという事件も起こった。刺された者は日本人の医者がいる病院に行って治療をうけたが、告訴のために診断書を要求すると、医師はそれを拒み、治療費は受け取らなかったという。

このように、ここでも朝窒は官憲だけでなく様々な日本人と連携して暴力的に土地を収用し、住民の生活と生業の場を奪っていったのだった。
このようにして造られたのは工場、港湾、鉄道だけでなく、インフラを含む都市全体であった。社宅、病院、学校、郵便局、役場、集会所、警察署、火葬場、娯楽施設、運動施設など、社会的に必要なすべての施設が同時に建設されていった。

土地の買収だけでなく、工場設備の建設も突貫工事であった。経験のない、水俣や延岡より大型のプラントを製造するにもかかわらず、テストプラントを造らずに、いきなり本番のプラントを建造した。当然トラブルが起こるが、トラブルを起こしつつ改良するという考えだった。従業員の危険は配慮されていない。じっさい最後まで、ガス爆発、火災、硫酸タンクへの滑落、圧死、轢死など、事故は絶えなかった。

興南工場は、1927(昭和2)年6月15日に起工式を行い、わずか2年4ヶ月後の29年10月には第1期工事が終わり試運転を開始している。翌年1930(昭和5)年からは合成硫安の生産を開始している。

なお、1931(昭和6)年11月には興南工場周辺に邑制が施行され興南邑(ゆう)となり、初代邑長に野口遵が就任した。
日本統治下朝鮮の「邑」は、「郡」の下に置かれた行政区分の一つで、日本の「町」に相当する。

【興南周辺の学校】
興南工場には水俣から家族ごと移住してくる労働者が多かったので、学校建設も工場と同時に着工した。敗戦まで、教員・生徒ともに朝鮮人と入り交じることはなかった。(敗戦直前の興南工業学校※には朝鮮人が1/3ほどいた) ※1940年創立

最初に造られた興南国民学校は、校舎は朝窒が建設し咸鏡南道に寄付されたが、理事長は工場長の白石宗城が就任した(日窒創業時、三菱から取締役に就任した技術者白石直治の息子)。1927(昭和2)年は4学級。翌年には6学級編成となり、高等科が併設された。1932(昭和7)年には1274名23学級に膨らんでいる。

興南周辺には、のちに興南高等女学校、西湖津国民学校、緑ヶ丘国民学校、本宮国民学校、咸興中学校、雲龍国民学校、興南工業学校、龍城国民学校、朝日国民学校、鷹峰里国民学校が作られた。(朝鮮人学校も含む)

【多角的展開と別工場の建設】
アンモニアの合成の成功は、その誘導体が織りなす多角的展開へと一斉に扉が開かれた。
朝鮮の工場では、肥料としては硫安にとどまらず、硫燐安、硫加燐安、過燐酸、硝酸、肥料以外の分野としては火薬・ダイナマイト、苛性ソーダと広がった。(延岡工場ではアンモニアから人工繊維が造られた。)

また、朝鮮で手に入った潤沢な電力、半島の石炭資源からも新たな展開が始まった。
興南には東京駅のホームが45本並ぶほどの巨大な水電解工場が造られ、水素と酸素が無尽蔵に製造された。酸素は硝酸の製造に使われ、水素は多数の誘導体を生み出し、枝分かれ的に製品を作り出していった。

興南工場は130haを超える巨大工場だったが、それでも足りず、4kmほど北に本宮工場(約200ha+社宅100ha)が造られ1936(昭和11)年に稼働した。
ここでは満州から潤沢に届く大豆から大豆油を抽出し、マーガリンや化学調味料を製造する「大豆化学」が展開された。
また新たに苛性ソーダ製造も加わった。現在では採用されることはない水銀電解法であったが、これによって副生する塩素からも多数の誘導体が生産された。

【国家に要請された人造石油】
半島北部は石炭資源が豊富だった。朝窒は、1933(昭和8)年、14の炭鉱を買収している。朝窒は1935(昭和10)年、石炭化学・人造石油部門を分社化して朝鮮石炭工業株式会社を設立した。
石炭資源の活用としては永安・阿吾地の2工場が造られた。

朝鮮での石炭利用は、カーバイド製造に加え、潤沢に得られる水素を利用して製造する揮発油や重油※に重点が置かれた。(※石炭の水素添加によって炭化水素=石油を製造するというもの)。
これは日本が1931(昭和6)年「柳条湖事件」を機に満州国を建国したことにより国際的に非難を浴び、1935(昭和10)年以降いわゆるABCD包囲網が形成され、石油の入手が困難になることを想定し、国家の要請に応えたものだった。のちに海軍からの要請が強くなり、技術的にも介入してくる。

永安工場は、興南から北東約230kmの永安炭鉱付近に(約180ha+社宅20ha)建造され、1932(昭和7)年6月に稼働した。ここでは石炭からコークス、重油、メタノールを製造した。山間部の僻地であったが、興南工場と同様に病院・学校などの社会インフラを含め町をまるごと朝窒が構築した。

もうひとつの阿吾地(あごち)工場は、ソヴィエト国境に接した咸鏡北道慶興郡の灰岩という石炭産地付近に、1936(昭和11)年に建設が始まった。ここはほぼ人造石油に特化した工場だった。

【発電所の増設】
ここでいったん話を時系列に戻したいと思う。
上記のように事業が活発な細胞分裂のように続々と展開されていくと、それに合わせて発電所の増設が必要になった。朝鮮での「シーソー方式」は、電力需要のほうが慢性的に増加し、シーソーの均衡は一方に傾いていた。
総督府との交渉で、赴戦江の水利権を朝窒(朝鮮水電)、長津江を三菱というふうに分け合ったのだったが、三菱は長津江の開発にはなかなか着手しなかった。

赴戦江第四発電所を提案した久保田豊は、建造中から長津江の開発を野口にけしかけていた。しかし長津江の水利権は三菱が持っていた。ただでさえ反対されていた赴戦江第四発電所を強引に造ってしまって三菱とは気まずい状況だった。だから野口は長津江ではなく虚川江をやろうと言っていたのだが、久保田の計算では虚川江では1kw/hあたり4厘かかる。いっぽう長津江だったら2厘5毛という計算だった。

野口もさすがに三菱のものまで取り上げて長津江の開発に乗り出すことはできないと考えていたが、2厘5毛、九州の1/4という電気代には気持がなびいた。久保田はなかば無理矢理に野口を長津江に連れ出して視察したりしている。このように、朝鮮の開発は久保田が、慎重になっている野口を奮い立たせる場面が何度かあったようだ。またそれだけでなく野口の裏で久保田が総督府と交渉していると察せられる経緯もある。

かつての日本のように、朝鮮でも小規模の電気会社が各地に設立され、その地域ごとの電力をまかなっていたが、工業化を促進したい総督府としては日本内地のように小規模電力会社を統合し、送電線の連系を行い、電力事業の統制を行いたかった。だから早く三菱に長津江を開発し、その電力を民間用に提供してもらいたいと考えていた。

1931(昭和6)年、朝鮮総督に任命された宇垣一成は三菱にその旨を伝えた。それには他社との共同案も含まれていた。一年後の三菱の理事会の返事は、着工せず水利権放棄ということであった。
朝鮮での三菱の慎重さは野口側とは対照をなしていた。1930年ころ、まだ世界恐慌の真っ只中で時期尚早という意見が多かったのに加え、電力の半分を民間用に提供するという総督府の付けた条件が水利権放棄の決定打であった。

久保田は、長津江の電力費がこれまでの半分で済むという計算結果が、人伝いに朝鮮総督府の耳に入ったらしい、と後年語っている。総督府は、もし三菱がやらないのなら野口側に水利権を渡してもいいと考えていることを野口側はつかみ、長津江開発の申請をしようと役員会に諮った。しかし三菱系の重役は承認しなかった。

野口は長津江の開発に着手する決意を固め、1933(昭和8)年、総督府に申請した。それは三菱との決別を意味する重大な決断だった。
その年の5月に長津江水電株式会社を設立、資本金2000万円のうち1000万円は野口が私財を供出した。
三菱はすでに買収が済んでいた長津江の土地と調査資料を日窒に譲渡したが、追加の資金提供は停止、すでに融資している分のほとんどを回収した。

宇垣一成が手を回し、1933(昭和8)年12月、朝鮮銀行と日本興業銀行が日窒のメインバンクとなった。
日窒・朝窒には潤沢な資金の供給が約束されたが、一方で国が作った特殊銀行の二行が後ろ盾になることで益々国策の片棒をかつぐ企業となることを意味していた。
また、特殊銀行である台湾銀行と命運を共にして悲惨な末路をたどった鈴木商店のことが、野口の頭によぎったかどうか、定かではない。

長津江発電所の次は虚川江発電所の開発に入るのだが、総督府が提示した虚川江の水利権の条件は、さらに電力の2/3を一般に提供するというものだった。
飛躍的な成功により、いつしか野口はどこからか「朝鮮王」と呼ばれていた。総督府は、その野口の野望を巧みに引き出し、朝鮮の近代化に貢献させていた。

【朝鮮送電株式会社の設立】
長津江発電所の着工の翌年、1934(昭和9)年5月、朝鮮送電株式会社を設立した。送電会社を分離したのは、電力の半分を一般用に供給するという総督府の条件を履行するためだった。

1935(昭和10)年の1月に着工し、11月に平壌まで送電開始。京城に送電されたのは1937(昭和12)年12月だった。当初は11万Vだったが、37年には15.4万Vに昇圧した。これは当時の日本最高電圧だった。また、6万Vで元山のほうにも送電された。

【観光地化】
長津江発電所は、2つの貯水湖を持った。ひとつは長津湖とよばれ8.4億㎥。もうひとつは3340万㎥だった。揚水する高さは60mだった。
発電所が完成してしばらくすると、長津湖も赴戦湖も蓋馬高原の景勝地となった。作業用に敷設された鉄道は、1930(昭和10)年に朝鮮水電の鉄道部門を分社化して新興鉄道株式会社を設立。実用以外にも高原鉄道として観光客を乗せた。インクラインもいわゆるケーブルカーとして観光客も乗せている。

新興鉄道株式会社の観光パンフレットによると、興南から鉄道とインクラインを経由して長津湖に着き、そこから蓋馬高原を横切るバスに乗って赴戦湖に。そこからまた鉄道やインクラインを使って興南に戻ってくるという「赴戦高原一周ツアー」を提案している。どちらの湖にもモーターボートや遊覧船があり、ホテルや宿泊施設などの観光施設でにぎわっていた。

興南小学校の同窓会誌や、元朝窒関係者の証言集には、高原鉄道の車窓の景色の素晴らしさや楽しかった乗車の思い出が数多く綴られている。
だがしかしそこでの生活を追われた朝鮮人、事故で命を奪われた多くの朝鮮人や中国人のことを想像し、血で染まった湖水であることを知ろうとする者はいない。

【鴨緑江の開発】
朝鮮総督の宇垣一成も、長津湖畔のホテルのコテージが気に入っていたようで家族連れで度々滞在していた。
虚川江の工事を行っているさなか、久保田豊は長津江のコテージで宇垣と会い、次の発電所の話をしていた。中国東北部が日本の傀儡国である満洲国となり、国境を流れる大河、鴨緑江の開発が可能となっていた。

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〔study1314:240828〕