水俣病が映す近現代史(15)激動の昭和初期

明治に新たに登場した電気事業は、参入障壁が低かった発電所の建設を初期投資の対象とし、そこから電力の消費事業を発展的に構築していった。成功を収めると発電所を新・増設し、さらに消費側の事業を拡大していく。このような「シーソー方式」で事業展開をする企業が多かった。

大正時代になると、長距離送電技術の確立を背景に、少数の電力会社が全国の電力を供給する寡占体制が形成されていった。電力事業は、電力供給そのものに特化し、他の事業への参入は難しくなっていった。鉄道事業に進出した企業の多くも、国有化されていった。第一次世界大戦後の世界的な不況も重なり、日本の産業界は大きな転換期を迎えた。

関東大震災と昭和恐慌は、日本経済に深刻な打撃を与え、多くの企業が倒産に追い込まれた。日窒のライバルであった鈴木商店も、その一つである。台湾銀行との密接な関係が裏目に出る形で、震災で発行された手形の回収が困難となり、両社は経営破綻の道を辿ることになった。

【全体主義3点セット】
大正が終わる1925年に、治安維持法が公布された。大正時代に花開いたデモクラシーは、この法律によって徐々に萎縮していくこととなった。

同時に、普通選挙法も施行され、政治と世論との距離が縮まった。政治家は一般国民(ただし男子のみ)の支持を得る必要が生じたが、逆に世論から得られた支持は非常に強固なものとなった。

同年、ラジオ放送が開始された。これにより、国民は最新の情報(NEWS)を迅速に得ることができるようになった。しかし、敗戦まで放送局はNHK一局のみであり、政府の政策を宣伝する役割を担っていた。20年後に初めて登場する黒幕の「声」が、その時代の終わりを告げるまで、国民の意識を誘導する強力なツールとして利用され、国家の統治に貢献した。
昭和の幕開けは、全体主義の暗黒時代の始まりであった。

【激動の昭和初期】
日窒は、関東大震災の起こったその9月に、日本初のアンモニア合成を成功させ、輝かしい未来の扉をひらいていた。その後、朝鮮半島への進出を果たす。

しかし、1927年に金融恐慌が始まる。1929(昭和4)年10月にはニューヨーク株式市場が大暴落し、翌月、浜口雄幸内閣の井上準之助蔵相が金解禁を断行、日本は金本位制に復帰した。だが、円高水準での解禁により輸出業が衰退し、深刻なデフレ不況を招いた。その結果、従来から安価だった海外産硫安がさらに安値で流入し、国内硫安産業は大打撃を被った。それでも浜口内閣は国民全体に「緊縮財政」を求めた。

朝鮮興南工場でようやく硫安の生産が始まった1930(昭和5)年、高騰した円の影響で、世界最安の電力コストを誇る朝鮮で生産した硫安でさえ、海外製品と競争できなくなった。加えて同年、朝鮮は異常渇水により発電量が8~9万kWに留まり、3系統ある生産ラインのうち2系統しか稼働できなかった。

さらに追い打ちをかけるように、IGファルベンを筆頭とするヨーロッパの硫安メーカーが「国際窒素協定(CIA)」を結成してカルテルを組織し、日本に対してダンピング(敵対的値下げ)を仕掛けてきた。朝鮮では硫安価格が100円/トンを下回っても採算が取れたが、実際には50円台まで下落した。

これは、ヨーロッパの過剰生産分の販路を日本に求めただけでなく、明らかに日窒・朝窒の経営を圧迫する意図があった。さらに、肥料産業としてだけでなく、軍需への応用可能性を持つ日本のアンモニア工業を抑制する狙いも含まれていた。

【軍部の台頭とその背景】
翌年(1930年・昭和5年)4月、ロンドン海軍軍縮会議で日本は調印する。これが直接の引き金になったとされるが、11月に首相浜口は東京駅で狙撃され、翌年8月に死亡する。
この暗殺の背景には、浜口内閣の、前・田中義一内閣の満蒙政策に対する批判が、大陸(満州)に進出したい軍部の反感を買ったことも一因と考えられている。

【3月事件】
1931年(昭和6年)3月20日、戦後明らかになった事件だが、民間右翼と陸軍皇道派の一部将校が、浜口内閣(幣原喜重郎が代理していた)を解散させ、宇垣一成陸軍大臣を首班指名させ軍事政権を樹立する計画を密かに立てていた。この計画は宇垣本人が拒否したため中止されたという。事件後、宇垣は陸軍大臣を辞任し、朝鮮総督に就任する。この計画には資産家の徳川義親が多額の資金を提供していた。

【柳条湖事変と満洲国建国】
浜口の死の翌月1931年(昭和6年)9月18日、「柳条湖事件(満州事変)」が勃発する。中国東北部に駐屯していた関東軍が奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道の一部を爆破した。関東軍は中国軍の犯行とすることで中国東北部を占領した。その後わずか半年後の1932年(昭和7年)3月1日、満州国を建国する。

【十月事件】
1931年(昭和6年)10月、満州事変を受けて政府は、不拡大・局地解決の方針を採択した。三月事件にも関わった陸軍皇道派らはこの決定を不服とし、軍隊を動員して都内要所を襲撃し、首相以下の閣僚を暗殺し、荒木貞夫陸軍中将を首相とする新政権を樹立する計画を立てた。陸軍大臣の南次郎らが事前に計画を察知し、実行には至らなかった。この計画には中国戦線でアヘンブローカーとして巨利を得ていた実業家、藤田勇が資金提供している。

【天皇の水俣工場訪問】
満州事変のおよそ2ヶ月後の1931年(昭和6年)11月、陸軍第六師団特別大演習が熊本で行われ、昭和天皇が迎えられた。第六師団はこのあと中国戦線に出兵する。

熊本大演習の後11月16日、天皇は日窒水俣工場を訪問した。
水俣は町をあげて天皇を迎えた。水俣の学校はすべて休校になり、全生徒・学生は工場前の国道脇に正座し頭を深く垂れるように命じられた。精神障害者は沖合の無人島に隔離された。

それまで工場は迷惑施設であり、落ちぶれた人間が堕ちていく収容所のような存在だった。それが、天皇訪問によって「水俣の誇り」へと認識が変わっていった。

【円安誘導と恐慌脱却】
浜口政権の次の犬養毅政権では、蔵相高橋是清による金輸出再禁止・金本位制停止(1931年12月)、そしてインフレターゲット政策や日銀の「買いオペ」などによって日本経済は急速に持ち直した。円は暴落し、1932年(昭和7年)には輸入硫安の価格は100円を超えるまでに急上昇し、ダンピングの危機は乗り越えた。渇水の危機も乗り越え、朝窒の運営は軌道に乗り始めた。朝鮮での硫安の製造価格は25~26円/トンだったとの証言がある。

しかし、国内メーカー同士での硫安競争も激化していたため、野口は硫安配給組合の理事長となり、業界利益の調整を図った。硫安は農業生産に不可欠な資源となり、次第に国家統制の度合いが強まる兆しが見えた。1936年(昭和11年)には重要肥料業統制法が公布された。

結果的に硫安は企業の稼ぎ頭となったが、肥料そのものは企業の飛躍的な発展にはつながらない、魅力に欠けた商品となっていた。野口は肥料以外の分野の鉱脈をいつくも見つけ出したが、やがてはどれも軍需産業へとたどり着く、そういう時代となっていた。

【血盟団事件と5・15事件】
1932年(昭和7年)2月に浜口内閣で金解禁を行った井上準之助が暗殺された。続いて3月には財閥トップである三井の総帥、團琢磨が殺された。この2つの事件は「血盟団事件」と後に呼ばれるようになったが、3月・10月事件で軍を見限った民間右翼による犯行であった。

そして5月には海軍青年将校たちにより首相犬養毅が殺される(5・15事件)。(高橋是清蔵相は次期斎藤実内閣まで継続)これにより政党政治に幕が降ろされた。

【朝鮮は天国だった】
不況のうえ緊縮。連続する要人の殺害。そして東北では記録的な飢饉が続いていた。大正末期に朝鮮に活路を見出した日窒は、まるでその後の内地の殺伐とした状況を予見していたかのように思われた。

水俣工場や延岡工場での日雇い労働者、たとえば地主崩れの小作農が食えなくなって低賃金で過酷なカーバイト工場で糊口を凌いでいたり、不況で解雇され最低の生活を強いられていたような日本人も、朝鮮に新しく出来た工場に活路を求め、伝手をたどって、逃げるように興南に渡った者も多い。
飢饉に見舞われた東北の出身者も多かった。威興の日本軍は東北部隊で、満期除隊になっても内地に戻らず興南に職を探しにくる者が多かった。

うまく職にありつき、社宅にでも入れた者には、水俣や延岡ではあり得ない優雅な暮らしが待っていた。赤煉瓦づくりのきれいな社宅には電気暖房が完備されていて興南の寒い冬にもシャツ一枚で過ごせた。炊事は電熱線。トイレは日本では見たこともない水洗式だった。

興南では天機里という町が一番の繁華街だった。日用品はもちろん、洋品店、喫茶店、洋菓子、レコード、ビリヤード、パーマ屋、楽器屋、玩具屋、写真館、映画館、そして別の界隈には夜にネオンが灯る店が並び、遊郭街もあった。

水俣ではみすぼらしい小作農だった者にとっては、夢のような文化的生活だった。下層には、かつての自分たちを映したような、みすぼらしい朝鮮人がいた。りんご、あずき、きび、めんたい、朝鮮人の物売りが社宅にやってきて、呆れるほどの安値で買えた。市場に行けば鶏、牛肉、キジ、犬の肉を売っていた。「空腹」という感覚を忘れるような生活だった。

一方、朝窒の朝鮮人労働者の社宅は木造、土壁。竹で編んだゴザのような床。共同便所。炊事は焚き物だった。社宅は、日本人とはまったく別のエリアになっていて、日常的には物売りや市場でしか朝鮮人と顔を合わすことはなかった。

【秘密結社 神武会】
一連のテロは、直接・間接的に軍部の政治的台頭を促す道筋を切り開いた。そして、その突破口となる昭和11年(2・26事件)に向けて、思想的・組織的な下地が築かれた。三月事件、十月事件、5・15事件、そして2・26事件に関与していたのが、昭和5年頃に結成された秘密結社「神武会」である。創設メンバーには徳川義親、大川周明、石原広一郎が名を連ねていた。彼らは「政党政治の打倒」、「軍事政権の樹立」、「南進」を目標に掲げていた。

この中で最も資産を持っていたのは石原広一郎であった。彼はマレー半島で鉄・マンガン・錫鉱山やゴム園、海運会社を経営しており、マレー半島の日本による植民地化を悲願としていた。当時、東南アジアは依然として欧米諸国の植民地であり、「南進」のための「軍事政権」、そしてそのための「非政党政治」を目指していたのである。

石原は昭和9年に発行した『新日本建設』において、後に「大東亜共栄圏」として知られる構想を提唱している。この構想には、日本主導によるアジアの解放や、民族自決の下でのアジアの統一が掲げられており、右翼勢力の心の琴線をくすぐった。石油が必要な軍部にとっても「南進」の正当性を獲得できる内容であったが、誰よりもこの構想を求めたのは南方でビジネスを展開していた石原自身であり、彼と利益を分け合いたい日本財界であった。

2・26事件に際して、石原は巨額の資金(一説によると35万円)を提供し、事件後に逮捕されたが、翌年に釈放されている。約1500名の陸軍青年将校らを巻き込んだこの事件はクーデターとしては失敗に終わったが、陸軍内の皇道派が一掃され、政財界との連携を好む統制派が主流となった。これにより、石原にとっては有利な結果となった。むしろ、この事件は皇道派を潰すために彼らがけしかけられたとも推測される。
事件後、軍部大臣現役武官制が復活し、「南進」が現実味を帯びてきた。

時系列が前後するが、2・26事件の五年後の1941(昭和16)年12月8日、海軍による真珠湾攻撃とほぼ同時に陸軍はマレー半島のコタバルに奇襲攻撃を行った。わずか二ヶ月で日本軍はシンガポールまでを占領し、石原の願望通りの展開となった。

占領後、それまで英国系企業が独占していたマレーシアの鉱山は、三井鉱山、古河鉱山、日本鉱山、そして石原鉱山の4社で分割された。また、石原鉱山が所有するスリメダン鉄鉱山は、日本が海外から輸入する鉄鉱石の約五〇%を占めるに至った。結果的に、占領後の東南アジアで日本が掌握した鉱山は合計39に及んだ。

1941(昭和16)年1月、石原は三重県四日市市に銅製錬所と硫酸工場を建設し、1943(昭和18)年には石原産業株式会社を設立した。これは後に四日市ぜんそくの被告企業となる。また、廃硫酸を四日市港に排出した「石原産業事件」、さらにフェロシルト不正処理事件など、いくつもの公害事件を引き起こしている。

【財界新人三羽烏】
1930年代なかばから財界で「新人三羽烏」と呼ばれもてはやされていた3人がいた。
満州に進出した日産コンツェルンの鮎川義介、のちに新潟水俣病の原因企業となる昭和電工の森矗昶(のぶてる)、そして野口遵だった。

1933(昭和8)年、昭和電工(1939(昭和14)年までは日本電機工業)は、朝鮮の木浦付近の声山鉱山を買収し、明礬(ミョウバン)からのアルミニウム鉱業的生産に日本で初めて成功した。ボーキサイトを産出しない日本では画期的な業績だった。アルミニウムは航空機の製造に欠かせない資源であり、この成功は大きな意味を持っていた。

鮎川(あいかわ)は、戦後不況で破綻の危機にあった久原鉱業を引き継ぎ、日本産業株式会社を設立した。彼は企業買収(M&A)とその再建、さらに新規株式公開(IPO)を活用して得た利益をもとに、次々と企業を買収し、日本最大の新興財閥へと成長させた。その名を残す日産自動車もこの傘下企業であった。

1939(昭和14)年の統計では、日本産業は日本で上位三位の資本額を誇り、日窒グループは七位、昭和電工を中心とする森グループは八位となっている。さらに後年の統計があれば、日窒はさらに上位に進出していた可能性が高い。

【半島ホテル】
日窒は、朝鮮での事業が軌道に乗ると、国策銀行をバックにした資本と軍需を手中に収め、飛ぶ鳥を落とす勢いで成長していた。
1935(昭和10)年には京城(現・ソウル)の人口は四〇万人を超える都市となり、様々な企業の本社が集中するようになった。しかし、ホテルに関しては鉄道局が経営する「朝鮮ホテル」が朝鮮初の洋式建築として豪華であったものの、それ以外の選択肢はほとんどなかった。

そこで野口は、京城の一等地にオフィス兼ホテルのビルを建築することを決意する。1936(昭和11)年5月、朝鮮ビルヂング株式会社を設立し、同年十月に半島ホテル株式会社を設立した。建設は間組が92万円で請け負った。当時、間組は朝鮮の土木業界で最も受注量が多く、最大の発注者は朝窒であった。野口は信頼する間組の社員を半島ホテルの社長に据えた。間組内部では意見の対立があったものの、依頼を断ることはできなかったという。

設計は後に帝国ホテルを手がける高橋貞太郎が担当し、鉄筋コンクリート造で地上8階、地下1階という当時半島で最も高いビルが建設された。冷暖房完備、洋室50部屋・和室50部屋を備えたこのホテルは、1938(昭和13)年に完成した。
場所は現在の明洞(ミョンドン)に位置し、戦後しばらくは韓国の民間企業がホテルとして使用していたが、1974年に取り壊された。現在はロッテホテル・ロッテ百貨店がその地に建っている。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1316:240831〕