朝鮮総督の宇垣一成は、水利権を三菱から朝鮮窒素肥料に移した責任を重く感じていたのか、長津湖発電所の工事現場を二度訪れていた。
特に湖畔の風景を気に入り、別荘を構えたいという考えを側近から聞いた久保田豊は、湖畔にバンガロー式の家を二軒建てて彼を招待した。
1936(昭和11)年の秋、錦繍に彩られた山々を映す湖面を抱いた別荘のコテージには、久保田と、滞在中の宇垣を訪ねてきた朝鮮司令長官の小磯国昭(元関東軍参謀長)がいた。
当時、長津江発電所は完成を待つ状態で、虚川江発電所もその年の春に着工が許可されていた。久保田はこの場で、さらなる新発電所計画を提案した。
【とある老人の訪問】
新たな発電所計画は、その年の夏、野口遵が別府の別荘に滞在中、安倍孝良という老人が訪ねてきたことから始まった。安倍は満州の産業調査会に属する土木専門家で、満州や中国・台湾の地理に非常に詳しかった。彼は関東軍と満鉄から嘱託を受け、鴨緑江(朝鮮と満州との国境を流れる790kmの河川)でのダム発電所の建設を野口に提案しに来たのだった。
権益の宝庫であった満州はすでに新旧財閥が電力開発に注目していた。特に日本電力の内藤熊喜は満州まで来て関東軍の将校を集め「満州の電力開発を大いに進めるべきだ。われわれにはその準備がある」と演説をぶちにきたこともあった。しかし満州政府の岸信介や関東軍幹部は、内地の財閥進出を警戒していた。特に関東軍は、満州国の支配を強固にしようとしており、財閥による影響力を嫌っていた。
満州は軍事的に関東軍が支配していたが、経済的には満鉄が圧倒的な経済勢力を築いていた。満州建国後、最大の権力者となった関東軍は、満鉄から各種企業の切り離しを図っていた。
関東軍には、野口率いる日窒は満鉄のような財閥には映っておらず、野口遵のことも当時よく比べられた鮎川義介のような企業転がしの蓄財屋とも同質に見られてていなかったようだ。
見方を変えると朝鮮側は、総督府が巧みに野口の野心を炙りつつ半島の産業化を進めてきたし、野口も総督府を利用しながら朝鮮の金を引き出し事業を拡大してきた。そういう相互依存の関係をうまく築くには満州国はあまりに軍閥国家であり、満州への独占欲と支配欲が強かった。
このあと鮎川率いる日本産業を満州に移転させ、「五カ年計画」の中心企業に据えようとするのだが、結局は関東軍と対立することになる。
満鉄と関東軍双方から嘱託されていた安部はそういった満州幹部の気質を知悉しており、鴨緑江開発は野口以外にやらせられる人物はいないと考え、別府まで訪ねて来たのだった。
【久保田に任す】
野口は安倍の提案に興味を示し、久保田豊を鴨緑江の調査に派遣した。虚川江の工事が始まるころには、野口は朝鮮での発電事業を久保田に一任していた。
ちなみに、野口は水俣工場のことを「橋本のところ」と呼び、若くして酢酸事業を軌道に乗せた橋本彦七に任せていたようだ。晩年の野口は後継者にふさわしい人物を2人育てていた。
話を戻す。鴨緑江は満州建国以前に満鉄が目をつけており、ある程度調査はされてあった。久保田は、鴨緑江が黄海に注ぐ河口から130km遡ったところに適地をみつけ、設計図を作成した。霞ヶ浦の2倍、琵琶湖の半分ほどの面積の人造湖から、落差93mで最大毎秒990トンの水を7条の水管で導き、1基10万Kwの発電機を7基回すことができそうだった。
アメリカでは、ルーズベルト大統領のニューディール政策の一環として、テネシー川流域開発公社(TVA)が進められていた。グランドクーリーダムは鴨緑江ダムに近い規模で、久保田もその動向に注目していた。
【国際発電所】
満州国は日本の傀儡国家とはいえ体裁上外国だった。両国にまたがる河川にダムを建造するとなると、利権もまたがり、さらに満州側は一枚岩でなかった。
宇垣と小磯とが、久保田の手柄である長津湖の湖畔別荘に会したときは、まずは朝鮮側に計画を承諾させる絶好の機会であった。久保田から鴨緑江計画の話を聞いた宇垣は、小磯と顔を見合わせたのち、すぐ承諾の返事をしたという。
そのころ、満州側は、関東軍が松花江の開発を計画していた。松花江は朝鮮の白頭山を源流に黒竜江(アムール川)に合流するまでおよそ1900kmを流れる大河である。吉林付近に巨大ダムを造るという計画があり、意見を聞くために久保田は新京(満洲国の首都)に招かれた。久保田は松花江計画に協力する姿勢を示し、満州側との関係強化を図った。
(この経緯によって、1939(昭和14)年に日窒は、満州政府・帝国燃料興業と合弁で、吉林人造石油株式会社を設立し、石炭液化工場を建設することにつながった。660haの広大な敷地に社宅を含む工場城下町が誕生した。)
さてその新京訪問で久保田は参謀長と司令官に、鴨緑江計画の提案を持ち出した。すでに安倍孝良が根回しをしているので話が通りやすかった。しかも久保田の提案には切り札があった。計画の70万kwを折半するとしても、いきなり35万kwを消費することは工場でも同時に造らない限り難しい。よって当座、電力消費が間に合わない分があったら朝鮮側で引き受ける、という条件だった。また、開発資金も折半ということにして、当座は野口のほうで何とかするという気前のよさも表明した。
そういった、権益に食らいつく風情を見せない久保田の提案は満州幹部層に大いに気に入られた。宇垣と元関東軍参謀長の小磯の承諾済みというのも筋が良かった。鴨緑江開発は久保田の新京滞在中に話が決まった。
【鴨緑江発電株式会社 水豊発電所】
1937(昭和12)年、鴨緑江発電計画が具体化し、河口から100km上流の水豊に全長900m、高さ106mのダムを建設することが決定した。「水豊」と呼ばれる地点だったので「水豊発電所」とされた。発電能力は70万kWで、1941(昭和16)年までに第一期工事を完成させる予定だった。
予算は1億円とされ、朝鮮側と満州側で折半することが決まったが、しかしいざ契約となると会社形態について、満洲国産業部次長になっていた岸信介らと対立した。岸は本社を新京に置いて、満州の特殊会社にしたいという。これにばかりは朝鮮側もおいそれと譲れず、会議を幾度も開いたが決着がつかなかった。いっそ国境のどこかに本社を建てるか、という話まで出た。
1937(昭和12)年の正月、野口と久保田は東京にいて帝国ホテルに宿泊していた。そこに岸信介と関東軍経済参謀がやって来て話をすることになった。そこで野口は、まったく同額の資本金、同一の株主、同一の重役で、2つの会社をつくり、共同事業をするという形をとろうという構想を伝えた。これは岸らの気に入ることとなり、話は決着した。
同年9月7日、朝鮮鴨緑江水力発電株式会社(本社・京城)と満州鴨緑江水力発電株式会社(本社・新京)が設立された。資金は、朝鮮側は長津江水電、東洋拓殖が各2000万円、朝鮮送電が1000万円。満州側は満州国政府が5000万円全額を出資した。社長は野口、常務取締役(常務理事)に久保田と満州から1人就いた。
結局、事業の主導権は野口側が執ることとなり、工事も一切担当することとなった。
工事が始まるとまたたく間に1億円を使い切り、追加融資が必要になった。朝鮮銀行と日本興業銀行の両行が幹事会社(アレンジャー)となり、三井、三菱、安田、住友、三和、第一という大手銀行によるシンジケート融資で賄うことになった。最終的に建設費用は2億4100万円となった。
【鉄道敷設】
資材輸送のために、平北鉄道株式会社が設立され、朝鮮の定州から水豊まで120kmの鉄道を1年以内に敷設しなくてはならなかった。トンネルが多く通常ならば3年はかかる工事だった。久保田は最初の赴戦江以来行ってきた、同時に多地点から掘削する突貫工事で進められた。
着工直前に岸信介は満州側にも線路を延長してほしいと久保田に申し入れてきた。満州側はこの路線を満鉄本線に接続させる目論見があった。満州側には砂礫が豊富にあるので、コンクリートの骨材を搬入できると考え、久保田は岸の要望を受け入れた。これは満州であるにもかかわらず朝鮮側の資本で作られることになった。鉄道は1年で敷設された。
【コンクリートの打ち込み】
莫大な量が必要となるセメントの調達が難しかった。遠方から運ぶより近くに工場を建てたほうが合理的だと考え、小野田セメントに依頼し、平壌郊外に年産18万トンの工場と、水豊に日産1000トンの粉砕工場が建設され、一日に8000m3のコンクリートを打ち込む計画となった。
同時期に、アメリカはグランドクーリーダムを建設中だった。久保田は自社の職員と、西松組、間組、石川島重工業の社員を、工法や重機の見学のために現地に派遣した。
最新技術を吸収してきた彼らはその技術を導入し、間組は朝鮮側から、西松組は満州側から同時に競い合うように工事を進めた。
【発電機】
1台10万kwという巨大発電機はそれまで日本では製造した経験がなかった。シャフトの直径が1mで重量は65トンにもなる。これは日本製鉄室蘭製作所で製造された。
発電機は7基のうち5基を東京芝浦電気(東芝)に、2基をジーメンスに発注した。東芝は300トンのクレーンを備えた工場を新造して製造した。
満州の電源周波数は50Hz、朝鮮は60Hzであった。東芝は3基を両周波数用に設計した。
発電機は内地で製造し、船で鎮南浦(現・ナンポ)に運び、専用の80トンクレーンを備え付け、それで陸揚げした。巨大な発電機は専用に作られた車高の低い貨物台車に乗せられて水豊へと向かったが、数センチのところでトンネルをくぐれないところがあった。急遽、レールに敷いてあるバラスを掻き出し、車高を低めて通したという。
【水没補償】
琵琶湖の半分ほどの大きさの湖ができるとなると、多数の町や村が水没することになる。水豊の場合、朝鮮側だけで2郡2万戸、人数にして10万人にも及んだという。
水豊ダムの補償に関しての資料は少ないが、永塚利一著『久保田豊』(電気情報社)には、久保田が自らが直接、誠意を持って補償の仕事に当たっていた、とある。
役場や学校・郵便局・警察署は代替地に新築して寄付し、朝鮮の農民にたいしても代替農地を与えて住居を建て、職を失う人に対しては塩田地帯での仕事を斡旋したりした、とある。しかし具体的な内容や補償額などは載っていない。『久保田豊』は久保田を偉人視する伝記本で、移住を強いられた朝鮮住民に対する久保田の憐憫が過剰に表現されていて、作為的な印象を受ける。
そもそも10万人が沈む工事は日本内地においてはおそらく不可能であった。内地でのダム建設でこれまで最大の水没民をもたらしたのは東京の小河内ダムで、945世帯であった。10万人規模の移住がともなう計画は植民地でなければ不可能だった。
【社長の交代】
日窒は芋づる式に関連事業の展開をしていったが、それとは別に野口の趣味とも言われる鉱山事業の系譜がある。日本各地の金、鉄、銅、硫化銅、硫化鉄鉱、水銀、など、様々な鉱山を買収し、鉱山経営をしていった。彼が最後に着手しようとしていたのが、安倍孝良が鉄鉱石の産地として目をつけていたという海南島であった。
1937(昭和12)年、盧溝橋事件によって日中戦争が始まった。翌年、日本が武漢三鎮(武昌・漢口・漢陽の3市)を占領すると、蒋介石率いる国民政府は長江上流の重慶に退いた。英米は、開戦時よりいくつかの支援ルートを使って軍事物資を蒋介石に提供していた。
そのうち仏領インドシナのトンキン湾に面したハイフォンからのルートを日本軍は遮断したいと考えており、そのばあいハイフォン沖に浮かぶ海南島は要衝となった。また「南進」作戦にとっても海南島はきわめて重要だった。そして軍は何よりも鉄鉱石がほしかった。
1939(昭和14)年、日本海軍は、海南島を占領した。海南島を日本との緩衝地帯としていたシンガポールを持つイギリスとの対立を憂慮していた陸軍を差し置いての強行だった。
それからおよそ半月後、久保田のもとに海軍から、至急海南島に電気施設を作れと連絡があった。
翌年、1940(昭和15)年1月、海軍の航空機で、野口は久保田とともに調査のために海南島に行った。野口は帰りの飛行機では異常に寒がっていたという。2月、野口は京城に完成した「半島ホテル」で社員と将棋盤をかこんでいるとき脳溢血で倒れた。
即死は免れたが、言葉に障害が残ったらしい。病床で、たどたどしい口調で久保田に向かい、鴨緑江水電の社長の座を譲った。
翌年、野口は伊豆韮山に構えた別荘に移って養生していたが、1944(昭和19)年1月19日死去した。
【送電開始】
1944(昭和19)年3月、営業運転を開始した。すでに戦局はひどく悪化しており、ジーメンスの発電機の1つは製造が間に合わず、合計6基で、総出力60万kwとなった。
ちなみに鴨緑江水豊発電所建設について、安倍孝良が映像記録を残すように久保田に進言していた。そのため専門の撮影スタッフチームが組まれ、45分程度にまとまった記録映画が残っている。
https://youtu.be/_veDMXuhduY?si=4k44hWopY_6EjA5r
1943(昭和18)年5月5日には完成が近い発電所を満洲国皇帝溥儀が訪問した。そのときの映像も残っている。
https://youtu.be/sTnVljocDHc?si=kbTkehp63AV5QlTS
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