【人造石油】
世界の石油産出量は1974年までアメリカがトップだったが、戦前の日本も石油の大部分をアメリカから輸入していた。1930年代に入ってオランダ領東インド(現在のインドネシア)からの輸入が増えたが、1940(昭和15)年時点でも日本の石油依存度は77%がアメリカに向いていた。石油備蓄が1.5年分しかなかった海軍にとって、石油の供給は生命線だった。にもかかわらずそのアメリカと戦争を始めるに至った点は、当時の日本の政策決定に大きな疑念を抱かせるものである。
石炭の液化技術は1913(大正2) 年にドイツで発明された。日窒はアンモニア合成で得た高圧技術の応用により、石炭液化を多角化戦略の一環として早くから研究を始めていた。1928(昭和3) 年には咸鏡北道にある石炭鉱を38カ所購入し、1931(昭和6) 年には「低温乾留法」で石炭からガソリンを生産する計画を立て、興南に工場を建設した。翌年には朝鮮永安工場でも石炭から重油やメタノールを製造している。
日窒は高圧技術を用いない低温乾留法を採用していたが、ドイツはより高品質の液体燃料ができる石炭の水素添加による直接液化法を開発していた。1927年、IGファルベンがドイツ東部ロイナに工場を建設し、工業的生産に成功した。この技術は、日本海軍も1921年頃から徳山燃料廠で研究していたが、国際的な情勢が悪化し、石油の対日禁輸が現実味を帯びてくる中、海軍は日窒に生産協力を求め、独自に開発した触媒の特許を日窒に供与した。
日窒は、1936(昭和11) 年、炭田地帯であるソビエト国境に近い朝鮮北部の阿吾地に工場を建設し、1939(昭和14) 年から操業を始めた。しかしトラブル続きで、日産100トンの量産体制が整うのは1943(昭和18)年に入ってからであった。
同時期に、1936(昭和11)年に日窒は「産業開発5カ年計画」の一環として、満州の石炭を利用した液化事業を計画するよう満州国政府から依頼され、満州国特殊法人吉林人造石油株式会社を設立。阿吾地の技術を取り入れて計画が進められた。興南工場のように660haの広大な荒野に工場が町ごと構築された。
また、満鉄は撫順にオイルシェール工場(油母頁岩から人造石油を生産)を建造した。
戦前の日本が石炭の液化に着手したのはこの3工場であった。
しかし日本が太平洋戦争に突入し南方の石油が手に入れられるようになると政策を変更し、阿吾地工場はメタノール生産に転換された。吉林工場は、満州国政府の指示で満州人造石油株式会社に売却されたのちに解散した。満鉄の撫順工場は、南方油田産のナフサの水素化分解(脱硫や脱窒によって、ガソリン、LPG、ケロシン、軽油などを得る)に転換した。
しかし戦局が悪化し、日本が南方の石油を手放すと、阿吾地工場は石炭液化を再開するように命令された。しかし、生産を軌道にのせることができず敗戦を迎えた。
【鉄鉱石】
前講でも触れたが、海軍は陸軍の反対を差しおいて海南島に侵攻した。攻略後、久保田豊は海軍から海南島の電力設備の敷設を依頼されたのを機に、海軍の協力を得て調査隊を何度か島に送った。
1940(昭和15)年4月7日、安倍孝良が言っていたとおり、島の西南部の昌化江中流域、石條山に埋蔵量4〜5億トンとも見積もられ、しかも純度60%以上の優良赤鉄鉱で露天掘りが可能な大鉱床が発見された。
1935~40年の間、日本は鉄鉱石の7~9割を輸入に依存しており、その多くがマレー産だった。原油と同様に鉄鋼石は戦争の動機と目的であった。海南島に世界的な大鉄鉱床が発見されたニュースに、日本国内はたちまち色めき立った。海軍の侵攻も正当化された。
日本製鉄の平生鉢三郎が自ら久保田のもとに「うちにやらせろ」と言ってきた。日本鋼管も申し入れをしてきた。病床の野口は「平生のやつ失敬千万だ」と怒り「1億でも2億でもいいからやれ」と久保田に命じた。
海南事務所を設け久保田が所長となった。彼には水豊水電の社長の仕事もあったので、中橋謹二(日窒創業時の役員で実業家・政治家であった中橋徳五郎の次男)を代理として常駐させた。
鉱山開発には積出港と鉄道が必要だった。海軍は1942(昭和17)年までに300万トンを積み出せるように命令を下してきた。敷設する鉄道は53km。現地住民と、上海や香港から呼び入れた苦力(クーリー)を最盛期には約2万人使った。線路を載せるバラス(砕石)は全部鉄鉱石だった。現地では鉄鉱石ではない石ころを見つけることが困難だったという。
鴨緑江から呼び寄せた技術士によって水力発電所も敷設された。
1942(昭和17)年10月28日、日窒海南興業株式会社が設立され、久保田が社長となった。
海軍は石原産業にも海南島開発で協力を呼びかけていた。石原産業は磁鉄鉱の鉱山を開発していたが、海軍は積出港について石原産業にも便宜を図るべきと考え、久保田の勧める場所と意見が対立した。それで工期が遅れ、港湾設備の完成は1943(昭和18)年の暮れとなった。すでに戦局は悪化しており、船舶の航行が難しくなっていた。結局、内地に送られた鉄鉱石は38万トンに過ぎなかった。一時は150万トンもの鉄鉱石が岸壁に山積みされたままとなっていた。1945年1月には事業の中止命令がなされた。
海南島の鉄鉱山開発には、世界最大級の水豊発電所の予算を上回る2億5千万円という巨費が費やされた。5千万は日窒の手出しだったが2億は日本興業銀行だった。
海軍の余計な注文や指示がなければ8000万円は浪費せずに済んだと計算した久保田は、1945(昭和20)年1月、海軍大臣の島田繁太郎に補償を依頼した。大臣は話を受け入れ補償に応じた。海軍省から小切手を受け取るとその足で興銀に立ち寄り、返済した。8000万円とはだいたい航空母艦一隻分の建造費に相当する。
【南方】
久保田は海南島を囲んだトンキン湾の向こうにある仏領インドシナへの関心から、ドイツがフランスに侵攻する直前、1941(昭和16)年の春、対岸の港町ハイフォンから足を踏み入れ、インドシナの様々な場所を視察した。ハノイに日窒の事務所を設置し、内地から鉱山の専門家を呼び寄せた。また鉱山に詳しい現地のフランス人を顧問に迎え入れた。このときの調査は戦後彼が設立する日本工営の事業に引き継がれることになる。
1943(昭和18)年3月、日窒は「南方局」を設置し、久保田を局長として担当させた。
開戦から2ヶ月、1942(昭和17)年2月14日、スマトラ島パレンバン奇襲攻撃で日本は念願の油田を無傷で手に入れた。
スマトラ島の北部の標高900mには、面積が琵琶湖の2倍ほどあるトバ湖がある。かつて経済使節団の小林一三(阪急の創設者)が水力発電の適地と考え狙っていた。久保田は陸軍にスマトラの電源開発をしたいと申し入れ、スマトラ島水力開発調査団が結成された。朝鮮で石油液化を担当していた工藤宏規を呼び出した。久保田はトバ湖で100万kwは取れると考え、リアウ諸島ビンタン島からボーキサイトを運び、その電力で精錬するという計画を立てた。
シンガポールでは椰子の油を用いた植物油脂工場を、マレー半島イポーでは火薬の現地自給の工場とカーバイド工場を、ジャワでは電解苛性ソーダ工場、マンガン鉱鉱山・硫黄工場・炭鉱の開発など、数多くが手がけられた。
1945(昭和19)年1月、久保田は野口の訃報をジャワで受け取り、現地で追悼会を行った。
戦局の悪化とともに、大規模なものは資材輸送難から計画中止を余儀なくされた。そのほかの多くも完成前に敗戦を迎えた。
【中国・台湾】
1942 (昭和17) 年春ごろ、 軍から硫安工場建設計画が出され、華北窒素肥料を設立。年産20万トンの硫安の製造を目指したが、戦局の悪化で資材の入手困難や設備の輸送困難により未完成。
1943(昭和18)年、台北に台湾窒素興業を設立。アンモニア合成から硫安製造までが計画されたが、建設資材の不足などから火薬類製造に計画を変更。カーリットの製造のみ実現した。
敗戦後、火薬製造に関わっていたことで戦犯になることを恐れ、台湾に残って工場運営を続けた日窒職員がいた。彼は1947(昭和22)年、2月28日の台湾住民による反政府暴動(2・28事件)で、住民に拳銃で脅かされて火薬庫の鍵を開けた咎で国民党政権による銃殺刑を受けた。
【水俣工場】
カーバイドからの酢酸製造に成功し、日本の工業用酢酸の64%を担っていた水俣工場も、戦局の色が濃くなると軍需の要請を強く受けた。1943年(昭和18)年の軍需会社法に基づき、1944(昭和19)年1月17日、日窒は軍需会社に指定された。野口遵の死後の2日後だった。朝鮮窒素は1941(昭和16)年12月26日に日窒に合併されていたので、各工場が軍需会社法の指定を受けた。
水俣工場は、大きく分けて合成アンモニア系列とアセチレン系列のプラントを持っていた。
(アンモニア系列)
主産物である硫安は稼ぎ頭ではあったが経済統制の枠にはめられていたので発展は無かった。アンモニアからの硝酸製造が火薬原料として軍事的要請で拡大し、水俣工場が日本最大の生産能力を持った。
(アセチレン系列)
軍需によって新たに成長したのはアセチレン系列のほうだった。これらは触媒(化学反応に特定の道筋をつけたり、反応速度の調整をしたりする物質)に水銀を用いている。
1935(昭和10)年に入社したばかりの技術者中村清によって塩化ビニル製造が研究され、1941(昭和16)年11月に月産3トンの工場が完成した。これが日本で初めての塩化ビニル樹脂の工業的生産だった。製品は紀元2600年を記念して塩化ビニル樹脂は「ニポリット」、塩化ビニル繊維は「ニポレーヌ」と命名された。
塩化ビニルは塗料やパッキン、電線皮膜などに用いられるため、軍から増産を要請された。当初は月産3トンだったのが1944年には月産116トンとなった。戦前・戦中を通じ日本で塩化ビニルを生産したのは水俣工場のみであった。
中村清は橋本彦七の片腕となった研究者で、アセトアルデヒド製造のさいの助触媒の研究を行った。助触媒はメチル水銀の生成量が左右される箇所である。
また、セルロースアセテート(商品名「ミナリット」)の製造も始まった。これは飛行機の翼塗料や、色分け電線塗料として軍需向けに販売された。
1936(昭和11)年、無水酢酸と酢酸ビニルの生産設備が完成した。そして、酢酸ビニルを原料に作った樹脂皮膜から防弾ガラスや燃料タンクの防弾膜が造られ軍事用に用いられた。これは撃ち落とされた米軍戦闘機を調べたところ、五枚のガラスの間に四枚のポリビニルブチラールの皮膜が挟まれていたことがわかったので、日窒の水俣工場職員が模倣して製造した。この技術は現在の自動車のフロントガラスにも使われている。
1934(昭和9)年からアセトンの生産も始まり、39年には月産160トンに至った。これは航空機とくに燥撃機の防風膜として使われるアクリルガラスの製造などに用いられた。
アセテートは短繊維(スフ)の需要が延び、「ミナレーヌ」という商品名で主に国民服の素材として出荷された。
そのほか、ゴムの硫化促進剤や安定剤、抗マラリヤ剤の原料になるアセト酢酸エステルなど、すべてが軍需関連製品となっていった。
このように軍需による好景気に湧いた水俣工場では、橋本工場長の下、彼が切り拓いたアセチレン系誘導体による多角展開が花開き、戦局が悪化するまでは、技術者たちがそれぞれに才能を発揮し活躍していたのである。
【女子挺身隊、学徒動員、朝鮮人】
水俣工場は軍需を請け負いフル操業だったが、戦局が悪化すると工員が徴兵され労働力が足りなくなった。1944(昭和19)年1月時点で、従業員3538名中招集された労働者は606人(約17%)だった。そのなかには女子挺身隊や男女の学徒動員、朝鮮人が多かった。沖縄からの学徒疎開者もいた。学徒動員は熊本県内各地あるいは長崎から招集され、寮に住まわせた。(旧制)中学生までが24時間3交代制に組み入れられた。彼らには「勝つまではがんばろう」が合言葉だった。女生徒たちの赤い鉢巻は殺風景な工場に花が咲いたようだったという証言がある。
岡本達明編の『聞書水俣民衆史』には、軍需工場に指定されていた水俣工場では朝鮮人の給料は日本人より高かったという複数人の証言がある。はじめ日給3円50銭、のちに値上げ交渉をして5~8~10円と上がった。食料の配給は日本人の3倍はあったという証言もある。そのため非常に多くの朝鮮人が働いていた。朝鮮の工場とちがって、日本人との対立は少なく、暴力が伴う奴隷的な労働力搾取はなかったという。
【空襲】
1945(昭和20)年3月29日、水俣工場に米軍の空爆が到達した。米軍は軍施設のみならず民間工場も標的としていた。水俣は8月10日までに7回空襲を受けた。7月31日と8月10日は大規模な空襲だった。
橋本彦七の指示で工場敷地内には防空壕が数多く掘られていた。空襲警報が鳴ると全員が入るようにし、幹部のいる場所も用意していた。空襲警報が鳴ると、水素を使っているプラントはすぐに水素を放出し、爆発を防いだという。
敗戦の日、工場は足の踏み場もないほど壊滅的だった。のちのアメリカの報告文書によると、化学工場の空爆では昭和電工川崎工場に次ぐ規模だったという。
橋本は早くから内地、特に軍需工場の空襲を予想していたらしく、重要なプラント設備や高価なプラチナ(硝酸製造用の触媒)などを山間部の竹やぶなどにトラックに積んで隠しに行っていた。敗戦後、アンモニア合成とアセトアルデヒド・酢酸プラントは奇跡的に被害が最小限で済んでいた。また空爆は工場を中心に行われていて、社宅を含む町の被害はわりと少なかった。一方、延岡は6月29日に大空襲を受け、工場を含む市内全体が大損害を受けた。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1319:240923〕