水俣病が映す近現代史(19)敗戦前後の朝鮮と水俣

著者: 葛西伸夫 かさいのぶお : 熊本県水俣市在住
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【解放後の朝鮮半島】
ドイツと日本の敗戦が濃厚になってくると、英・米・ソの3国は戦後処理について頻繁に会議を開いた。朝鮮半島の分割統治についても(ソヴィエトの満州侵攻を含め)先々のシナリオまで策定されていた可能性がある。

1941(昭和16)年4月13日に締結した日ソ中立条約は効力は5年間で、破棄通告しなかった場合に5年間自動延長とされていた。1945年4月5日、ソヴィエトは条約の破棄を通告してきた。これにより日ソ中立条約は1946年4月25日に失効することとなった。

ところが失効するまえ1945(昭和20)年8月8日、ソヴィエトは対日宣戦布告をし、9日に日本領に侵攻してくる。
15日に日本はポツダム宣言を受け入れ、敗戦した。
アメリカはその直前に半島の分割ライン(38度線)を策定し、ソヴィエトは8月16日に提案されたこのラインに同意したとされている。

解放に湧いた朝鮮では「朝鮮建国準備委員会」が組織され、新たな国造りが始まった。半月の間に全半島に145箇所の支部ができた。9月6日、ソウルで朝鮮人民共和国の建国宣言がされ、組閣名簿が発表された。その中には李承晩や金日成など抗日運動家が名を連ねていた。

しかし半島北側すなわち38度線以北では、ソヴィエト軍が8月24日に平壌に進駐し占領を宣言していた。10月頃にはソヴィエトにいた金日成がやってきて11月には行政局を発足させ建国を開始した。

一方南側では9月8日にマッカーサーが仁川に上陸、軍政の施行を宣言し、自主的な建国の動きを排除した。10月、ハワイに定住していた李承晩が帰国。アメリカは、日本がこしらえた朝鮮総督府下の行政機構を存続させ、親日派とともに李承晩を取り込んだ。

南側では民衆による反米・反李承晩運動が盛り上がった。李承晩側は彼らを「アカ(=共産主義者)」と呼び、弾圧した。
特に日本占領下で多くの独立運動家が流刑された済州島では、1948年4月3日、大規模な蜂起が起こった。李承晩は済州島を「アカの島」と呼び、警察だけでなく右翼テロリストも送り込み、過剰な弾圧を加えた。

7年間にわたる闘争でおよそ8万人が殺されたと言われている。韓国では長い間この事件(四・三事件)はタブーとされ闇に葬られていた。弾圧下、日本に逃れてきた人たちが数万人いると言われている。現在の在日韓国・朝鮮人のなかでこの事件にルーツを持つ人は多い。

南側では1948(昭和23)年7月20日李承晩が初代大統領に就任し、15日、大韓民国政府樹立を宣言した。
北部では同年9月9日、朝鮮民主主義人民共和国が誕生し、金日成が初代首相となった。こうして、互いに認め合わないふたつの国家が朝鮮半島に誕生した。

【敗戦直後の興南】
朝鮮の日窒関連の施設は組織的な空爆攻撃を受けなかったので、直接的な戦争被害はほとんど無かった。「戦場」と化したのはむしろ戦後だった。上述したように、ソヴィエトは1945(昭和20)年8月9日、満州や朝鮮半島北部などに侵攻してきた。

日窒関連のなかで最も悲劇的だったのは、ソヴィエト国境に近い阿吾地工場の職員とその家族だった。工場職員は午前2時ごろには兵を確認したという。すぐに阿吾地からの撤収が始まった。しかし鉄道は軍部専用とされ、自動車と牛車なども軍が使い、即座に居なくなった。

工場従業員とその家族の約3000人の多くは560km離れた興南に向けて徒歩で移動しなくてはならなかった。しかもただの560kmではなく、途中で標高2200mの山越えがあった。体力のある男子はすでに徴兵されており、老人と女子が多かった。興南にたどり着くまでに100名近くが死亡し、2ヶ月近くかかって興南にたどり着いたうちの約900名が死亡した。

8月15日の正午の天皇の敗戦宣言は朝鮮でも内地と同様にラジオ放送された。
8月13日に、日本軍は工場に破壊準備を命令していた。しかし、15日の午後、日窒京城支社長の白石宗城は興南工場で幹部を集め「工場は平和産業として生産を続ける」という方針を示した。その後すぐ、彼は興南を出る最後の鉄道に乗って安全に日本に帰った。多くの職員は興南を脱出することをせず、彼の方針にしたがって工場で操業を継続しようとした。

15日、朝鮮人は「解放」の喜びにあふれ、興南の街中でも太極旗を振りかざす人が多く見られたという。その日のうちに朝鮮人の「保安隊」(日本人がそう呼んでいた)が結成されていたようで、「武器を出しなさい」と社宅をまわっていた。

即座に日本人に復讐したり、排斥するような組織的な暴動はなかったようだ。ただ日本人への恨みが強いものは黙っていなかった。まず各地の駐在所が打ちこわしにあった。でも巡査たちは報復を恐れてか既に逃げていたらしい。工場で朝鮮人を酷く扱っていたものは仕返しにあった。社宅や工場で、朝鮮人による拷問のようなことが行われた。

ただしある程度時間が経つと、残った日本人と朝鮮人のあいだにある程度の対等の交流があったようだ。当時子どもだった人の記憶にも、戦後初めて朝鮮の子どもと遊んだという記憶を持っているひとがいる。

最も恐れられていたのはソヴィエト兵だった。突然トラックで町にやってきて女性をさらっていくことがあった。だから多くの若い女性は髪を丸めた上で身を隠した。明け方叫び声がして目を覚ますと若い女性が複数の兵士に無理やり連れて行かれるのが窓から見えた、という子供時代の記憶を語る証言がある。

ソヴィエト軍が興南に進駐したのは8月26日だった。工場は接収された。
職員(正社員)の給料日は24日、工員は28日だった。このさい24日にまとめて工員にも支給したらどうかという議論があったらしいが、そうはならなかった。26日から日本人の工場への立ち入りは禁止され、工員の給料は支払われることはなかった。

敗戦当時、興南には2万5000人の日本人、うち9000人の工場従業員がいた。しかし朝鮮各地の工場から従業員や住民が、日窒の拠点であり港町である興南に移動してきたので一時的に人口が急増した。

9月、社宅の立ち退きが命じられ、朝鮮人社宅と交代させられた。レンガ造りの近代住宅から、木造土壁で竹で編まれた床の朝鮮人社宅に引っ越した。持ち出してよい荷物は一人1つと限定され、家具や調度品は置いたままだった。冬は寒く、暖かくなると床にシラミが湧いた。

阿吾地からの避難民が10月に入って興南にたどり着き始めると、次々と衰弱や病気により死んでいった。発疹チフスが多かったという。遺体を運び、穴を掘って埋葬するのは徴兵されなかった若い男子の仕事だった。小学校時代の遠足や秋のりんごの収穫の思い出の詰まった興南郊外の「三角山」は、埋葬の記憶で塗りつぶされた。

故郷に帰れず朝鮮に埋葬されていく日本人を見て引き揚げを決意した家族も多かった。38度線を越えるには、陸路や鉄道を使ったという証言もあるが、多くは漁船を雇って、国境近い注文津(ちゅうもんしん/チュムンジン)に渡った。38度線を越え注文津に降り立ったとき、生き残ったという感慨を抱いた人が多かったようだ。

【興南人民工場】
1945年8月24日、ソヴィエト軍は平壌に進駐し、朝鮮北部での統治を開始したが、1946(昭和21)年2月には「北朝鮮臨時人民委員会」が設立され、金日成が委員長に就任した。
興南工場は、ソヴィエト軍による接収直後はあいまいだが、1946(昭和21)年5月からは朝鮮共産党下の労働組合によって組織的に管理され、興南人民工場(フンナム・インミンコンジャン)として操業が続けられた。

接収直後は日本人がいなくても操業できるとして入場を認めなかったが、やがて工場は労働力を必要とし始めた。とくに専門知識や技術を持った人がいないと生産維持が難しくなった。1945(昭和20)年10月から「興南人民工場」は日本人技術者と人夫の雇用を始めた。帰国の予定が決まらない元従業員はそれに応じた。1946(昭和21)年3月には2700名ほどに達した。

そのなかには、嘱託として採用される「指定就労者」と、単なる労働者として採用される「人夫」とに分けられ、「指定就労者」はふたたび元の日本人社宅に住むことを許され、給料と家族の分の米まで支給された。「人夫」採用の者には生活に不十分な給料しか支給されず、両者の間には軋轢が生まれたという。

船を雇って帰国しようとする日本人をはじめのうちは大目に見ていたが、中に技術者が紛れ込んでいるとわかると、乗船時に工場側の人間がチェックするようになったという。技術者は確保しておきたかったようだ。

やがて興南に残った技術者たちの間には朝鮮の工業技術の発展に協力したい気持ちが高まってきた。1946(昭和21)年11月、平壌の日本人居留民会に「日本人技術者本部」を設けた。朝鮮の人民委員会は彼らに期待し、経費も支出した。
彼らは休止していたプラントをいくつも再稼働させた。なにしろ電力は過剰にあった。

特に大きな成果を上げたのは、イソオクタン工場を利用した酒の製造だった。アセトアルデヒドに水素添加して95%エタノールを製造したのである。これを35度に希釈して飲料用として販売した。まだ酒が貴重だったため、朝鮮(北側)全土で飛ぶように売れ、興南人民工場は莫大な利益を得た。そのため彼らの給料は朝鮮人よりも高く引き上げられた。

やがて定期的に日本からの帰還船がやってくるようになると、日本人技術者が一度に帰らないように慰留された。日本人技術者本部は残留人員を決めて少しずつ帰還させるように努めた。1948年7月6日に舞鶴に入港した引揚船「宗谷」が、最後の日窒従業員を乗せていたという。

【水俣工場】
工場長の橋本彦七は米軍の空爆を予想し、生産に欠かせない機材や重要部品を山間部に避難させていた。ただしそれらが戦後実際にどれだけ役立ったかは不明である。

工場敷地内には専用港(梅戸)の手前に山があり、頂上には軍が高射砲を設置した。
工場長の橋本彦七は、その山の中に横穴防空壕、といっても全従業員4000人を収容できる巨大な防空壕を建築した。約100万円もの費用をかけて1945(昭和20)3月には一応の完成をみた。が、その後も工事が続けられた。

その3月から水俣工場への空襲が始まった。敗戦まで7回のまとまった空襲があったが、次第に米軍機は、警報が発令されてから間をおかず襲来するようになった。巨大防空壕は工場の最も西にあったので、全員が安全に避難するのは難しかったという。7月31日の空爆は最大規模で、変電所が破壊され工場はすべて停止した。防空壕の追加工事をしていた人たちが直撃弾を受けて26名が死亡した。うち20名は朝鮮人だったと言われている。

戦争が終わってから5日、1945(昭和20)年8月20日、橋本彦七は係長以上を集め、工場復興に関する会議を開き方針を定めた。復興方針は要約すると次のとおりであった。
・食糧問題に寄与するため、まず硫安製造の復興に力を注ぐ。
・アセチレン系統はさしあたり酢酸を製造して食酢を供給する
・アセチレン系統は将来の目標を「ミナレーヌ」(短繊維アセテート)におき、事情の許す限り関係工場を逐次運転する。
・全工場を極力平和産業として復興し、従業員の将来の生活を保証しようとする。

橋本はまるで敗戦の日を待ち望んでいたかのように、職員に発破をかけて工場の復興を目指した。
復旧工事は残存従業員が一丸となって猛スピードで進められた。水俣は住宅地の空爆被害が少なく、従業員が工場の復興作業に専念できた。
また、日窒の工場はどこも部品や装置の多くを自家製造・修理していた。部品のストックや道具も残されていたので、修理作業は効率よく進んだ。
また、製造ラインは多系列あり、装置間にコンクリートの壁が作られていたので、修理可能なものが残されていたらしい。

日本で2番目に大規模の空爆を受けた水俣工場は、停止した工場の中では日本で一番早く再稼働する工場となった。第1期復興計画の予定通り、1945(昭和20)年10月15日、日産20トンのアンモニアと70トンの硫安の生産が開始された。

この日以来、毎年10月15日は「復興記念日」として祝日とされ、現在でも工場は表向きは休日となっている。

翌2月には酢酸の製造が始まり、計画通り製品の一部は水で希釈され、職域生協(水光社)で食酢として販売された。

【引き揚げ従業員】
朝鮮北部には日窒グループの従業員は6万5000人いたが、現地採用の朝鮮人を除くと1万4800人であった。それ以外の植民地には合計で約3500人の日本人従業員がいた。約3年にわたって博多や下関、舞鶴などに引き揚げてきた。それぞれの港には日窒の窓口があり、申し出るといくらかのお金が支給されたという。

海外に多くの拠点を持っていた日窒には、会社・工場の再建という課題と同時に、帰還従業員の扱いをどうするかという課題があった。過剰な人員を抱え込むことになることは明白だった。
日窒は1946(昭和21)年2月に役員会を開き、「泣いて馬謖を斬るの思いで全ての従業員の退職を決行する」とした。その上で適任者はあらためて再雇用するとした。

しかし実際には、すでに勤務している者は再雇用する方針とし、帰還者も可能なかぎり再雇用し、再雇用しない場合には特別手当が加算された退職金を支払うこととした。水俣工場は、1950年3月までのあいだに、引き揚げてきた従業員のうち1179名を受け入れた。

当時の水俣工場次長の上野次郎男(じろお)は、材木などを集め長屋造りの社宅を建築させた。(「八幡住宅」といって2010年頃まで社宅として使われていた。現在はソーラー発電所となっている。)こうして日窒は「温情策」をとったが、明らかに過剰な雇用を抱えて戦後をスタートすることになった。

橋本は1938(昭和13)年に水俣工場長に就任してから、優れた業績を上げ、水俣工場を「橋本のところ」と呼ばれるほどに野口に信頼されていた。彼の掛け声で一丸となって復興を目指し、驚異的なスピードで戦後の再稼働を果たせたのは、従業員からの信頼が篤かった証拠だろう。
戦後の水俣工場を率いていくのは自分だろうと橋本は考えていただろうし、従業員たちもそう思っていた。

やがて水俣に進駐軍が入ってくると、橋本は自宅に彼らを呼び入れて「すきやき」を振る舞ったという。工場にとってなにか有益な見返りを考えていたのかもしれない。
しかし水俣工場にとって本当の「進駐軍」は米兵ではなかったのである。

 

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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