水俣病事件をある程度俯瞰できる現在の我々から見ると、当時「現在進行中」の公害の認識というのは、信じられないほどに悠長で緩慢であるように見える。
昭和28年ころから、町の隅の海岸部で多発していた「奇病」は、3年経ってようやく公になる。そのころ障害児として生まれてくる「胎児性水俣病」患者が多く生まれている。しかし胎児性患者を正式に認定するのは1962(昭和37)年を待たなくてはいけない。
これを、情報メディアが未発達とか、辺鄙な地のせいにしてよいだろうか。もしかしたら、迫りくる危機、そして直視したくない現実に対する、我々のある共通した受け入れ方なのかもしれない。
【1956(昭和31)年の出来事】
(1956(昭和31)年5月1日という日)
新日窒水俣工場付属病院の院長である細川一が原因不明の神経疾患児続発を水俣保健所(熊本県衛生部予防課)に報告した。これが水俣病の公式確認とされている。
水俣病事件にとって象徴的な日として、現在は慰霊行事が行われている。
またこの日は、水俣港が不知火海で初めての貿易港に指定された、開港日であった。水俣市街は「開港まつり」でにぎわっていた。この祭りは形を変えて現在まで続いている。
また同時に百間港はこの日から再度の浚渫工事を開始している。前回の浚渫完了から4年しか経っていない。工場からの廃水汚泥がいかに多かったかが分かる。
この工事も、台風による山土の流出が重なったことをいいことに、災害復旧工事の名目で全額(960万円)水俣市の予算で、2年計画で開始された。
そしてこの日、新日窒は滋賀県野洲郡守山町と工場用地の契約を結ぶ。肥料会社から、花形の繊維会社へと脱皮しようと、莫大な投資を切り出す日でもあった。
(保健所からの詳細報告)
1956(昭和31)年5月4日、熊本県衛生部は、水俣保健所の伊藤所長の報告を受ける。猫の死亡状況についても詳しく報告されていた。
(伝染病予防法)
1956(昭和31)年7月27日、熊本県は「水俣奇病」患者を「日本脳炎疑」として伝染病院に収容した。患者多発地域は元々日本脳炎の多発地域ではあった。だが、この病気への伝染病予防法の適用は翌1957年3月まで解除されず、患者たちは伝染病院(避病院)か精神病院の隔離病棟に入れられた。その間に患者家族は周辺から恐れられ、村八分の扱いを受け続けることになる。
(県の市に対する牽制)
5月に患者が確認されてから、保健所・市衛生課・市立病院と、細川院長・医師会代表による「水俣奇病対策委員会」が水俣に設置された。熊本県衛生部は、このような協議の会場を提供した保健所長の責任を厳しく追及した。
(高度経済成長期へ)
GDPが戦前の水準を上回り、7月『経済白書』に「もはや戦後ではない」との言葉が載った。戦後の「復興期」から「成長期」のフェーズに入ったことを象徴する言葉である。
(熊本大学研究班)
8月3日、熊本県は熊本大学に奇病の原因究明を依頼した。8月下旬から9月にかけて研究班は水俣湾と沿岸地域の疫学調査と死亡患者の病理解剖を行った。重金属(最も疑われるのはマンガン)中毒説という仮説を立て実証に着手していた。
(県の独自調査)
8月、熊本県衛生部は水俣港とその付近の魚介類とその販路についての情報を水産課に依頼、水俣工場の製品種目と原材料を示す製造工程図を商工課に手配し、独自に調査を行った。
この時点で県は既に伝染病ではない可能性を前提に工場廃液へ疑いの目を向けていたことがわかる。
(細川⇒県『調査報告概要』)
8月29日付で細川一から熊本県衛生部に調査報告書が送られた。患者多発地域での猫の集団狂死についても報告されていた。県は伝染病の可能性が限りなく低いことは把握していたはずである。
(熊大中間報告:「食中毒」・「工場廃液」の可能性」)
11月3日、熊大水俣病研究班の第一回学内報告会が秘密会として開催された。ある種の重金属中毒(マンガンと推定)で、人体への侵入は魚介類による。汚染源として新日窒水俣工場排水が最も疑われる、などと結論した。翌日に毎日新聞が報告の概要を報じた。(熊本では毎日新聞の購読率は低い。)
【1957(昭和32)年の出来事】
この年の3月、石橋湛山首相が病に倒れ、彼が指名した岸信介が首相となった。
1954(昭和29)年から続いていた神武景気は輸入超過を招き、この年の6月に急激に冷え込み「なべ底不況」と呼ばれるデフレ状態に移行する。好景気中に生産が急増した塩化ビニルは在庫超過となり、業界はカルテルを実施。しかし新日窒は他社には作れない可塑剤を武器に、塩ビと抱き合わせ販売をすることで売上を維持していた。
また、4月からは売春防止法が施行された。水俣工場正門前に軒を連ねていた女郎屋は看板を取り替え、闇屋となった。
またこの年、新日窒水俣工場では日本で初めて高純度多結晶シリコンの製造実験に成功する。
2年前、東京通信工業(現・ソニー)が日本初のトランジスタラジオを発売しブームとなっていた。東京通信工業の役員と親類関係にあった社長の白石宗城が、井深大と盛田昭夫から、これからはシリコンの時代だが、超高純度が要求される製造は電機メーカーには無理で、化学分野の企業の仕事だろう、と挑戦を勧められていた。
(西田栄一が水俣工場の工場長となる)
西田栄一は、東京帝大工学部応用化学科を卒業し、朝鮮窒素に入社、阿吾地で人造石油に携わった技術者である。終戦をマレー半島の工場長として迎えた。戦後、水俣工場のアセトアルデヒドプラントの設計にも関与している。工場長就任後「西田天皇」の異名を取るほど権力をふるった。のちの刑事裁判で有罪判決を受けることになる。
(発病範囲が広がり始める)
1月頃から水俣市の北に隣接した津奈木村で極度の漁獲減少、3月には猫の集団狂死。対岸(水俣から12~13km)の獅子島や御所浦島でも猫の死亡が見られた。
(熊大中央合同研究会と「毒物原因説」報道)
1957(昭和32)年1月25・26日、初めて中央合同研究会の発表が東京であり、熊本県に対して早急に湾内魚介類の摂食禁止を実施するように求めた。
翌日、新聞で初めて伝染病から毒物原因説に傾いた報道がなされる。しかしまだ重金属説は伏せられていた。
西日本新聞は熊本県公衆衛生課長の談話を掲載。「偏食によるビタミン不足や、同地方に多い血族結婚による遺伝子因子が間接的原因として考えられる」などと述べ、措置の引き延ばしをはかろうとしていた。
(伝染病説の幕引きと魚介類への不安)
1月28日には地元紙である熊本日日新聞が初めて魚介類の危険を報じた。報道によって水俣市内では、魚への不安が拡がり魚が売れなくなり始めた。観光行楽地である湯の児(ゆのこ)温泉の客も途絶え始めた。
これを受けて、水俣市漁協は新日窒に廃水停止と(止めないのなら)浄化装置の設置を要求した。
2月14日に新聞は「マンガン中毒説」を伝えた。
(県、漁獲・摂食禁止へと傾く)
魚が売れなくなり始めたのをきっかけに、熊本県衛生部は2月26日、漁獲禁止と摂食禁止の行政措置の方針を取るための規制策を検討すると発言した。
(県対連・「漁獲・摂食禁止」への模索)
1957(昭和32)年3月4日、熊本県は「第一回水俣奇病対策連絡会(県対連)」を開き、一連の対応策を検討し始めた。
ここでは、漁獲禁止と摂食禁止について、漁協による「自粛申し合わせの行政指導」とされ、工場排水との関係については、原因として現在のところ「疑いは持てるが関係は不明という立場でのぞむ」と結論した。
また、水俣湾の「海水調査」を行なう方針が決定され、直後に(3月6・7日)実施された(内藤調査)。そのときは、新日窒の関係者5名と漁協関係者が参加していた。この結果は秘匿された。
このとき、食品衛生法適用についての検討がなされ「浜名湖アサリ食中毒事件」での静岡県がどのような対応をしたかについて調査することになった。
(食品衛生法)
当時の食品衛生法は戦後の公衆衛生の向上と食品の安全性確保が急務のなか1948(昭和23)年1月1日に施行された。(2018年まで大きな改正は行われていない)
有毒・有害な物質が含まれている疑いがあれば、食品衛生法を適用してその食品の販売と販売のための採取を禁止することが、厚生大臣や知事にとっては義務であった。
この法律は、その原因となった毒物がどのような物質であるか、どこから・どのような経路を通ってその食品に至ったかは不明確でよい。とにかく早急に摂食を禁止するための法律なのである。
そしてこの法律は、それらの禁止に伴う損害を補償する義務を負わされない。(のちに汚染の発生者が確定されたら、被害者が損害賠償請求することによって解決することになる。)
1949(昭和24)年に発生した静岡県浜名湖でのアサリの食中毒事件では、発覚後静岡県が食中毒と断定し、即座に同法律を適用し、発生地域での貝類の採取・移動・販売を直ちに禁止した。毒物の正体がプランクトンの一種だとわかったのは7年後の1956年のことだった。
このように、食品衛生法の適用は原因究明とはまったく別の話だということが、この事件での静岡県の対応例を見ればわかることだった。
しかし熊本県は「原因物質が不明」という理由で同法の適用を見送った。
(熊大:魚介類が原因と発表)
ところが「原因が魚介類」だと発表されてしまったのである。
1957(昭和32)年7月7日、熊本大学研究班は、動物実験を重ねた結果として、水俣病は中毒性脳症で、水俣湾産魚介類を摂取することで発症することを確認したと発表した。
(食品衛生法適用を考える)
熊本県は、「原因不明」が覆されたので、食品衛生法の適用に踏み切ろうとした。
しかし、熊本県衛生部は厚生省宛に「(食品衛生法を)適応すべきものと思料するが、貴局のご見解をお伺いいたします」という文面を送ってお伺いを立てたのである。
適用されると工場の操業停止が視野に入る。「七工会」や「産対協」が睨みを効かせている下で、県単独で食品衛生法の適用(⇒工場停止)を行うことができなかったのだろうか。それで国のお墨付きを得よう(責任分担)としたのだろうか。
(浚渫工事の懸念)
熊本県は一刻も早く食品衛生法を適用したかったはずだ。浚渫工事を進めていたからだ。湾内の底質汚泥を絶えずかき回しているのである。
深夜などに「密漁」が増え始めていた。皮肉なことに「自粛」によって魚が増えていたのである。
やがて「密漁」は公然となり、安全だと謳っていた他産地のものまで疑われるようになり、魚介類全体が売れなくなった。
1957(昭和32)年7月24日、浚渫工事の一時中止が決定された。食品衛生法を適用し、水俣湾内の「漁獲禁止」の知事告示を出してから工事を再開する方針となった。県は国の回答を待った。
(県 水産試験場による調査)
1957(昭和32)年7月31日から熊本県水産課は水産試験場に依頼し「水俣地先漁場における生物・水質・底質に関する調査」を行った。
この結果報告は翌年1958(昭和33)年6月に公表される。
(厚生省の回答)1957(昭和32)年9月11日付
ところが、厚生省からの回答は驚くべきものだった。
「水俣湾内特定地域の魚介類のすべてが有毒化しているという明らかな根拠が認められないので、同法は適用できないと考える。その上で、今後とも摂食しないよう指導せよ」というものだった。
もちろんこれは当然同法の意図的に歪曲した解釈であることは疑いない。
(初めての患者団体の結成)8月1日
初期の水俣病は市南部沿岸地帯に集中的に患者が発生したが、それでも一つの集落全戸というわけではなく散在・散発的に現れた。(当時いう「患者」とは誰が見ても分かる異常症状で最重症に分類されるものであって、実際はほぼ全員が罹患している。)
この年(昭和32年)になって伝染病の噂が薄れるまで、患者が発生した家は周囲から熾烈な忌避状態に遭っており、横のつながりを持つことは困難だった。
漁民のなかから十数人の患者が出てきたので、1957(昭和32)年8月1日、水俣市漁協が主導し、漁業組合とは別に患者家族の組織「水俣奇病罹災者互助会」を結成した。後に「水俣病患者家庭互助会」と改称する。多くの家庭が無収入で、生活保護を受給していた。
(浚渫工事再開)
フル操業をしている新日窒の廃液汚泥は次々と湾内に堆積し続け、船舶の航行に差し支える。浚渫の中断には限界があった。
1957(昭和32)年12月、漁協が反対するなか熊本県は湾内の浚渫工事を再開した。
【1958(昭和33)年の出来事】
漁業の自粛により新たな患者の出現はしばらく途絶えていた。
嵐の前の静けさといった時間が過ぎていく。
ただし工場はさまざまな対策(水俣病の沈静化にむけての)を試み始めている。
(社長の交代)
1月8日、取締役社長が白石宗城から吉岡喜一に交代する。
(市長の交代)
2月、水俣市長選が行われ、2期8年続いた橋本市政が敗れた。当選したのは新日窒が擁立した中村止(とどむ)だった。これは市政が労働者から会社の手中に入ったことを意味した。
(県:前年の漁場調査の報告)
前年夏からの県水産課の調査結果は、想定を超えた被害を確認していた。水俣川河口北側から津奈木村にかけても牡蠣の斃死が見られていたのである。ところが、公表された報告書では水俣川河口以北が削除されていた。削除した範囲のなかには、県南最大の遊興街である湯の児温泉街があった。
(日本初の水質汚染防止法)
7月、本州製紙(現・王子製紙)江戸川工場と浦安漁協との汚水紛争(本州製紙事件)があった。
これを受けて水質保全法と工場排水規制法が制定された。合わせて「水質二法」と呼ばれる。これは日本で初めての本格的な水質汚染防止法だったが、問題水域を個別に指定して規制する(いわゆる経済調和条項が盛り込まれた)ものだった。しかも業種別に必要に応じて規制が定められるもので、規制力が弱かった。あくまで本州製紙事件に対応するための応急的なものだった。(施行は1959年3月1日)
(市議会:国にすがろうとする)
8月、水俣市議会は「水俣病対策特別措置法」立法化を国に要請することを決定。
しかし水産庁は「立法の対象となる海区があまりにも狭い」と検討を棚上げしたまま翌年に持ち越された。
(新たな患者の出現)
8月11日、水俣南部の茂道漁村で発病した中学生を「奇病」と診断。各紙が1年半ぶりの奇病患者発生を大々的に報道したことで水俣では再びパニック状態が起こり、魚介類の不買が再発した。
それを受けて熊本県は、取締船を出す計画を発表。漁獲の「自粛申合せ」を「同海域内での操業を絶対行わないように指導願います」と表現を強化した。
またこのとき発表された「想定危険海域」はそれまでのより境界線が大きく膨らんでいた。
(新日窒:牡蠣養殖試験)
8月、新日窒は水俣周辺で牡蠣養殖の試験と調査を実施していた。
(排水口の変更)
9月、水俣南部の患者発生に対応し、突貫工事を施しアセトアルデヒド製造工程の廃水を水俣川河口に放出し始めた。水俣川の水の流れに乗せて拡散・希釈しようとする狙いがあった。これは住民への告知無しに行われた。
付属病院の細川一は被害拡大の危険性から反対したが、会社は無視した。
一方で、熊本県は被害の北上を恐れていた。その理由は(住民の健康被害より)湯の児温泉街への風評被害だった。ここに被害が及ぶと観光業やその他様々な業種を巻き込むことになり、問題はさらに大きく波及する。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1330:241203〕