水野昌雄さん追悼~初期の評論をめぐって

 『短詩形文学』10月号は、ことし5月、91歳で亡くなった水野昌雄さんの追悼号で、私も一文を寄稿しました。発行人の下村すみよさんにはわがままも聞いていただきました。やや自分の歩みに引き寄せてしまった感があるのが、気になるところです。思えば、水野さんには、さまざまな機会を、それとなく与えてくださったことに感謝しています。

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 机上には、いまにもばらけそうな、古い『短歌研究』の数冊が置かれている。

①水野昌雄「新しき抒情の確立のために」『短歌研究』
一九五八年九月
②水野昌雄「敗北の記録を超えるために」『短歌研究』
一九五九年四月

 水野さんの初期の評論である。①は、『短歌研究』新人評論賞の第一位入選作「短歌散文化の性格」(秋村功)につぐ第二位の入選作であった。選考委員は、久保田正文・高尾亮一・上田三四二と編集部の木村捨録と杉山正樹の五人。その要旨は、短歌否定論の要因が「短歌的抒情」や「韻律」であるかのような議論を、啄木は感傷を超えた進歩性をもって、茂吉は万葉の世界を二〇世紀にもたらすことによって超えてきたように、新しい抒情性の可能性を探ることの意義を説いた。同時に、「日常語から選びだされたうつくしい日常語によつて表現することが、文語文法の場合よりも高度な短歌的抒情を持つ日の来るまで、文語は民衆の中で生命を保ち」「日常語によって短歌形式を自由に駆使できるようになつたとき、おそらく短歌形式は少なくとも現在とは異なつたものになるだろう」と論じた。②は、一九五九年三月『短歌研究』の「歌会始は誰のものか?」を受けたような形で書かれている。その記事は、歌壇内外の四〇余人の回答を、杉山正樹がまとめたものであろう。五九年四月に明仁皇太子の結婚を控え、まさにミッチーブームに沸いていた頃である。歌壇は、「歌会始」の選者がすべて現代歌人になり、著名な歌人が入選したり、陪聴者になったりしたことにより民主化されたとして、オマージュを呈する状況であった。しかし、杉浦明平の「現代短歌と宮中歌会始が近づいたというのが本当なら、それは現代短歌が文学的に救いがたく堕落したということ以外ではない」、岡井隆の「文学であるならば天皇制と結びついた国家権力に守られたくない。民衆の下からのエネルギーで守られてこそ、その資格がある」との言も伝えている。この年、選者になった木俣修は「ちょうど新聞や雑誌の選歌をする場合と同じだと割り切つている」と回答、この言は、一九九三年から選者を引き受けた岡井の弁と全く同じであったことに気づかされる。

 ②では、「歌会始の隆盛によって短歌は盛大になったかも知れないが、短歌作者がどれほど増えようと、ジャーナリズムでどれだけもてはやされようと、文学としての条件を脱落することの代償として与えられたものに何の意味もない」と述べ、「戦後の戦争責任をふまえた短歌否定論」と歌会始の問題に対決することができるのは、強烈な個性と豊かな感受性が必要不可欠で、「抵抗することを通して生活論理を変革」(篠弘)することを核とした「民衆短歌」の一つとしての無名な作者たちの作品であると記す。
 水野さんは、私の手元にあるだけでも、以下の評論集を出版している。

③『リアリズム短歌論』(短歌新聞社 一九七〇年)

④『現代短歌の批評と現実』(青磁社 一九八〇年)

⑤『歴史の中の短歌』(アイ企画 一九九七年)

⑥『続・続・歴史の中の短歌』(生活ジャーナル 二〇〇七年)

二〇〇七年には『続・歴史の中の短歌』も刊行したとあるので、この二冊の刊行を機に企画されたのが「水野昌雄と現代短歌を語る会」(二〇〇七年一〇月二〇日)ではなかったか。この会には、私も「水野昌雄の評論の一断面―短歌と天皇制」と題して報告しているが、そのレジメも当日の記録も見つからない。
当時、関心のあった安保闘争後になされた岩田正・水野論争についての報告があったのか定かではないが、いま少しその論争に立ち入ってみたい。水野さんの発言は、③の最終章に収められている。岩田さんの『抵抗的無抵抗の系譜』(新読書社 一九六八年)も書棚には確かにあったはずの草色の本も見つからないので、心もとないのだが。この論争のあらましは、篠弘『近代短歌論争史・昭和篇』最終章「現代短歌の論争(二)」(五七二~五七五頁)の「社会詠のゆくえ」の中に収められている。〈安保改訂をうたう〉(『短歌』一九六〇年五月)〈再論・社会詠の方向〉(『短歌』同年九月)と『新日本歌人』誌上の素朴リアリズムをめぐっての水野・一条徹論争をふまえての、岩田「抵抗的無抵抗の系譜」(『短歌』六一年七月)から始まった一年余にわたって展開された論争である。
 岩田は、六〇年安保の抵抗歌が結実しなかった要因は、人民短歌運動の主体性の脆弱さとともに技法的な立ち遅れがあったとして、それを克服するには、技法と表現による様式美と造形美に命を懸けている前衛短歌の方法に学ぶべきだと主張した。これに対して水野は、素朴リアリズム批判には賛成し、前衛短歌の方法を不可欠とすることには反対としながら、抵抗歌の方法論の模索が続いていることも明らかにしている。
 塚本邦雄、岡井隆の没後、前衛短歌論は盛んであるが、近年、私は、技法や表現の追求のあまり、テーマを失うような、そして、とくに若年層の口語発想は頷けるにしても、その内容の希薄さが短歌の発信力を弱めているのではないかという危惧を覚えている。水野さんが提示した課題は、半世紀以上経た今日でも有用だと思っている。     

・一茎のちから集めてここに立ち根づきし薔薇やまだ繊きとげ
(『冬の屋根』1973年)
・「悲憤慷慨本日めでたく本人死去」と通知をしよう献花は辞さず (『正午』2001年)

一九八八年の冬、連れ合いの東京への転任が四月に迫り、私の転職や引越しの準備で忙しい頃だった。名古屋での『短詩形文学』の歌会の席であったのだろうか、水野さんは「渡辺順三賞」を手渡してくださるという。私が数年にわたって連載していた「『歌会始』―現代短歌における役割をめぐって」(『風景』一九八三~八八年一月)を目にとめて、推してくださったのだと思う。私は、一九七〇年、同人であった『ポトナム』の「白楊賞」以来、後にも先にも、外からいただく、たった一つの賞、大事な賞になった。
一九九四年の「8・15を語る歌人の集い」でのスピーチのお誘いを受けたとき、戦前生まれながら、幼時の疎開体験しかない私は戸惑ったが、現在、関心のあることや調べていることでもよい、との水野さんや日野きくさんの勧めで、『台湾萬葉集』について話したのであった。清水房雄、白井洋三、金子きみさんという大先輩に混じってのことであった。その後、『台湾萬葉集』の編者の呉建堂さんから何通もの手紙を頂き、意見交換をさせていただいた。そんなことがきっかけにもなって、私は、早期退職を思い立ち、社会人入学した大学で、「日本の占領下の台湾における天皇制とマス・メデイアの形成」という修士論文を提出したのが一九九八年だった。その頃、立教大学の五十嵐暁郎教授らが中心になって「天皇制研究会」を立ち上げた折、声をかけられた。高橋紘さんや原武史さんらの末席に連なることにもなり、天皇制について多角的な話を聴くことができたのは、何よりも貴重な体験となった。水野さんにも、最近の歌壇の状況と天皇制について、とくにリベラルとされる人たちの親天皇制への傾斜について伺っておきたかった、といましきりに思う。
二〇〇一年一一月、哲久忌でのスピーチの依頼も水野さんからだったと思う。水野さんは司会をなさっていた。私は、ポトナムの歴史を振り返るたびに、プロレタリア短歌との関係が気になっていたので、「ポトナムにおける坪野哲久」と題して話をした。
近年では、「短歌サロン九条」で、二〇一七年「沖縄の天皇の短歌」、二〇一九年「斎藤史」について報告した際に、お会いしたとき、お元気だったので、その姿だけが印象に残っている。長い間、遠くから見守ってくださっていたのではないかと感謝の思いは尽きない。

・四つ目の橋を渡りて引き返す自転車のバッテリーたしかめながら(『短詩形文学』二〇二一年一月)
・ベランダにしばらく一人よりかかり点滅はじめし鉄塔を見る
(『現代短歌新聞』二〇二一年五月)

(『短詩形文学』2021年10月)

初出:「内野光子のブログ」2021.10.11より許可を得て転載
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2021/10/post-e10393.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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