永遠からの贈り物 ― パレスチナについて

    パレスチナについて何か書こうと思った直接の理由は、1月31日から2月4日まで江古田にあるギャラリー古藤で開かれていた「パレスチナ、平和を願う色彩展」を見たからであった。だが、パレスチナ問題について、私は以前にも何度か、時間をかけてしっかりと考えてみようと思ったことがあった。1970年代の後半、私は初めて、パレスチナの作家、ガッサーン・カナファーニーの『ハイファに戻って』という小説を読んだ。そのとき、パレスチナ人という存在の複雑さ、不条理さ、担わされた歴史の重さについてしばらく考えた。1980年代の後半に、エドワード・サイードの『オリエンタリズム』が話題となったとき、西洋中心主義の歴史観に強烈な一撃を与えたこの本を夢中で読んだ。そして、われわれは大文字で書かれた歴史にどれほど激しく汚染されているのか、パレスチナ人とは何かという問題を考えた。だが、最初のときも後のときも、何の結論も出ないままに時間だけが過ぎ去っていった。パレスチナはあまりに遠く、私の思考能力はあまりに貧しかったのだ。
ギャラリー古藤での展覧会。このギャラリーで前回行われた展覧会「絵本から見る子どもの権利―スウェーデンの画家からの贈り物―」を訪れたとき、パレスチナに関係する次の展覧会のフライヤーを見た私は、フライヤーに写っていたパレスチナの織物に引き付けられた。この鮮やかな布がパレスチナで作られているとは信じられなかったのだ。私の知らないパレスチナを見てみたい。そう思った私は「パレスチナ、平和を願う色彩展」に向かい、展覧会を見て、「虐殺はなかった」、「そこにも日常はある」、「織物と刺繍」という三つの視点からパレスチナについて書いてみようと思った。



虐殺はなかった
    1994年2月、パレスチナ西岸地区の南に位置するヘブロンのイスラム教の聖地イブラヒム・モスクでユダヤ教過激派の一人の男がライフル銃を乱射した。罪のない多くのイスラム教巡礼者が男の凶弾に倒れた。この虐殺の一月後、ヘブロンにあるユダヤ人入植地に住むある男に対して行われたインタビュー、そこで語られた言葉をフォト・ジャーナリストの広川隆一は『パレスチナ 新版』の中に書いている。この殺人者の行為を支持すると述べたその入植者に、それは何故かと尋ねた広川。その問に対して彼は、「アラブ人がハマスやジハードといったユダヤ人殺害の団体を組織しているなら、われわれだって彼らを殺すことぐらいできるんだということを見せつけてやらなくちゃいけないと思っているからです」と語った。それはテロ行為ではないかという広川の問に、そうではないと答え、さらに、「これは殺害ではありません。殺害とは罪のない人を殺すことです」と述べ、「ひとりひとり、誰が犯罪者で誰がそうでないかを、いちいち調べてはいられません。今は戦時なんです。戦時には全部が敵で、それを皆殺さないといけないんです」という結論を下した。
この発言を読んで、私は南京大虐殺を否定する人々の言葉を思い出した。「虐殺があっても何十万という数ではなく、数万人単位である」、「市民の殺戮は数千人規模だ」、「敗残兵以外の市民への殺戮証言のほとんどは確証のないものだ」、「虐殺は中国側のでっちあげだ」。彼らはそうやって虐殺の事実を歴史から消し去ろうとする。私は、また、1992年にデンマーク・ラディオが制作し、1993年にNHK海外ドキュメンタリーで放送された「ユダヤ人虐殺を否定する人々」の中に登場するネオナチとその支援者たちの言葉も思い出した。このドキュメンタリーの中で、彼らは、「アウシュビッツにガス室はなかった」と、「アウシュビッツでユダヤ人たちは自由に散歩していた」とも、「ヒトラーはユダヤ人を援助しようとした」とさえも言っていた。そして、虐殺などなかったという言葉がそこでも語られていた。虐殺の加害者たちは虐殺などなかったと何度も何度も繰り返し述べる。何故だろうか。自分たちの犯した重い罪を否定する言葉を発すれば、その罪を消し去ることができると思っているのだろうか。
パレスチナ問題に話を戻そう。1917年のバルフォア宣言に基づき、多くのユダヤ人が約束の土地としてのパレスチナを目指すようになった。そして、イギリスの委任統治時代が終わり、1948年にイスラエルは独立宣言を行った。イスラエルはその後も領土を拡大し、古くからこの場所に住んでいた多くのパレスチナ人が家を奪われ、故郷を後にした。パレスチナ人にとってのディアスポラの始まりである。われわれはこの言葉を聞くと、ユダヤ人の歴史をすぐに思い浮かべてしまうが、ディアスポラによって長く苦しんだユダヤ人がパレスチナ人のディアスポラの原因を生み出したことも忘れてはならない事実である。パレスチナ自治区に残ったパレスチナ人もイスラエルによる数々の政治・経済的弾圧、軍事的攻撃を受けた。『現代アラブ文学選』の中に収められているカナファーニーの「占領下のパレスチナにおける抵抗文学」(奴田原睦明、高良留美子訳) という評論にはアリ・リッダという町で歌われている以下のような歌が載せられている。
夜明けは黒い。
太陽は、空にぶら下がった黒い石だ
畑は残忍な道具の歯で砕かれてしまった。
子供たちは力なく泣き
村人たちはどうすることもできずに立ちつくす。
そしてかれらもまた泣いているのだ。
2014年を最後に、この地域で大きな武力衝突は行われていないが、こうした不幸な歴史は今も続いている。昨年の12月に、アメリカの愚かな現大統領がエルサレムをイスラエルの首都として認めるというパレスチナ人を完全に無視した発言を行った。この発言が平和を壊そうとする悪魔の声のように聞こえるのは私だけであろうか。


そこにも日常はある
報道ライブ21 INsideOUTで、2014年11月5日に放送された「山路徹レポート『戦下の日常生活』ガザ地区からの報告」を見ると、イスラエル人の住む地域からパレスチナ人の住む地域に行くためには検問所があり、イスラエル兵が自動小銃を持ち、厳重に監視していることがよく判る。ガザだけではなく、イスラエル人居住区とパレスチナ人居住区との間には皆同じような検問所がある。それだけではない、ヨルダン川西岸にあるイスラエル西岸地区分離壁やパレスチナ人居住区を囲むために作られた多くの壁が存在している。この隔離政策によってパレスチナ人による自爆テロが大幅に減少したとイスラエル政府は述べている。だが、この政策はかつてナチがユダヤ人たちに行った隔離政策とどこが違うのであろうか。隔離だけではなく、かつて、あれだけのジェノサイドを経験したユダヤ人が、今度はパレスチナ人を弾圧し、虐殺し続けている事実をどう解釈すればいいのだろうか。イスラエル兵は自爆テロを行うパレスチナ人だけではなく、武器を持たずに、投石するだけの抵抗であるインティファーダを行った何人ものパレスチナ人も撃ち殺した。その中には多くの少年もいた。
こうした状況下にあっても日常生活は存在する。サイードの『パレスチナとは何か』(島弘之訳) には、スイス人の写真家ジャン・モアが撮ったパレスチナの日常風景の写真が数多く掲載されている。サイードの文を読みながら、これらの写真を見つめていくと、パレスチナ人の多くがかつては農民であり、彼らの住んでいた土地には肥沃な農地が広がっていたことが判る。エルサレムや、その他の都市の市場に並べられた農作物は豊富だ。ナス、トマト、キュウリ、スイカ、ホウレンソウ、タマネギ、オレンジ、チコリーのような野菜も見られる。しかし、多くの農民が土地を奪われたのも事実だ。そうした多くの人々はイスラエル人の経営する工場の労働者となった。アーブルスの石鹸工場で働く労働者の写真があった。彼らも土地を奪われ、労働者となったパレスチナ人であろうか。この本にはパレスチナ以外に住むパレスチナ人の日常を撮った写真も何枚も載せられている。現在難民として暮らしているパレスチナ人の数は500万近くに上るだろうと言われている。故郷を、祖国を追われレバノンにある町に逃れた難民たちの写真があった。不幸な運命に遭遇しながらも、写真に写された女性と子供たちは優しく微笑んでいた。
しかし、パレスチナを脱出した人すべてが貧しく、学校にも行けないわけではない。故国は追われたが、定住した国で医師、科学者、実業家となり豊かな暮らしをしている人々もいる。サイードのこの本に書かれた「(…) アラブ世界において大学を卒業した者の数が最も多いのがパレスチナ人だ、というのは明らかに事実である。同様に、ペルシャ湾岸のみならずヨルダンでも、また一九八二年まではレバノンにおいても、教員、医師、技師、実業家、知識人などとしてパレスチナ人の存在は際立っている」という言葉に驚く人がいるかもしれない。だが、この本の著者であるサイードの知性を思うならばすぐに納得できるだろう。だが、次の点はどうだろうか。サイードがこの本で書いている彼の友人の文学者の婦人が、エルサレムで刺繍が施された布を売る店を開いているパレスチナ人に会ったとき、その男が婦人に語った言葉は、驚きを超えて絶句するものではないだろうか。彼は、「私たちはアラブ世界のユダヤ人なのです」と言ったのだ。それは冗談でも当て擦りでも嫌味でもなく、真面目な言葉だった。働き者で、純粋であり、さらには知的ですらあるパレスチナ人。この男にとって、比較対象として用いられたのが憎むべきユダヤ人であったことに重い意味はなかったであろう。しかし、そこにはあまりにも大きな歴史的アイロニーが示されている。
パレスチナ人の日常と一括りにできるものがあるのではない。パレスチナ人、一人一人に独自な、かけがえのない毎日の生活があるのだ。戦禍の中にあっても、故国から遠く離れても、人はそれぞれの生活を送っていかなければならない。その生活は平凡なわれわれの日常とはまったく別の次元にあるものである。だがそうした中でも、パレスチナの子供たちは路地で自由に遊びまわり、新鮮な作物がパレスチナの市場で売られ、異国の地の研究室で真剣な眼差をしたパレスチナの学者が研究対象を見つめている。こうした写真の向こうに、私は、戦乱を超えて、微かに開かれた希望の道が見えるような気がする。


織物と刺繍
ギャラリー古藤の展覧会で展示されていたものはパレスチナの織物、刺繍、タイル、そして、パレスチナの人々の日常生活を撮った写真であった。織物についてはこうした作品を輸入販売しているパレスチナ・アマルという会社によって作られたパンフレットが置いてあった。パンフレットによるとこの織物はヘブロンにあるパレスチナに唯一残ったラスト・カフィーヤと呼ばれる織物工場で製作されたものである。この工場で使われている織物機械のほとんどが日本製である。それも1950年から1970年に作られたものである。新しい機械を買うことができない工場ではその機械をメンテナンスして大切に使っているという。そこで作られた色とりどりの織物。刺繍についてもパレスチナ・アマルのパンフレットが置いてあった。それを読むと、国連のスラファという1950年に立ち上げられたUNRWA (国連パレスチナ難民救済事業機関) のプロジェクトに基づいて、ガザ地区に住む約300名の女性が、刺繍が施されたショールや伝統衣装などを制作しているそうだ。その一部が飾られていた。
中近東の織物の歴史は古く、江馬進の『世界の文様帖』によると染色技術が発展したのはシルクロードによる東西の交易の接合点であったためであり、226年から651年まで存在していたササン朝ペルシャ時代は中国の絹とシリアのウールとの中継地として栄えたそうである。さらに、イスラム教の誕生以降、「イスラム圏の織物は技術的にはササン朝ペルシャやシリアの技術を受け継いだが「偶像を崇拝してはならない」との『クルアーン』(著者注:コーラン) の教えの通りに、具象文様が少なくなって、幾何学的な連続文様に『クルアーン』の一節をアラビア語で入れた織物が主流になっている」と書かれている。さらに、「(…) イスラム地域の織物の文様には、花文や動物文は用いられずに、八稜星幾何文や六稜星幾何文などの星形の幾何文が用いられた」とも記されている。だが、西上ハルオの『世界の文様事典』には、「イスラムは偶像崇拝をタブーとし、人間及び動物を絵画・彫刻に表わすことを禁止したから、細密で複雑な文様が発達したのだとよくいわれるが、イスラムの中心聖典「コーラン」にはそのような記述はない」と書かれている。また、アラベスクという語について、「アラベスクといえば「入り組んだ、複雑な」という印象が強く、流動的で優美な意匠の代表でもある」とも述べられている。いずれにせよ、イスラム圏の文様は幾何学文様が主流であり、展覧会で展示されていた織物の模様も幾何学模様で中心であった。だが、刺繍作品では近年、人物、鳥、花、野菜といった具象的な対象をモチーフにした作品も少なくないらしい。トランプや東洋風の寺院の刺繍すら作られているようだ。
織物や刺繍を見て、最初に私はその色彩の鮮やかさに引かれたのだが、イスラム圏の色彩的な意味について興味が沸いた。21世紀研究会編の『色彩の世界地図』によると、イスラム圏において重要視される色は、パレスチナの国旗にも用いられている緑、白、黒、赤であるらしい。緑はエメラルドでできた神の玉座の色であり、天上の最上階に置かれたコーランが記された石板も緑色をしたエメラルドでできているという。また、ムハンマドが約束する楽園も緑の草木に覆われた土地だという。このように緑は高貴な色なのである。白については、「白は、混じりけのない純粋さ、純潔の象徴でもある」と、さらに、「イスラーム世界では、白は、神への忠誠を象徴する色でもある」と、また、「しかし、神を象徴する白は、イスラーム世界の人びとにとっては、悲しみの色でもある。白は、死装束の色なのだ」という指摘がなされている。黒については、「黒が暗黒の世界、死、悲しみの色であることは、イスラーム世界にあっても変わりはない。ただ、少し違うのは、イスラームの人びとの感覚では、黒はそうした死や悲しみを克服し、打ち勝つことをあらわす色であるということだ」と記されている。赤については、「(…) イスラーム国家の国旗の赤は、独立闘争で流された犠牲者の血を象徴していることが多い。また、独立に向かった人びとの情熱ということでもある」と語られている。しかし、火炎を表す赤は嫌われるという。もう一つ注目したい色がある。それは青である。この色については、「(…) 青という言葉には、寒さ、恐れ、不安、混乱などを思わせるものがあるので、あまり好ましいイメージがないという」と書かれている。実際、展覧会に飾られていた作品でも、緑を使った作品が多く、青は副次的に使われていた印象がある。
こうした文化背景も考慮に入れながら、あのギャラリーにあった作品に関して、私はもう一度考えてみた。私がこれらの作品に引かれたのはパレスチナ人によって制作されたものだったからであろうか。それともその作品自身に引かれたからであろうか。答えは難しい。美しいだけの織物や刺繍であれば、それを一瞥するだけで私は通り過ぎてしまったかもしれない。そうした意味ではパレスチナ製ということが重要であったと言える。だが、その作品に作品としての価値を認めなかったならば、それがパレスチナで作られたものであったとしてもやはり通り過ぎてしまったであろう。両方が問題なのだ。先ほど述べたパレスチナ・アマルの発行した刺繍についてのパンフレットには、ガザの人びとの日常生活が撮られた写真が何枚か載せられていた。その中の一枚には廃墟となった建物の上から宙返りしながら降りる二人の少年が写っていた。二人を見つめる少年たち。向こうには街並が見える。その横の写真はパレスチナ刺繍が施された伝統的衣装を着た二人の少女が写っていた。一人は微かに笑い、もう一人は笑ってはいなかった。この二枚の写真とパレスチナの織物と刺繍のイメージが重なる。それは未来に投げかけられた自由と希望への光の道だ。
このテクストを終えるにあたって、ホルヘ・ルイス・ボルヘスがブエノスアイレスにあるベルグラーノ大学で行った講演集である『語るボルヘス:書物・不死性・時間ほか』(木村榮一訳) に書かれている時間の問題について考えてみたい。そこで検討されている問題はパレスチナの過去から現在、現在から未来への時間的な動きにも関連しているように思われるからである。
ボルヘスが行ったこの連続講演の最終日に語られたテーマが、時間であったのだが、時間は形而上学の最大の問題であるとボルヘスは語っている。そして、時間という大問題を解き明かすキー概念として「永遠」というものを提示し、「神学者たちは過去、現在、未来、この三つの時が奇跡的にひとつに結びついた瞬間を永遠と呼んでいます」と述べている。さらに、時間を永遠からの贈り物としたウィリアム・ブレイクの言葉を挙げながら、永遠と時間との関係について、「もし万が一われわれに全存在が与えられたら……。ここに言う存在とは、宇宙よりも、世界よりも大きいものなのです。もしそのような存在が突然目の前に現れたら、われわれは消滅し、無と化して死に絶えるでしょう。しかし、幸い時間は永遠からの贈り物です。したがって、永遠はそれを継起的な形でわれわれに体験させてくれます」と語っている。この視点からパレスチナの現在について考えてみることも可能なのではないか。そう私は思ったのだ。何故なら、確かにパレスチナは長い悲劇の歴史を今も歩んでいる。だが、その道を歩むことによって真のパレスチナが生まれ出るとしたならばどうであろうか。
われわれは永遠を一挙に掴み取ることはできない。われわれは時間の中で永遠の欠片を拾い歩くだけである。「実は、われわれは日毎に死に、日毎に生まれているのです。われわれは絶え間なく生まれ、かつ死んでいるのです」というボルヘスの言葉。それをパレスチナの再生を祈る言葉として聞くことはできないだろうか。昨日踏みにじられた希望の光。今日、踏みにじられる希望の光。明日、踏みにじられるだろう希望の光。しかし、それでも、パレスチナの人々は平和で、穏やかで、明るい国ができ、難民たちが安心して暮らすことができる土地を創ることを諦めてはいない。ギャラリーに展示されたパレスチナの織物と刺繍。あそこにあった作品には、そうしたパレスチナの人々の思いがほんの僅かではあるが反映されていた。
前述した『現代アラブ文学選』に載せられているイラクの詩人マフムード・アル・ブライカーンの「静かな恐れの歌」(木島始訳) は、次のような詩句で始まる。
冬に 活力が
秋に 美が あるのだから、
話し声と 歌声に
時を超える こだまが あり、
その 荒々しい 踊りのしたに
灰の 肉体
煙の 魂が あるのだから、
アラブの息吹は過酷さに耐え、再生する力を宿している。アラブの血は強い意志を受け継ぎ、立ち止まることなく突き進む。そのアラブ世界の中で、最も悲惨な歴史を担うパレスチナの人々。それでも、子供たちは今日も廃墟を駆け回り、女たちは今日も織物を織り、布に刺繍を施す。男たちの声が市場に響き、老人たちは海に面したテラスで語らっている、そして、娘たちの歌声。踊り。「静かな恐れの歌」の最後の詩句はそんな彼らに贈られた詩であるかのようだ。
生きよ、
すれば
もう
砂のうえに
設けられた
ダムなどない。

初出:宇波彰現代哲学研究所のブログから許可を得て転載

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〔記事出典コード〕サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/

〔opinion7365:180217〕