汝の頬を当てよ、わらわはここにキスしたり

著者: 石塚正英 いしづかまさひで : 社会思想家
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 旧約聖書によれば、この世は神の言葉によって始まります。「光あれ!こうして光があった」という具合です。でも、この言葉はコミュニケーションとしてあるのではなく、たんに存在の確定としてあるのです。そんな言葉は絶対に電話できないものです。神が電話で言葉を発しても、受話器の向こうは無です。では、この行為には意味がないのでしょうか。いいえ、おおいに意味があるのです。

 昔アルキメデスがとても苦心して苦心して、ようやく風呂場で王様の冠の金の含有量を決定する方法を見つけだした刹那、「ユーリカ!(ついに、ついにわかったぞ!)」と叫びつつ、素っ裸のまま外へ駆け出していったといいます。このときの彼の言葉「ユーリカ」は、誰かに何かを伝えたいための言葉でなく、自己確認・自己定立の極みに発せられた感動の言葉なのです。それ自身にはとりたてて意味はないものの、それまでの沈黙の営みをすべて象徴してあまりある言葉となっています。

 私にとって「電話できないもの」とは、そのような自己の存在の確定とか確証にかかわる言葉です。この言葉は、せいぜい後になってあて名のない手紙という生の形式で再現できるだけのものでしょう。発せられた瞬間には、言葉は相手を想定しない、まして相手を特定したりしない、身体外にほとばしり出た自己の魂なのです。もし、この魂に感じ入ってこちらを向く人がいたとしても、言葉はそのために発せられた訳ではないのです。説明の言葉など、興ざめ以外の何ものでもないことでしょう。

 先日、久しぶりに家でゆっくりする時間があったので、ホラー映画「シックス・センス」をビデオで見ました。死者の姿がみえる少年コールと、死亡患者ヴィンセントに悔いを残す精神科医マルコムの心の交流を描いたものです。ホラー映画というにはあまりに生き生きとした、心あたたまるシーンの連続です。とくにマルコムと妻アンナの愛は、まさに生死を越えています。最後の大逆転シーン、少年がとりなす死者との交流には、実はその精神科医も含まれていることをマルコム自身が知る場面ですが、睡眠中の妻との心霊的な相互愛に満たされているさなかの出来事であるだけに、ハッピーエンドにすら感じます。死者を愛することは、死者との共生を意味するのですね。生きるって、すばらしいことなんですね。

 ところで、死者には電話などできません。けれども、私にとっていつまでも愛してやまない死者は電話できない相手以上の相手です。愛する死者に発する言葉とは、自己の存在の確定とか確証にかかわる言葉なのです。発せられた瞬間には、言葉は現実の相手を想定したはいないですが、いわば、身体外にほとばしり出た自己の魂なのです。もし、この魂に感じ入ってこちらを向くだれかれの生者がいたとしても、言葉はそのために発せられた訳ではないのです。死者への呼びかけについて生者に説明するなど、興ざめ以外の何ものでもないでしょう。

 「赤とんぼ」の作詞家三木露風は、幼い頃に別れた母を長じてなおのこと待ち焦がれ、たえ偲ぶのでした。」そんな露風に母は、手紙をおくり、わざとあけた空白に露風を促し、こう綴りました。「汝の頬を当てよ、わらわはここにキスしたり。」

 かつて人々は、生きている人々のあいだでも、封筒に入れた手紙を通じて、字面の黙読のみで他者に真意を伝えていました。言葉を発したのではむしろ消え去ってしまいそうな、失われてしまいそうなもの、それを相手に伝えるという力を、手紙はもっていました。消え去ってしまうもの、失われてしまうもの、それが何であるか、じっくり考え、いわば自己に宛てた手紙のような文を書いてみたくなるこの頃です。