
2025年5月22日「東京新聞」
沖縄愛楽園交流会館リーフレット(2017年4月)
https://www.nhdm.jp/hansen/wp-content/uploads/2021/03/airakuen.pdf
沖縄愛楽園交流会館が開館したのは2015年6月1日だったという。私たちが、国立療養所沖縄愛楽園を訪ねたのが2017年2月だったので、オープンして、まだ2年も経たない頃だったことになる。佐倉市の家を朝7時20分に出て、羽田から航空機、那覇からの高速バス、本部からタクシーに乗り継いで交流会館に着いたのは閉館の5時を過ぎていた。園内は自由に歩けるので、ともかく、まずもっての目的だった貞明皇后の「御歌碑」(つれづれの友となりても慰めよ 行くことかたきわれにかはりて)を園内の地図をたよりに探したのだったが、見当たらない。

右上岬の根の辺りの⑱に「御歌碑」があるはずだった。すで2017年には交流会館が建っている。(2011年9月作成)
2011年9月作成の「園内図」:
http://w1.nirai.ne.jp/ai-jichikai/img/guidemap.pdf
園内には、白衣の人たちや夕食の配膳車を押す人たちが行き来していた。「御歌碑」が見つからないまま、園内各所の説明板を見ながら巡っていたところ、運動場のような草はらに出た。その広場の隅に何かあり、遠目にはわからなかったが、近づいてみると、大きな岩のようなものが青いシートに覆われていた。シートはあちこち破れて透けて見える。その岩には、「貞明皇后」の文字も読め、なんと大きな碑が横倒しになっていたのである。よく見れば、「つれづれ・・・」の文字も読める。最初は信じられなかったのだが、探していた「御歌碑」に違いなかった。


翌日、本部港のホテルから再び沖縄愛楽園に向かい、交流会館の展示を見たのだった。写真やパネル、証言などによるハンセン病者への過酷な差別の歴史がわかるような展示だった。国の絶対強制隔離政策により断種、堕胎が日常的に行われ、さまざまな人権侵害がなされていたが、1931年「癩予防法」の成立により、さらに強化されていった。1932年には、貞明皇(太)后(大正天皇の節子皇后)からは、上記の短歌と下賜金が、全国の国立ハンセン病療養所に贈られ、皇族たちによる「救癩」事業を「恩寵 」として、癩根絶運動が推し進められた。愛楽園には、1943年2月に「御歌碑」が建立されたとある。しかしこの時期にはすでに、ハンセン病の伝染力は弱いことがわかり、治療薬プロミンが開発されていたのにもかかわらず、戦後1948年の「優生保護法」の対象とされ、1953年の「らい予防法」は旧法を引き継いだままで、差別は助長され、1996年にようやく廃案になったという経緯がある。2001年、熊本地裁の患者らによる国家賠償請求訴訟で原告勝訴が確定して、国の謝罪や賠償に至るも、いまださまざまな差別の歴史が続いているのが現状である。
1943年に建てられた「御歌碑」の歴史も下記の展示で、一部解明された。1943年に建てられた碑は、敗戦直後、米軍からの指示を受けて、台座から外し海に投棄された、とある。横倒しになっていた「御歌碑」は、それとは岩の形も異なり、いつ再建されたのだろうか。その後どうなったのだろうか。 気になるところであった。


交流会館展示より。上が1943年建立時、下が焼かあとで焼け残った「御歌碑」
下記の論稿を寄せるにあたって、沖縄愛楽園交流会館に問い合わせたところ、「現在は元の位置に戻されて建っています」とのことだった。
「貞明皇后の短歌が担った国家的役割――ハンセン病者への「御歌」を手がかりに」
ダウンロード – e8b29ee6988ee79a87e5908ee381aee79fade6ad8c.pdf
ただ、以下は推測なのだが、あの「御歌碑」が再建されたのは、1972年の本土復帰後、1975年、明仁皇太子夫妻が沖縄を初めて訪問した折、沖縄愛楽園にも立ち寄っているので、それに合わせて再建されたのではないか。その後、碑の近くだったと思われる場所に、1985年6月26日には高松宮夫妻、1992年10月27日には寛仁親王夫妻の来園記念植樹がなされている。そして、まさに、碑のあった場所に、2015年のオープンを目指して交流会館建設が始まった時点で、撤去され、あの広場に置かれたのではなかったか。私たちが訪ねた翌年の2018年には、開所80周年記念式典が行われているので、これに合わせる形で、元の位置に近い交流会館の脇に戻されたのではなかったか。

右上岬の根もと、〇で囲んであるところに小さく「御歌碑」と書かれている。その下が交流会館で、その正面玄関前に、高松宮夫妻、寛仁親王夫妻の記念植樹がなされている。2024年4月作成の「園内図」:https://www.mhlw.go.jp/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/iryou/hansen/airakuen/site/access.html
新旧の「園内図」を比べてみると、あたらしい図にも「御歌碑」の位置は、交流会館の裏側海岸側に、小さく表示されのているものの、図の左下の「説明板」では省かれている。交流会館は沖縄愛楽園自治会の運営であり、沖縄愛楽園は「国立」である。現在の交流会館の展示に、元の位置近くに戻された「御歌碑」に言及されているのだろうか。自治会としての意向はどうだったのだろうか。昨年10月現在の入所者は83名(うち女性44名)、平均年齢86.5歳という。
それにしても、私たちが目の当たりしたのは、いわば「放置」に近い状態だった。この辺の経緯や事情、あたらしい「園内図」にあるような位置に戻された現在の「御歌碑」の画像や説明板などがあれば見てみたい。撤去のままの方がよかったのか、あるいは他の差別や戦禍の歴史を語る「建造物」と同様に、目に触れる形できちんと説明板を付して残しているのかを知りたいが、再訪がかなわない今、教えていただければありがたい。
「こまかいところが気になりまてねぇ、悪いクセでして」と「相棒」の右京さんのセリフを一度言ってみたかった?
以下の過去記事と重なる部分がありますが。
冬の沖縄、二つの目的をもって~「難しい」と逃げてはならないこと(1)沖縄、屋我地島、愛楽園を訪ねるhttp://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2017/02/post-eeb9.html
初出:「内野光子のブログ」2025.5.30より許可を得て転載
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2025/05/post-514c49.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion14249:250531〕