法の支配

著者: 藤澤 豊 ふじさわ ゆたか : ビジネス傭兵
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富を得る方法には三種類ある。最も根幹になるのは、当然のことだが、自らの労働によって富を生産する。これなしには何も始まらない。二番目は、誰かが労働して生産した富を“何らかの方法”で自分のものにする。三番目が、誰かが生産したこっちの富と、別の誰かが生産したあっちの富を交換する仲介人として富を得る。一番目と三番目は、歴史的にみても、細かなことを考えても、二番目に比べれば遥かにすっきりしている。二番目の富の形成方法-“何からの方法”が人間社会のあり方を規定してきた。
“なんらかの方法”にもいろいろあるが、突き詰めて考えれば、どのような方法であっても武力によるか法によるかの二通り-武力で社会を支配するか、それとも法によって社会を支配するか-に分けられる。その支配の中核部に富の所有権がある。武力なのか法なのか、中には厚化粧の効あって外見だけでは見間違えるのも、二通りの間にあるような体制もある。
法による支配の歴史は、想像以上に古く、紀元前1750年頃には法典が発布されていたことが分かっている。法典として成文化される以前から部族内や部族間の掟のようなものもあったろうから、そんな昔にすでに法による支配をかたちづくった人間の叡智に感動しかねない。ただ、ちょっとその先を見ると、この感動が浅薄なものであることに気づく。法の支配が武力による支配の束縛から自由になったのはそんな昔のことではない。それが市民権を得たのはヨーロッパの市民革命以降のことで、今でも武力の影がつきまとうし、しばし武力の前に実効性を失うことも多い。
今でも世界の多くの国々で法の支配とはいいながらも、実質は武力による支配が続いている。(“国家は銃口から生まれる”という言い草、好き嫌いではなく、正鵠を得た言い草であることを認めざるを得ない現実がある。) そこで、支配者-大統領なのか首相なのか呼び名はなんでもいい-に彼の権力の正統性を尋ねたら、そして、もし、彼が度を過ぎて率直だったらの話だが、彼は己の権力の正当性を次のように言うだろう。「オレの権力の正当性?法律に基いてとは言ってるが、そりゃ、決まってるだろうが。オレに反対するヤツらを武力で、戦で鎮圧したからだ。そしてこのオレの権力に楯突くヤツは、オレの命にかけて、あいつらと同じように武力で鎮圧してやる。何の問題があるんだ?オレはオレの武力をまかなう金を持ってくる武力を持ってるから心配ない。」 これは、彼は武力を背景にした強制力によって、彼の思うままに、他人というか国民と呼ぶかの人達から税金やらなんやらという正当な口実 = 法に基づいて人達が作った富を自分のものとする権利を持っていると主張していることに他ならない。
歴史を振り返って、武力によらない支配体制-神権政治を思い浮かべる方もいらっしゃるだろう。そのような方々は、思い浮かべられた神権政治の成り立ちを想像して頂きたい。神権政治は、その建国時から、まず武力、そしてその武力を生み出す経済力があってはじめて可能になったものに過ぎない。神の部分は武力に正当性を与える後付け以上のものではない。
ここで、武力による支配を当然と思っている支配者の言い分を法の支配が確立されている先進工業国の支配者、支配者という言葉が適切でないというのであれば、法の支配のもとに恵まれた立場にいる人達と言い換えて、彼らがなぜその恵まれた立場にいるのかを聞いたら、多分次のように言うだろう。「私の資産も権利も、私の努力によって合法的に取得したものだから、何人足りとも合法的に私の資産および権利を侵害することはできない。」
武力で他人の、他の社会層の、他国の富を、自分の、自分達の、自国のものにすれば、略奪と言われる。人の歴史は略奪の歴史だといってもいいほど、武力を持った者が略奪し続けてきたし、今も続いている。ただ、先進工業国ではやっと人権思想が定着したお陰で、武力による略奪行為は(少なくとも表立っては)正当化しえなくなった。また、人々の社会意識や人権意識から武力による略奪には人的にも経済的にも割に合わない手段となった。
略奪は暴力によって富の所有権を移動することだから、暴力を使わない、武力によらない富の移転は略奪とは呼ばれないし、考えられもしない。では、この富の移動をなんと呼ぶか?ここでは便宜的に、古典的な呼び名、“搾取”と呼ぶことにする。
搾取は、搾取する側にいる人達や社会層、その立場にいる国家とその国民にとっては、略奪であろうはずがない。あくまでも合法的な契約に基いた取引、それがオリンピックであろうが、汚染物質の輸出であろうが、カジノでも投資ファンドでもなんでも、利害関係者同士の契約に基づいて実行される取引で、人はそれをビジネスと呼ぶ。ビジネスを通して富を作った人達から合法的に富が移動される。これは、たとえ契約当事者同士が合法的にその立場にいる人達の間の契約だったとしても、後述するように合法的なごまかしがある。武力で支配者の立場にいる契約当事者であれば、なおさらだ。
根本のところで武力による支配からなかなか脱却できないでいるが、武力行使のコストがかさむからという簡単な理由から日常的には法の支配のもとでことが進んでゆく。多くの人達が、法の支配のもとでが、そのまま法の下の平等と勘違いさせられている。古今東西、“規則は必ず規則を作る人達のために作られる”。当たり前のことで自分に都合の悪い規則を作るバカもお人好しもいない。規則とは社会においては法に他ならない。法は常に法を作る奴らの都合で作られる。今、グローバリゼーションという思想?が世界を覆っている。多くの人が、このグローバリゼーションのまやかしに気がついている。気がついてはいるのだが、歴史的観点から見ても、現在の、近い将来の経済的、軍事的、政治プロパガンダの優位性からもグローバリゼーションを凌駕する思想をいまだ生み出せないでいる。
1993年に出版された本だから、かなり前の状況に基いて書かれているのだが、Michel Albertの英訳“Capitalism Vs. Capitalism(邦訳 資本主義 対 資本主義)の書き出しのところで、おやというのがあった。米国の訴訟社会はよく知られたことだが、”農業人口より弁護士の方が多い。”という記述があった。合法、非合法の季節農業従事者まで勘定に入れた比較とは思えないが、合法であることが全ての判断基準とされる社会では法を扱う専門化として弁護士の社会的、経済的立場が如実に示された数字に思える。
合法がそのまま、人間として正当であることを意味しないことに注意されたい。イギリスによるインドの植民地経営(侵略をそう呼ぶらしい)やアヘン戦争すら、またスペインの中南米の略奪も全て合法だった。略奪者が略奪者の国では英雄として、被略奪国では当然だが、侵略者とてして扱われている。
武力による略奪はコストがかかり過ぎるから、他に方法がなくなった場合の最終手段としたい。そこで新手の方法、“法の支配”が活用されてきた。かつての“武力(軍事力)”が“法”に、“職業軍人”が“法律の専門家=弁護士や会計士。。。”に、“兵卒”が下働きの従業員になった。法律の専門家にいくら高い金を払っても武力=軍事行使に比べればただみたいなものだろう。
グローバリゼーションは、米国のご都合で作られた法律やら商習慣、文化規制。。。に他ならない。この米国のご都合の手先として、あるいはそのご都合に便乗して権力を保持する、私服を肥やす限りにおいて社会的立場を保持できる、あるいは米国の容認を得られるという情けないことになってしまった。
誰かが労働して生産した富を“何らかの方法”で自分のものにするにするために、この“なんらかの方法”として、かつては“武力“であったものが”法”に置換えられた。武力によらないので、略奪ではない。そこでは、あくまでも合法的に、双方の合意のもとに富が移転される。武力による紛争から合法的なビジネス契約に、訴訟社会になった。武力衝突のない平和な社会になったと思っていたら、合法的なビジネスと呼ぶ手段による富の移転が加速して貧富の差が大きくなりすぎた。なりすぎて社会が内から崩壊しかねない気配になってきた。

Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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