泣きっ面に蜂が1匹。蜂が2匹。蜂が3匹。蜂がたくさん。

ワタシは憂鬱だ。「弱り目に祟り目」なのだ。いや「泣きっ面に蜂」だ。しかも、蜂は一匹だけじゃない何匹も何匹も数え切れない。おかしいぞ。安倍一強体制安泰のはずだったじゃないか。それが、かくも脆くも崩れるとは…。いったいどういうことなんだ。

議会でも、記者会見でも、講演でも、街頭演説でも。ワタシは好きなことを好きなように言ってりゃよかった。遠慮する必要なんかなかった。なんと言っても一強なのだから。面と向かってのワタシの悪口など、誰も言える雰囲気ではなかったじゃないか。それがどうだ。手のひらを反したようなこの針を刺すような冷たい空気。みんなワタシの悪口を言い合って楽しげだ。記者の態度も豹変した。突っ込みにトゲがあって、遠慮がない。「安倍首相の国会答弁 あまりに下品で不誠実で幼稚」なんて、コラムが大新聞の表題に躍っている。

驚いたのは、都議選が始まったときだ。候補者からの応援演説の依頼がない。「むしろ、不人気だから総理は来ない方がよい」と言われたあのときが、青天の霹靂。無理に無理を重ねた共謀罪国会で、既に潮目が変わっていたのだ。

なによりも都議選の惨敗は痛かった。それまで、不戦敗は別として、ワタシは選挙に勝ち続けてきた。対抗野党勢力の弱体という僥倖に恵まれていたとはいえ、選挙に強い安倍晋三のイメージが、一強体制をかたち作ってきた。それが、都議選では前回59議席からの、自民23議席への大凋落だ。だから、この都議選の結果が「安倍政権の終わりの始まり」と言われてもしょうがない。都連の会長は引責辞任したが、この大敗は明らかに安倍政権への批判だ。ワタシが惨敗の原因を作り、しっかりと足を引っ張った。それにしても、こんなにみごとに負けるとは思わなんだ。これが「弱り目」。

それだけではない。これを潮に、あらゆる世論調査による内閣支持率の極端な墜落。ついには30%を割る調査結果も。不支持率が支持率を上回り、その差が20%に近い。これが、「祟り目」。今日の新たな報道では、毎日新聞全国世論調査が、安倍内閣の支持率26%で、不支持率56%と発表された。「安倍晋三自民党総裁は、『代わった方がよい』62%、『総裁を続けた方がよい』23%」。これは厳しい。

さらに、悪いことは重なる。無能で不人気な防衛大臣や地方創生担当大臣が、思いっきりワタシの足を引っ張る。これが「泣きっ面に蜂」、さらに大きなスズメバチの攻撃も出てきた。仙台市長選の敗北だ。これも痛い。負けただけでなく、負け方が悪い。タイミングは最悪だ。

仙台市長選は、東京都議選に続く大型地方選挙として注目されていた。国政の与野党対決構図、「自・公」対「民・社・共・自」がそのまま持ち込まれた選挙戦だった。言わば、ミニ国政選挙シミュレーションでもあったわけだ。朝日が「野党共闘候補が自公系破る」と見出しを打った。そのとおりだから、タチが悪い。「野党四党は緊密に連携し、安倍批判票を取り込んで勝利した」。このパターンの定着が最も痛い。この選挙でも、中央からの大物自民党議員は表に顔を出せなかった。「与党側の敗北で安倍政権への影響は避けられそうにない」と多くのメディアが愉快そうに報じている。ワタシは不愉快だ。

こんな事態だから追い込まれる。野党の閉会中審査など2か月前なら、無視して押し通せた。しかし、今は説明責任放棄を世論が許さない。針のムシロが、槍ぶすまになる。致命傷になるのだ。だから、明日と明後日(7月24・25日)には、閉会中審査の予算委員会で、「丁寧に説明」をしなければならない。これが憂鬱の原因なのだ。

でも、「丁寧に説明する」って、どうすればいいんだろう。たくさんの人たちが、ワタシの丁寧な説明能力を疑って、聞き耳を立てている。実は、ワタシもどうすればよいのか分からない。自分で何度も「国民の皆様に、納得していただけるよう丁寧に説明してまいります」って繰り返してきた。だけど、もちろん口先だけで言ってきたこと。本当にやる気はなかったから、どうしたら「丁寧に説明」できるか、真剣に考えたことはない。実際にどうすればよいのか、さっぱりなんだ。どうしてこんなことになっちゃったんだろう。

ワタシは、論争の相手を挑発したり、野次ったり、揚げ足を取ったり、話をそらしたり、論点をずらして一般論でごまかすことは、わりと得意なんだ。逆ギレして聞かれもしないことをまくし立てたり、「印象操作だ」と決めつけて印象操作をすることや、「反省しています」と言いながら相手を攻撃することも得意技。いつもワタシは正しくて、いつも論争の相手の方が間違っているんだから、当然こうなる。

ところが、そういう私の体質に国民世論が反発をしてきた。もちろん、私に非があるのではなく、愚かな世論が間違っているに決まっている。しかし、いま世論に逆らって、さらに支持率を落とせば確実に政権は崩壊する。「泣く子と地頭」には勝てても、世論には勝てない。だから、野党の言い分も良く聞いたフリをしたうえで、「丁寧な説明」をしなければならない。そこがつらい。

今日(7月23日)は、横浜でその練習をしてきた。集会で、「論語」の一節を引用して「『60にして耳順(したが)う』と言う。私はあまり人の話を聞かないイメージがあるけど、結構人の話を聞くんです」と述べてみた。取って付けたような、ワタシに似合わぬぎこちない発言だが、やればできるのだ。

とりわけ、加計学園の問題では「丁寧に説明する努力を積み重ねたい」と言ってきた。これまでなら、「『ご意向』も『忖度』もまったくない。それを証明せよと言っても、ないことの証明は『悪魔の証明』ではありませんか。あるというあなた方の方に証明責任はあるんですよ」と息巻いておくところだが、どうもそれが通用しない。それでは丁寧な説明にならず、そんな論法が批判の対象なのだ。

だから、何とかしなければならないのだが、『ご意向』も『忖度』もまったくないことを、どうしたら丁寧に説明できるのだろうか。ワタシには、至難の業だ。ストレスが溜まる。持病がぶり返すのではないだろうか。一期目のあのみっともない政権放棄を思い出す。汗だくのイノセ君や、茫然自失のマスゾエ君の顔がチラチラする。だから、憂鬱なんだ。
(2017年7月23日)

初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2017.07.23より許可を得て転載

http://article9.jp/wordpress/?p=8916

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