民族(ピープル)とは、あらかじめ国家機構のなかに存在し、この国家を他の諸国家との対立関係において「自分のもの」として認知するような、そのような想像の共同体である。
エティエンヌ・バリバール「国民形態の創出」1⃣
1 「民族」をいう始まりの言説
1)「民族」から始まる
津田左右吉の『文学に現はれたる我が国民思想の研究 貴族文学の時代』[2]の「序説」は次のような文章で始められている。「東海の波の上に我々の民族が住んでいるということのやや広く世界に知られたのは割合に新しい時代のことであって、文献に見える限りでは普通に前一世紀といわれる時代、即ちシナの漢代が始めである。」[3]私がこれを引くのは、津田が「我が国民思想」の歴史研究的叙述をどこから、どのように始めるのかが気になったからである。
ところで津田は『国民思想の研究』の戦後改訂版で書名から「我が」の二字を削っている。津田自身は書名から「我が」の二字を削ったことにさしたる意味はないといっている。「書名の「我が」を削ったのは、さしたる意味があってのことではなく、それが無くても、この書が我が日本の国民思想を取扱ったものであることは、おのずから知られる」ものであることなどの理由によるといっている[4]。「我が」とは「我が日本の」ということであり、そうである限り「我が」とあえていわずして明らかであると津田は削除の理由を釈明している。
この釈明文はわれわれに二つのことを教えている。一つはあの「我が」とは「我が日本の」ということであり、この「我」とは「序説」冒頭の文章で「我々の民族」というのと同じ「われわれ日本人」を意味していることである。「我が国民思想」とは「われわれ日本人の国民思想」であることはだれにも明らかだから、「我が」の二字を省いてもよいと津田はいっているのである。だが「われわれ日本人の国民思想」を津田が「我が国民思想」というとき、その「我」に大正初年のいま「国民思想」をその始まりから叙述しようとする津田という独自の思想主体を私は感じ取る。戦後の改訂版でこの「我が」の二字を削ったとき、津田はあの「我が国民思想」という「我」に込められていた津田という思想史家の独自性を自ら削り取ったことにはならないか。あの削除の釈明文が教える二つ目のことはこのことである。だが恐らくこれはここで問うべきことではない。ここではわれわれが読むべきなのは、「我が」の二字が付された初版本『我が国民思想の研究』だということを知ればよいのである。
津田は『我が国民思想の研究』をどのように語り始めるのか。私はまずその始まりの一文を引いた。彼は「東海の波の上に我々の民族が住んでいるということ云々」と書き始めているのである。「我が国民思想」の始まりを津田は「東海の波の上に我々の民族が住んでいる」という「我が民族」の原初的な成立の光景から書き始めているのである。
すでに見たように「我が国民思想」とは「我が日本(日本人)の国民思想」をいうことであり、「我々の民族」とは「我々日本人」ということである。「民族」という日本語概念ー「民族」とは日本製漢語であるーについてはあらためて検討するが、津田のいう「日本民族」とは「日本の民族(ピープル)」すなわち「日本人民」「日本人」を意味すると私は考える。津田はいま「我々の民族」すなわち「われわれ日本人」が東海の波の上に成立していることを書き出すことをもって「我が国民思想」の物語の「始まり」を記しているのである。ここにあるのは「起源」の遡行的追求ではない。「民族」の、あるいは「日本人」の起源への追求的視線は遮断され、すでに成立している「民族」という始まりが記述されるのである。
津田が「民族」をいうことは「起源(オリジン)」をいうことではない、「始まり(ビギニング)」[5]をいうことである。「始まり」はこれから始まる物語の「始まり」として、物語の性格を決定的に意味づけていく。たとえば「天照大御神」という「始まり」は「日本国家」の語りを国体論的に決定的に意味づけていくのである。いま津田は「我が国民思想」という語りを「我々の民族」の成立をいうことから始めているのである。
2)「日本の文」の始まり
津田の「国民思想」の語りは『文学に現はれたる我が国民思想の研究』の書名がいうように「わが文学」の歴史的展開による国民思想の語りである。ここでいう「文学」とは文芸から美術・音楽・演芸をも含む広い意味におけるものである。この広意における「文学」の歴史的展開を通して「国民思想」を追求するという形を津田の書はとる。そこから津田の「此の書は国文学史の(幼稚ではあるが)新しい試みともなっている」(「例言」)という言葉もあることになる。この言葉は私に「日本文学史」とその「始まり」の記述への参照を強く促した。
「日本の文」の始まりを日本文学史はどのように語るのか。だが既成の「国文学史」には私が期待するような「始まり」の記述はない。はっきりと「始まり」の記述をもっているのは、私が知るかぎり小西甚一の『日本文芸史』[6]だけである。小西の『日本文芸史』は欧米の研究者・学生を読者にもって、新しい方法意識と世界文学的視点とをもって書かれた文学史である。私は『万葉集』などについて多くのことを教えられた。英語版とともに刊行されたこの「日本文学史」ははっきりと「日本の文」についての「始まり」の記述をもっているのである。
「まず「日本」という点から考えてみよう。日本文芸史における「日本」とは、何をさすのであろうか。・・・地域としての「日本」には、アイヌ文芸が存在するけれども、これをヤマト系の文芸と連関させて迹づけることが不可能だから、ユーカラで代表されるアイヌ文芸は、ヤマト系の文芸と交渉するところが無かったから、包括する必然性は無いのである。」(一「対象と方法」)
小西の「日本」あるいは「日本の文」の始まりの語りをあらためて読み直して、これが異質の排除からなる「ヤマト系文芸」の始まりの記述であることを知って驚いた。異質の排除からなる「ヤマト系文芸」をいうことは、「ヤマト」というアイデンティティの成立を前提にしている。「日本」「日本の文」の始まりを問う小西は、すでにはじめからその答えをもっていたのである。「日本」という自己同一性の原初型としての「ヤマト」を。この「ヤマト」を定義して小西はこういっている。
「わたくしの日本文芸史がヤマト系に即して組織されることは、前に述べたとおりであるが、さらにヤマト系ということを定義するならば、それは「弥生式の土器で代表される文化を形成し完成させた民族とその子孫がもつ文芸であり、現代日本語とその古形によって制作・享受されるもの」というべきである。」(三「ヤマト系文芸と非ヤマト系文芸」)
ここで筆者自身がカギ括弧でくくっている文章は自己引用なのか、自らした概念的要約なのか。いずれにしろこれは「弥生式日本」あるいは柳田風にいえば「平地常民的日本」として定型化された「日本」の再生でしかない。そのことはともかく「ヤマト」という「始まり」は「アイヌ」という異質を排除することによって「わが始まり」として画定される。だから「ヤマト」という「始まり」を画定することは、〈外部〉を排除して「日本」という〈内部〉を画定することでもある。したがって「ヤマト」を始まりとする『日本文芸史』は日本的内部としての日本人による文芸的表現とその特質をめぐる詳細な分析批評的記述となる。その際、世界文学が参照されようとも、それは内部的特質を際立たせるものでしかない。私がさきに小西のこの著書に教えられたといったのは、「日本の文」の内部的特質の詳細な分析的記述によってである。
ところで小西はこの大著『日本文芸史』を「故ジョージ・サンソム卿」に捧げている。小西をアメリカの学界に引き入れたのは、当時スタンフォード大学顧問教授のサンソムであったという。小西が深い感謝と尊敬の念を捧げるサンソムであるが、彼が日本とその文化の起源に向ける視線は小西とはまったく異なっている。サンソムが『日本文化史』で記述しようとするのは「始まり」ではなくして「起源」である。サンソムは『日本文化史』をこう書き始めている。
「日本人の起源についてはまだ定説はない。しかし地理上歴史上の既知の事実に照らして先験的に論定すれば、日本民族は歴史以前の時代にアジア本土の各地方から移住した諸要素の混合からなるという結論に達する。」[7]
「始まり」をいう文化史的言説は「わが文化」の自己同一的な文化の〈純粋型的始まり〉を見出していく。それに対して「起源」を尋ねる文化史的言説は多様的なものの混合型的起源を推定していく。そこから始まる文化史的な記述はまったく対照的性格をもった二つの展開を見せていく。サンソムがイギリス本島と日本列島の文化地理的な類似をこういっている。
「いずれも背後には種々の民族の住む大陸があり、前方には無際限の大洋がある。飢餓と恐怖との圧迫にかりたてられたもの、いなむしろ単なる変化を求めたもの、そういう移住者の集まりがちなのがこのポケットである。そこから先には行くにも行かれないために、混和するか死滅するかのほかないのもこのポケットである。」
この混合的文化の成立をめぐるサンソムの言葉は、岡倉天心の『東洋の理想』の言葉を思い起こさせる。「日本の芸術史は、こうして、そのままアジア的理想の歴史となるーー東洋の思想の波が日本の国民意識という渚に打ちよせて来るたびに、波の痕を砂地に残してゆくのだ。」[8]この天心の言葉を読むことでわれわれは、「日本(やまと)」という「始まり」から始めないもう一つの日本文化史・芸術史・文学史の言説があることを知るのである。同時にわれわれは「日本(やまと)」という「始まり」から始める日本文学史もまたもう一つの文学史であることを、すなわち「日本(やまと)」という自己同一性が成立して以降の、すなわち日本近代の「日本」および「日本の文」の再構成的文学史であることを知るのである。日本文学史における「始まり」を見てきたわれわれはここで津田左右吉における「民族」という「始まり」の言説にもどろう。
「東海の波の上に我々の民族は住んでいる」という言葉をもって始めた津田は、この民族による国民の形成を語っていく。「さて此の民族全体が国民として完全に統一せられたのは、ずっと後のことで、確かには判らないが大てい所謂四世紀の初め頃、即ちシナの晋代に当る時分で有ろうから、我々の祖先は纏まった一国民としての生活を始めない前、随分長い年月の間、民族としての生活を経過してきたのでる。」
四世紀の初め頃と推定される統一的国家の成立とともに国民となる民族、あるまとまりをもった民族がずっと以前からこの列島に存在したと津田はいうのである。彼のいう民族とは国民となる人々の国家成立前の名称だということになる。この国家が日本(やまと)であるとすれば、やがて日本国民となる日本人が日本民族である。このことは未刊の『国民思想の研究 五』の「序説」をなすものとして編集されている「回顧二千年」[9]という文章で一層明かにのべられている。
「いわゆるアジアの東方の列島に生活しているわれわれ日本人の祖先は、知られる限りの古代において、既に体質を同じくし言語を同じくし生活を同じくし、過去の長年月にわたる共同の歴史を経過してきて、低いながら共同の文化をもっていた。一つの民族として、われわれの知識に入ってくる日本民族は、民族としては附近の大陸及び半島の諸民族とは全く違った特異の民族であり、現在では、他に類族のあることの認められない世界唯一の民族である。そうしてそれが後の歴史の進展の過程において政治的に統一せられ、一つの国家を形成して、今日までも変らぬ民族国家の国民として世界に立つことになった。」
これは大正5年(1916)に『我が国民思想の研究 貴族文学の時代』の第一章の冒頭でのべた「民族」という「わが始まり」の言説を昭和37年(1962)に再生させたものであって、「民族」概念に、その「始まり」をいう言説に何らか戦後的な変容が加えられているわけではない。「日本民族」という同一性的概念が一層あからさまになっただけで、ほぼ同じことは大正初年の文章でもいわれている。だが約半世紀後の「回顧二千年」の文章が放つ反動的なにおいに私は辟易する。それは「民族」という概念、あるいは「民族」主義的言説のもつ歴史的性格の問題なのか。「回顧二千年」から引く上の文章は、20世紀の「民族国家」日本の自己誇示ともいいうるものではないか。津田の「民族」という「始まり」をいう言説とは、20世紀の「民族国家」日本の成立を二千年前に遡行させた言説ではないのか。だがそういい切る前にわれわれにおける「民族」概念を考えてみよう。
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[1] バリバール/ウォーラーステイン『人種 国民 階級ー揺らぐアイデンティティ』若森章孝他訳、大村書店、1995。
[2] 津田左右吉『文学に現はれたる我が国民思想の研究』の第1巻「貴族文学の時代」は大正5年(1916)に洛陽堂から刊行された。第2巻「武士文学の時代」は大正6年に、第3巻「平民文学の時代 上」は大正8年に、第4巻「平民文学の時代 中」は大正10年に刊行された。津田のこの一連の著述は第5巻「平民文学の時代 下」(明治維新を中心とする思想史)を未刊のままにして絶版となり、戦後に至った。津田は戦後昭和23年(1948)からこの一連の著述の補訂に取りかかり、昭和26年に改訂版『文学に現はれたる国民思想の研究 第一巻』として「貴族文学の時代」を岩波書店から刊行した。次いで「武士文学の時代」は『第二巻』として昭和28年に、「平民文学の時代上」が『第三巻』として同じ昭和28年に、「平民文学の時代 中」が『第四巻』として昭和30年に刊行された。だが「平民文学の時代 下」すなわち『第五巻』は刊行さrえなかった。津田は昭和36年(1961)に亡くなった、津田の『国民思想の研究』には初版と戦後改訂版の二種があることになる。だが日本近代史に出現した津田の歴史思想的言説の思想史的意味を問う私の立場から、初版本が考察の対象とされる。初版本は『津田左右吉全集』別巻第二〜第五に収められている(岩波書店)。
[3] 津田の著述からの引用にあたっては当用の漢字、かな遣いに改めている。
[4] 改訂版『国民思想の研究一』「まへがき」『津田左右吉全集』第4巻、岩波書店。津田の著作からの引用に当たって、当用の漢字・かな遣い表記に改めた。また「支那」は「シナ」とした。
[5] 「始まり(beginning)」がもつ言説論上の重大な意味について、「起源(origin)」と「始まり」の意味論上の差異についてはE.W.Said“BEGINNINGS Intention and Method”Columbia University Press, New York, 1985.参照。
[6] 小西甚一『日本文芸史 Ⅰ』講談社、1985.Ⅰ〜Ⅴ巻と別巻の全6巻からなる小西の『日本文芸史』は英語版が同時に刊行されているように、著者の米国(スタンフォード大学)における研究と教授体験にもとづくもので、いわゆる国文学史の域をこえた方法意識と世界文学的視点をもって書かれたすぐれた文学史である。
[7] G.H.サンソム『日本文化史』福井利吉郎訳、東京創元社、1976,
[8] 岡倉天心『東洋の理想』(佐伯彰一訳)『岡倉天心全集』第一巻、平凡社、1980.『東洋の理想(原題:THE IDEALS OF THE EAST WITH SPECIAL REFERENCE TO THE ART OF JAPAN)』は1903年にロンドンのジョン・マレー社から出版された。
[9] 「回顧二千年」は雑誌『心』の昭和37年11月号に掲載された。『津田左右吉全集』の第8巻が未刊の『文学に現はれたる国民思想の研究 五』として編集された際、その第一論文として収められた。
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初出:「子安宣邦のブログ・思想史の仕事場からのメッセージ」2016.10.13より許可を得て転載
http://blog.livedoor.jp/nobukuni_koyasu/archives/66543331.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study775:161014〕