津田は「神代史」に何を問うたか

〈大正〉を読む・10

津田は「神代史」に何を問うたか―津田左右吉『時代史の研究』を読む

 

「物語に於けるタカマノハラは一つの国ではあるが、ホノニニギの命がそこから降られた後は全く幕が閉じられてしまったのである。・・・此の天降りの後、タカマノハラは空虚である。」            津田左右吉『神代史の研究』

 

1「神代史」は「作り物語」

「神代史」とは記紀に伝えられる神の代を指している。『日本書紀』は神武以前を「神代」と区別している。『古事記』にはその区別はないが、神武以降と異なる形で「神世」を記述している。神武以前は神の代であって、人の代ではない。津田はその区別を丁寧に説明している。

「神武天皇の巻以後にあっては、全体が人の代のこととなっているだけに、神と人との接触交通が夢とか託宣とかいう神秘的方法によって行われ、神自身が現に身を顕すことの無いのに、神代に於いてはすべてが神の世界であるから、神が現し身のままで活動しているように説いている。」[1]

神武以後の物語もそのまま歴史的事実とは見られないが、大体人事の世界として語られている。だが神代巻はまったく人事の世界ではない。記紀の編者は「神武天皇以後と所謂神代との間に截然たる区別があるものと考えていた」[2]と津田はいうのである。そして津田は、この「截然たる区別」が示しているのは「神代の物語は歴史的伝説として伝わったもので無く、作り物語であるということ」だというのである。

神代の物語は歴史的伝説ではない。もしそれが伝説を基にしたものであれば、「ウガヤフキアエズ以前も神武以後も同じことでなくてはならぬ。其れを違ったものとしたのは、何か、そこに区別をつけなければならない理由があるからのことで、其の理由は神が実在の人物で無い如く、神代史も人間の歴史では無いということより外にはあるまい。」だがそうはいっても「歴史的事実の反映が含まれていない」というのではない。けれども「そういう部分にしても、作者は歴史的伝説として書きとめたものでは無く、或る伝説を材料にして物語を作ったのであろう」と津田はいうのである。「神代史」とは「作り物語」であるという津田の物言いは決然たるものである。この物言いを十年後の津田は『神代史の研究』で、「神の代」とは「事実上の存在ではなくして観念上の存在である」といい直している。

記紀における「神代史」が「作り物語」であるならば、われわれはこれをどう読むべきなのか。記紀の専門的な読み手であった歴史家たちは、「歴史的事実」を読み出すことに彼らの認識作業の目的なり、意味を置いていた。だが記紀の「神代史」が「作り物語」とされるとき、「神代史」を読む作業とはいかなる意味をもつのか。「神代史」の読みは文学者に委ねてしまった方がよいのか。「神代史」という歴史的テキストには後世的認識作業に意味を与える〈事実〉はないのか。津田はこういっている。

「そういう場合には、我々は其の語るところに如何なる事実があるかと尋ねるよりは、寧ろそこに如何なる思想が現われているかを研究すべきである、ということに注意して置くのである。こういう性質の物語は、物語そのものこそ事実を記した歴史ではないが、それに現われている精神なり思想なりは厳然たる歴史上の事実であって、国民の歴史に取っては重大な意義のあるものである。」[3]

記紀の「神代史」を「作り物語」だとすることは、〈事実〉を求める読み手の志向を挫折させるものではない。それはむしろ読み手をより高次の〈事実〉へと導くものなのである。

 

2 「神代史」研究の〈方法的前提〉

私はまず記紀の「神代史」を「作り物語」だとする津田の見方を記した。そして「神代史」テキストに見る物語を「作り物語」だとすることが、「神代史」の読み手をより高次の〈事実〉の認識に導くものであることを津田の言葉によっていってきた。私がいま本稿の序章に記してきたことは、津田による記紀「神代史」の批判的解読作業の〈方法的前提〉ともいうべき見方・考え方である。私が〈方法的前提〉というのは、当該テキストについてのこれこれの見方を前提にすることから、テキストの読み方が規定され、その読み方にしたがってテキストの意味が新たに読み出されてくるということである。私は津田の「神代史の研究」にはこの〈方法的前提〉があることを、一種の驚きをもって再発見した。再発見したというのは、私は『神代史の研究』の結論の章まで読み終えてあらためて始まりの章を読み直し、あの方法的見方を発見したからである。私はその結論を感銘深く読んだ。そしてこの結論を導くような津田の読みの前提としてある方法的立場を再確認しようと思ったのである。

津田の記紀「神代史」の批判的読み方を一般にはこう解説する。津田に連なる古代史研究者水野祐が解説する言葉を引いてみよう。

「津田左右吉博士は大正後半から昭和初年の間に、『記紀』二典の神代史や上代史について、史料批判を厳密に試みられた。その基本的立場は、『記紀』の神話。伝説が在来考えられてきたような、伝承時代以来の伝承を忠実に文字にうつしたものと考えるのではなく、『記紀』の編纂者たちによって潤色述作されたものであるとの観点にたつものであった。」[4]

水野のこの解説によれば、記紀の「神代史」はその編纂者によって「潤色述作」されたものである。だから後世の読み手はその点に注意深く読むならば、何が曲げられ、何が本来かを見分けることができると水野は津田の史料批判の立場を解説していっているように思われる。だから水野は上の言葉に続けて、「『記紀』の所伝の中には、古い伝承によるものもあるが、新しい時代になってから、編纂者の意図によって改変されたものが多いから、それを明確にみきわめた上で、批判的に記述内容をとりあつかわなければならないというのが、(津田の史料批判の)骨子となるところである」といい、そして「この津田説は正論である」と水野は結論的にいっている。

だがこの水野の解説は、津田の「神代史」批判とその方法の正しい解説であるのか。水野の解説にしたがえば、「神代史」編纂者の「潤色述作」に注意して史料の伝承を読めば、われわれは「神代史」に本来の伝承の姿を見出すことができるといっているかのようである。もしそうだとすれば、水野の解説は津田の「神代史」批判の立場を理解した解説とはとてもいえない、むしろ誤解あるいは曲解でしかないと思われるのである。水野は要するに津田を〈伝承的事実〉を求める日本古代史家である己れの側に引き寄せて理解しているのである。日本古代史家である水野は記紀「神代史」にわが民族の〈伝承的事実〉の形跡を認めているのである。その〈伝承的事実〉の正しい認識がいま求められているのだというのである。「神話・伝説は民族の貴重な文化遺産であるから、われわれはそれを正しく認識することが必要である」[5]と水野はいっている。津田は水野のいう民族的要請に引き寄せられ、引きずり込まれて津田の「神代史」批判の本質は見失われてしまうのだ。

津田が「記紀神代史は作り物語」であるというのは、「神代史」は編纂者の「潤色述作」からなるテキストであるから、そこから〈伝承的事実〉を含む〈歴史的事実〉を何らか読み出そうとするものは念入りのテキスト批判が必要だというものではまったくない。「神代史」が「作り物語」だということには、「神代史」における〈伝承的事実〉の認識を介して主張される〈神代〉と〈いま〉との連続性を遮断しようとする意志の表明を見ることができる。津田の日本古代史の流れを汲むはずの水野が見ようとしなかったのは、そして私もまた最初に見ることができなかったのは、津田のこの「神代史は作り物語」であるという決然たる物言いがもつ〈いま〉との連続性を遮断しようとする強固な意志であった。この連続性の遮断の思想的意味については、『神代史の研究』の結論においてもう一度触れることになるだろう。ここではこの遮断の方法論的な意味について考えたい。

私はすでに前章で津田の「神代史は作り物語」であるという見方を「神代史」研究の〈方法的前提〉だといった。〈方法的前提〉というのは、「これは作り物語」だという見方が前提されることによって、そのテキストの読み方、意味のとらえ方が規定されてくるような方法的立場をいっている。「これは作り物語」であるということは、ここに一つの構成された物語世界が、その世界との連続性による安易な後世的介入を排する形であるということである。だから私は「神代史は作り物語」だという津田の物言いは、「神代史」と〈いま〉との連続性を遮断しようとする意志の表明だといったのである。私がいま津田の「神代史は作り物語」だという言明をめぐってくだくだしくいっているのは、津田のあの言明に私は思想史における〈言説論的転回〉[6]と同様の方法論的立場を見ているからである。

 

3「神代史」は言説上に構成される

津田が「神代史は作り物語だ」というのは、「神代史」は実体としてあるのではなく、ある時代のある人びとによる言説的構成物としてあるということを意味している。「神代史」は実体ではない、それは言説上にあるのだ。これは「神代史」をめぐる〈言説論的転回〉というべきとらえ方である。「神代史」あるいは「神代」という世界は、記紀に「神代」あるいは「神世」として構成されてはじめてあるのである。だから「神代史」の意味とは、記紀において「神代史」がどのように構成されているかに求められることである。

「神代史」を構成する神々の意味も、それらの神々をめぐる物語構成から明らかにされなければならない。これを明らかにするのが、記紀本文の批判的研究、〈本文批評〉という方法である。この〈本文批評〉の方法について津田は『古事記及び日本書紀の新研究』の「総論」で詳細に語っている。

「第一の研究(記紀の本文そのものの研究)の方法は、或る記事、或る物語につき、其の本文を分析して一々細かくそれを観察し、そうして或は其の分析した各部分を交互対照し、また他の記事と比較して、其の間に矛盾や背反が無いかを調べ、もしあるならば、それが如何にして生じたかということを考察し、又た文章に於いて他の書物に由来のあるものはそれを検索して、それと言い現わされたる事柄との関係を明かにし、或はまた記紀の全体にわたって多くの記事、多くの物語を綜合的に観察し、それによって、問題とせられている記事や物語の精神のあるところを達観するのであって、種々の記事・説話の性質と意味とは、これらの方法によって知られるのである。」

この詳細をきわめた〈本文批評〉の方法は、津田によって例えばスサノヲの神の性格やその物語の意味解明に使われる方法である。われわれが津田の『神代史の研究』などを読んで辟易するのは、詳細にして長大な〈本文批評〉に付き合わせられるからである。だが読み手をうんざりさせる〈本文批評〉とは、「神代史」という言説的構成の上で、神やその事件やその物語の性質を明らかにする方法であるのだ。読み手を辟易とさせるような津田の〈本文批評〉の徹底さは、彼が言説外からの意味の読み入れを拒否することの徹底さと表裏をなすと見るべきだろう。

 

4「神代史」と「物語の原形」

津田は「神代史」の「物語の原形」といういい方をしている。たとえば日神(アマテラス)の誕生をめぐって津田はこういっている。「日神が皇祖神であるとすれば、そうして月神が其のつきあいに引出された神であるとすれば、其の点では此の二神が人間らしい神であり、人間の資質を具えているのであるから、イザナギ、イザナミ二神の生殖によって生まれた子とせられているのは当然であって、物語の原形でそういう風に構想せられていたことは怪しむに足らぬ。」(『神代史の研究』)津田がこのようにいう「原形」が記紀「神代史」以外のどこかにあるわけではない。「原形」とは「神代史」という一つの「作り物語」として画定された言説世界に内在する基本的構成プラン、すなわち〈物語の大筋〉である。

この「物語の原形」という「神代史」物語分析のための方法的概念を、津田の「神代史研究」は始めからもっていた。『神代史の新しい研究』の第一章「神代史の分解」の第二節「遊離分子の除去」でこういっている。問題は『古事記』冒頭に登場する天地最初の三神についてである。津田はイザナギ・イザナミ二神が天つ神の命を受けて国土を生産するというのは、「最初の三神を高天原にあるものとした記独特のくみたてから生じた一変形であろう」とした上で、「こういう風に諸説の間に一致点がなく、また、その神々の神代史において何のはたらきをもしていないのは、それが神代史の原形には存在しなかった証拠であろう」というのである。これによれば、「原形」をいうことは「神代史」の大筋からはずれた異質な伝承・説話の排除を可能にするものにもなっていることがわかる。

「物語の原形」とは数多くの異種テキストが構成する「神代史」世界を「一つの物語世界」として解明し、その統一的「神代史」思想を読み出そうとした津田の「神代史研究」がもたざるをえなかった方法的概念であるだろう。恐らくこの概念なくして津田の「神代史研究」は思想的成果を生み出すことはなかったであろう。私は『神代史の新しい研究』(1914)の十年後の著作『神代史の研究』を前著の増訂版でも補訂版でもない津田神代史研究の積年の成果だと見ている。だがこの成果を可能にした「物語の原形」という概念は、すでに見たように異質な伝承・説話を排除する論理でもあった。この異質的神話テキストを代表するのは『古事記』である。「物語の原形」という概念は、『神代史』という物語世界の分解(分析的解明)を可能にするとともに、「神代史」の純化的再構成を導きかねないアンビヴァレントな概念でもある。それは『古事記』の神話世界を全的に包括した「作り物語」世界の新たな分解の課題をわれわれに教えるものでもある。

 

5「神代史」の三つの中心点

「神代史」は大体三つの中心点から成り立っている、と津田はいう。先ず始めにある中心点とは、(い)「イサナギ・イサナミ二神がオホヤシマと其のオホヤシマの統治者としての日神とを生まれた」ことである。そして終わりの中心点とは、(は)「日神の御子孫がタカマノハラから此の国に降られるについて、其の前に此の国土を支配していたオホナムチの神に迫って国をゆずらせ、そうしてヒムカに降られた」ことである。この(い)と(は)の中間にある中心点は、(ろ)「スサノヲの命がタカマノハラであばれて放逐せられ、先ずイヅモに降り、それからヨミの国にいった」ことである(『神代史の研究』第17章)。

津田は「神代史」の三つの中心点をこのように提示する。「神代史」の展開の筋からいえば(い)(ろ)(は)の順であるが、彼は{い}(は)(ろ)の順で提示している。津田は「スサノヲの命が日神の弟であるとして(い)に結びつけられ、其の子孫がオホナムチの神であるとして(は)と接合せられている」と、(ろ)が中間点であることの理由をいうが、なぜそれが最後に提示される中心点であるかを説明しているわけではない。(い)でいう日神の誕生と高天原における皇祖神としての成立、そして(は)におけるオホナムチの国譲りと皇孫の国土への降臨は、「神代史」の始終をなす、まさしく「原形」を構成する物語であり、それがまず(い)(は)として提示されたのである。だが(ろ)の中心点を構成するスサノヲの命は日神の弟でありながら、「神代史」のあの「原形」的筋道の攪乱者としてある。なぜこの荒ぶる神とされるスサノヲが中間点を成す形で(い)と(は)の間に存在するのか。津田は「神代史」におけるスサノヲの命の存立に最大の関心を向けながら、なおその存在理由を解明できていないといっている。いま「神代史」におけるスサノヲの存立理由をめぐる津田の疑問点をあげておこう。

「スサノヲの命が日神と同時に生まれたとせられ、而も其の間の連結が甚だ異様であるのが如何なる理由から来ているのか、何故にスサノヲの命がヨミにゆかれることになっているのか、又たヨミにゆくべき運命を有っていながら何故にイヅモに降ったか、現し国の一部たるイヅモを本拠とし現し国たる此のアシハラノナカツ国を支配していたオホナムチの神が、ヨミにゆくべく定められたスサノヲの命の子になっているのは何故か、そもそもイヅモとヨミとの間は特殊の関係があるようにせられているのは何のためであるか、・・・」

これは津田の「神代史」諸本の徹底した本文批評的な読みから導かれた「神代史」におけるスサノヲの存立をめぐる疑問である。スサノヲとはすでに津田による疑問そのものが提示しているように、タカマノハラ(ヤマト)とアシハラノナカツクニ(イヅモ)との関係そのものを体現している神である。だから津田は「神代史」の三つの中心点(い)(ろ)(は)を挙げ、(ろ)を中継点としての問題だといったのである。スサノヲという神の形象の複雑異様なあり方は、タカマノハラ(ヤマト)とアシハラノナカツクニ(イヅモ)との関係がもつ複雑異様さだと見るべきだろう。津田はそのように見ている。だから津田はスサノヲをめぐって執拗をきわめるほどに疑問を重ねるのである。

津田は『神代史の研究』の結論で「神代史」を定義して、「神代史は皇室が「現人神」として我が国を統治せられることの由来を、純粋に神であったという其の御祖先の御代、即ち神代の物語として説いたものである」[7]といっている。これが「神代史」の本文批評の上で「物語の原形」とせられたのであろう。だがこの「原形」は「神代史」テキストの上にすんなりと表現されていったものではない。だから神代の伝として多くの修辞と潤色をともなって構成されたテキストに、批判的読み手ならいくらでも矛盾や混乱を見出すことはできるのである。しかしだれが「神代史」テキストの問題を、「原形」にまで遡る疑問として提示しただろうか。「原形」とは神代を負った皇室がこの国の統治を成立させるという物語の大筋である。津田のスサノヲ問題の提示を見れば、彼の疑いはこの「原形」にまで及ぶものであることを知るのである。国体論的制約のない近世ならともかく、近代以降において「神代史」テキストについてこうした体系的疑いを提示したのは津田が始めてであり、あるいは最後の体系的疑問の提示者かもしれない。

津田はスサノヲ問題だけではないのだ。彼は(い)の日神の誕生をめぐる問題でも津田以外のだれもすることのないような疑いを発している。彼はなぜ日神がイサナギ・イサナミの男女二神によって生まれるとされるのか、しかもなぜ日神は国土の誕生の後に誕生するのか、と問うのである。太陽神であり、同時に皇祖神である天照大神の存立、神道的伝統の中での宗教性をもったその存立を自明性をもって受け入れているものからは決して生まれることのない問いである。津田は「神代史」における日神の誕生も、それが太陽神であり、皇祖神であることも分かりきったこととして見ていないのである。もし日神が太陽神であるならば、すなわち宇宙論的自然神であるならば、この神こそ初めに成立すべきなのに、なぜイサナギ・イサナミ男女二神の生殖によって誕生するのか、しかもなぜ国土の誕生後に生まれるのか、と津田は問うのである。こう問うことによって津田は何を明らかにしていくのか。

「人間らしい神としての日神が宗教的崇拝の対象としての神で無いとすれば、それは如何なる神であろうか。神代史の説話の何れもが、みな皇室の御祖先として此の神を語っていることは、・・・それは即ち此の神がただ皇祖神として考えられていたからだ、としなくてはなるまい。」「(この神が)天に上ぼせられる時には何れの本にも「タカマノハラを治らす」と書き、もしくはそれと同じ意味のことばを用いてあるのでも、此の神の本質の政治的君主であることが知られよう.日神が国の後に生まれられたのも此の理由から来るので、国が無くして君主のあるべき筈が無いからである。」[8]

この津田の即物的文章を見よ。これは「神代史」という神話体系を脱神話化する文章である。津田の「神代史」テキストの本文批評とは「神代史」の脱神話化作業である。

 

6 「神代史」に民衆は無い

津田は高天原という天上の神々の世界は「日神の居所として始めて開かれ、また皇孫降臨と共に閉じられてしまった」[9]という。高天原が「神代史」の上に時間的にも限定されて成立した世界だとすれば、私がいま「高天原という天上の神々の世界」といういい方は間違いで、それは津田のいうタカマノハラでなければならない。

「タカマノハラは此の国土と違った何等の特色もない。だからそれは此の人間世界の上に超越して存在する特殊の世界では無く、宇宙観の上から見るべきものでは無いのである。」

ここには津田の「神代史」の脱神話化が集約的に語られている。タカマノハラの語りは超越的な天上世界の神や天人と地上の人との関係をめぐる神話的説話の性格を全くもっていない。またそれは太陽と大地という宇宙観的関係性で説かれる語りでもない。タカマノハラの神々とアシハラノナカツクニの神々(人々)のあり方とはまったく同じである。違いはただタカマノハラが日神の居所であることにある。日神の居所であることによってタカマノハラは政治的関係性をもってアシハラノナカツクニとともに「神代史」に存立することになるのだと津田はいうのである。「アシハラノナカツクニとタカマノハラとは共に現し国を構成するものであり、其の間の関係は政治的なものである。」

これはもう津田の『神代史の研究』の結論といっていい。だから津田はこの「タカマノハラ」論の末尾でこういうのである。

「タカマノハラに関する上記の考説は、・・・此の観念が太陽を皇祖神としてあるところから生じたものであって其の外に意味が無い、ということを述べ、我が皇室の源は斯ういう意味のタカマノハラに有ると説いてそれを全篇の中心思想としている神代史の精神を明らかにしようとしたのである。」

これを読んで私は津田の「神代史」の脱神話化的本文批評の凄さに戦慄を覚える。ここまでいうのか。これは津田史学が日本近代にもたらした希有の言説である。最後にこのタカマノハラをめぐって津田がもう一ついう言葉を引いて終わりにしよう。

「さてタカマノハラを斯うして出来たものである以上、それは本来一般民衆の思想とは交渉のないものであるから、神代史が統治者の地位に立って統治者の由来を説いたものであるということも亦た之によってたしかめられよう。」

津田はタカマノハラ観と民衆思想との間の交渉関係などはない、民衆とは無縁だというが、それは「タカマノハラ」だけにいうことではない、「神代史」そのものについていうことである。「神代史」は民衆とはまったく無縁に成立するというのである。「神代史」は民衆とは無縁だという津田の言葉は、「神代史」を「国民的物語」「民族的物語」とすることへの批判でもある。津田の「神代史」批判はわれわれに再度の論を要請している。津田の「神代史」批判の射程は21世紀日本における『古事記』の再神話化にまで及ぶものである。

 


[1] 津田左右吉『神代史の研究』岩波書店、1924。引用に当たっては漢字・仮名遣いを当用のものに改めている。

[2] 津田『神代史の新しい研究』二松堂書店、1914。『津田左右吉全集』別巻第一所収、岩波書店、1966。引用に当たっては漢字・仮名遣いを当用のものに改めている。

[3] 津田『古事記及び日本書紀の新研究』(洛陽堂、1919)、『津田左右吉全集』別巻第一所収。引用に当たっては表記を改めている。

[4] 水野祐『日本神話を見直す』学生社、1996。

[5] 水野の前掲『日本神話を見直す』の冒頭の章「神話教育について」から引いている。津田の「神代史」批判についての水野の言及もこの章でなされたものである。いま水野の「神話・伝説」への視点を見るために本文中の引用を含む文章をここに引いておきたい。彼はここで歴史教育における「神話・伝説」の問題を論じているのである。「神話・伝説即史実のように判断をして、信じこませる歴史教育を復活させるのではまったくない。むしろ神話・伝説を徹底的に批判し、その中から真実として認められるものと、真実をつたえていないものとを見きわめて、その上にたつ正しい史実をひきだす方法によって帰納された神話・伝説を教育しようとするものである。・・・神話・伝説は民族の貴重な文化遺産であるから、われわれはそれを正しく認識することが必要である。」

[6] 私は哲学における〈言語論的転回〉にならって思想史における私の方法論的立場を〈言説論的転回〉と呼んできた。これがどのような方法論的立場かは本論で津田に即していうが、この方法論的立場から成された私の最初の著作は『〈事件〉としての徂徠学』(青土社、1990)であり、その立場からする思想史作業の集大成は『江戸思想史講義』(岩波書店、1998)であることをいっておきたい。

[7] 津田『神代史の研究』第22章「神代史の性質及び其の精神・上」。

[8] 津田『神代史の研究』第5章「日神月神及びスサノヲの命の生産」。引用文中の傍点は子安。

[9] 津田『神代史の研究』第23章「神代史の性質及び其の精神・上」。

 

初出:「子安宣邦のブログ -思想史の仕事場からのメッセージ‐」2015.10.15より許可を得て転載

http://blog.livedoor.jp/nobukuni_koyasu/archives/45466386.html

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study663:151016〕