「実際、種々の学派、さまざまの系統に属する多数の儒者が、筆を枯らし、口を極めて横説竪説している政治論・道徳論の幾千万言は、今日から見れば殆ど皆な空中の楼閣である。」 津田左右吉「平民文学の隆盛時代」
「政治のおしえ道徳のおしえとしての儒教が、権力者や知識人の思想のうえ知識のうえでは、長いあいだ大なる権威をもっていたにかかわらず、その力によって支那の政治と社会とが少しもよくならず、支那の民衆が少しも幸福にならなかった。」 津田左右吉『支那思想と日本』[1]
1 儒家全否定の言説
津田が『我が国民思想の研究』の「平民文学の時代」で日本の近世儒家の学問や論説をめぐっていう言葉は、徹底してネガティヴな性格をもったものである。ほとんど全否定といえるような近世儒家をめぐる津田の論述を読んでいくと、津田の近世儒家をめぐる厖大な知識の集積はいったい何のためであるのか分からなくなる。否定的記述のために否定的素材をこれほどに読むことをなぜするのか。あらためて20世紀初頭日本の批判的な知の巨人ともいえる津田の知識の形を私に考えさせた。津田は日本近世儒家の知識や教説の否定性を中国人の知識や思索の否定性に重ねてこういうのである。
「さて此の(儒者の)知識は、支那の実社会から得たものでは無くして書物の上のものであり、特に其の中心が道徳上の教訓にあるのであるから、実社会を知ることが出来ずまた批判的能力の無い儒者には、或は理想として説かれ、或は一種の既定的概念を以て甚だしく潤色せられた書上の記載が、其のままに事実でありまたあった如くに考えられるので、彼等の知識は此の点に於いて先ず根本的の誤謬を有っている。・・・儒者の此の誤見は殆ど彼等の知識をして真の価値なからしむる程に重大なものである。其の上にまた支那人特殊の民族性と社会状態とから発生した思想を世界の通理として見るという、同じく批判的能力と反省との欠乏から生ずる誤謬も加わっているので、彼等の知識の価値は益々減却する。実際、種々の学派、さまざまな系統に属する多数の儒者が、筆を枯らし口を極めて横説竪説している政治論・道徳論の幾千万言は、今日から見れば殆ど皆な空中の楼閣である。」(「平民文学の隆盛時代」)[2]
「(インドの)因明学も他を破し我を立てる論法を説いたもので、そこに実用上の目的があり、希臘人の論理学とは性質が違うが、その根柢には思考の法則が考えられている。支那人にはそれが無い。従って彼等の思索は、何れも独断的であり、断片的であり、推理と組織と体系とを具えていない。そういう思想を文字の上で継承した我が国の儒者の考え方が、やはり同様であるのは、自然であろう。その上に漢文の表現法は極めて粗大で曖昧で、同じ言語にも幾様の観念が示され得る。従って彼等の所説には思想の混乱と矛盾とが多く、然らざるものでも、零砕な知識を軽率に結合して事物を判断する。」(平民文学の停滞時代))[3]
中国知識世界の学問思想とその言語を導入し、受容してきたわが日本の知識世界、ことに儒家的知識世界には、本家中国のそれに輪を掛けたような欠陥、すなわち非体系的な知識の断片性、実世界から遊離した知識の観念性などの欠陥が伴われることは、津田は「我が国民思想史」の始まりからいってきたことである。津田はいま儒家的知識人・読書人が社会的に成立してくる近世日本を前にして、中国の漢字的知識文化の受容からなる日本の知識文化のいわば歴史的な体制的欠陥をいっそう強調するようにいっているのである。
ところで津田はこの近世日本を「平民文学の時代」と規定した。この「平民文学」の近世日本における隆盛を伝える津田の高揚感をもった文章を私は今までに何度も引いてきた。だが「平民文学」の隆盛をいうこの高揚した文章はすぐに、文化の爛熟と長い停滞をいう文章に、そしてこの時代と人々の知識・考え方の間違いを詳細に剔抉していく長い批判的文章に移行していく。その批判的文章の中心をなすのはすでに見た武士の階級的支配という日本近世社会の体制的問題であり、もう一つはここで見ているような近世における儒家的知識・知識人世界の成立という問題である。私は日本近世社会をめぐる津田のこの二つの批判点を批判的にふまえながら、日本近世社会やその知識の読み直しを求めてきた。津田の近世社会批判を批判的にふまえてなされる私の近世社会の読み直しは、津田の近世社会批判はいかなる〈近代国民国家〉像をもちながらなされるものであるかを洗い出すことでもある。話がやや抽象的な、方法論的な問題に流れすぎた。具体的に語ろう。問題は津田が日本近世儒家の知識・思想をほとんど全否定している、そのことである。彼はこの全否定の先に近代日本の〈国家と国民文化〉の成立を見ているのだろうか。
2 〈文革〉という全否定
近世儒家の学問や論説をほとんど全否定しているような津田の文章を読んでいると、津田は明治維新という変革を〈文革〉的性格をもった変革として見ようとしていたのではないかと思われてくる。ここで〈文革〉というのは20世紀後期中国で展開された〈文化大革命〉[4]を指している。この毛沢東の主導する全体主義的内乱としての〈文革〉とは何かをいうことは難しい。だが私がここで「全体主義的内乱」といったとき、それはすでに一つの理解を私がしたことになるのだが、しかし私はここでその理解をさらに確かにするような議論をすることはしない。ただ私はあの〈文革〉には現代中国における既成の伝統的宗教的価値体系の破壊的な否定が徹底してなされたことをいいたい。
私は〈文革〉後の1988年という年、後からいえば〈天安門事件〉を翌年に控えた年の秋の3ヶ月を北京で過ごした。それは北京の日本学研究中心で日本思想史を講義するためであった。そこには日本語と日本研究を志す大学院クラスの学生たちが中国各地から集められていた。私は日本思想史の講義に先立って、学生たちがどの程度儒教の基礎的知識をもっているかを知りたいと思った。そこで儒教の基礎的な概念や書物・人物についての問題を作成して、テストをした。学生たちの答案はほとんど白紙に近かった。彼らは〈文革〉後の世代に属する、〈文革〉後に教育を受けた学生たちであった。儒教など伝統的な宗教的、精神的価値体系についての知識は彼らにおいて皆無といっていいものであった。〈文革〉とは既成的文化体系の全否定的な〈文化大革命〉であったことを私は具さに知ったのである。彼らの受けた教育課程から儒教・儒学は全否定的に抹消されていたのである。
その北京の滞在期に見学旅行が企画され、私はよくそれに参加した。その見学旅行で私は曲阜の孔子廟をも訪ねることができた。そのとき孔林の孔子の墓に〈文革〉の大きな傷跡を見て驚いた。その墓地には真っ二つに裂かれた割れ目を残したまま修復された巨大な石の墓碑が立っていた。それは〈文革〉という破壊的暴力がもたらした生々しい傷跡であった。曲阜の孔子廟だけではない。中国で寺院に行けば、どこの寺院でも首だけ新しくなった仏像に出会うだろう。仏像の首はほとんど〈文革〉時に切断されたのである。〈文革〉とは伝統的な既成宗教や精神的価値体系のまさしく全否定であったのである。
ところで私は日本の近世儒家の学問知識をほとんど全否定するような津田の記述を引きながら、彼は明治維新にあたかも〈文革〉的な転換を見ようとしているかのようだといった。だが明治維新とははたして〈過去〉の文化的、精神的価値体系を全否定するような〈文化大革命〉であったのだろうか。たしかに明治維新による〈文明開化〉のかけ声に人びとは唱和し、〈御一新〉の時代の空気を共有していったようだ。また福沢諭吉がいう「門閥制度は親の敵(かたき)で御座る」(『福翁自伝』)といった言葉を読みながらわれわれも、明治の変革が旧文化・旧習俗のすべてに否定符を貼り付けてなされた〈文化革命〉であったかのように思ってきた。だが明治維新に始まる日本の国家的変革とは、はたして〈文革〉的な変革であったのだろうか。
3 明治国家は儒教を自分のものにした
今世紀の初めの時期、当時の小泉首相による靖国参拝が東アジアに〈歴史問題〉を再浮上させ、新たな政治緊張をこの地域に作り出していった時期に、私は「国家神道」問題に参入した[5]。私は江戸思想を専門にする日本思想史家として、現代日本の「国家神道」問題に関わっていったのである。私は「国家神道」あるいは国家の神道的祭祀体系の問題を国学や神道学・神道史から見るよりは、徂徠学やそれを受容した後期水戸学との関係から見ていった。明治の「国体」論や「国家神道」論を考えるのに、こう見るのがもともと、そしてもっとも正当な視点であったはずである[6]。近代日本国家を、天皇を最高の祭祀者とした祭祀体系として再構成し、それをもって法制度的国家を理念化し、国民統合的国家たらしめていく上で決定的に意味をもったものは荻生徂徠の制作論であったと私は考えている。幕末の危機的日本を祭祀体系的国家として統一し、国家的に再生させる道筋を後期水戸学の会沢正志斎は『新論』に見事に記している。徂徠の制作論を継承したのは後期水戸学の学者たちであった。そして明治国家が帝国憲法的な法制的体制をもって成立したとき、国家は「教育勅語」という倫理的教学体系をもってその倫理的実体(国民=臣民)を形成していった。これを主導したのは、元田永孚をはじめとする明治天皇周辺の漢学者たちであった。
このように見てくると、明治国家は儒教を否定するどころか、むしろ儒教を国家神学的、国家教学的な体系として再構成していったとことが知れるのである。日本の近世社会における支配的な学問・知識・思想であった儒教・儒学は、明治近代国家の成立とともにどのような運命を辿ったのか、それはどのように変容し、どのように生き長らえたのか。あるいは何が消され、何が再構成されたのか。私たちは近代日本における〈儒教的なもの〉の正体をしかと確かめることもなく見過ごしてきたのではないか。近世日本において社会的知識、教説として成立した儒教は、明治日本で儒教は国家に吸収され、その神学的、教学的体系をなすものとして再構成されたと考えている。明治の国民たちはこの新たな「国体」的教説に包みこまれながら、明治の新時代の到来を喜び合っていたのかもしれない。
このように見てきて、われわれはふたたび津田の近世儒教を全否定する言説にもどろう。
4 〈自立的国民〉不在の証明
「儒者の仕事が我が国にとっては、空疎な異国人の思想を取り次ぐだけのことであると共に、文字の解釈もしくは故事を知ることを主とするようになるのは、当然である」といった津田の近世儒家批判の言説を読むと、それが近代日本における文化の根本的転換を期待し、自発的文化と自立的知識の国民的成立を期待することの裏返しの表現ではないかと思われてくる。私は津田による近世日本の儒家的学問と知識に対する全否定は、新時代における〈文革〉的な転換への期待と相関的だといった。たしかに津田は自立的知識の国民的形成を熱烈に願っているのである。
だが津田が自立的知識の国民的形成をここで、すなわち近世の儒家的知識を語りながら、この時代の脈絡の中で願ったりするのは変な話ではないか。もちろん津田自身が〈自立的知の国民的形成〉を切実に願っていても、それは少しも変でも、妙でもない。だが明治国民国家の成立前の近世社会の知識・知識人を記述しながら、〈自立的知の国民的形成〉の要求を裏側にもちながら、〈非自立的な儒家知識人〉による知識の否定性をひたすらいうことが変だというのである。津田は〈自立的知の国民的形成〉を切実に願いながら、〈自立的国民的知識〉の不在をそれぞれの時代の知識の展開史のなかに克明に跡づけていったのだろうか。そうだとすれば津田のこの大部な『我が国民思想の研究』とは、〈自立的知をもつ国民〉の不在を歴史的に明かす証明書の厖大な積み重ねであるのだろうか。
だが一気に結論づけることはやめて、津田が〈自立的知の国民的形成〉をいうナショナリズムについて考えてみよう。ここで津田左右吉の名を一気に昭和十年代の時代のものにしていった『支那思想と日本』(岩波新書)が顧みられねばならない。
5 『支那思想と日本』
津田の『支那思想と日本』は創刊された岩波新書の一冊として、昭和13年(1938)11月に出版された。現代的知識を解説し、その普及を目的にした岩波新書は20点同時に創刊された。同時に刊行された20冊の中には斎藤茂吉の『万葉秀歌』上下巻もある。初版はいずれも一万部以上印刷されたが、発売後たちまち売り切れたという。津田左右吉の名が昭和日本の読書界に一般化していったのは、この新書によってだろう。
この新書の第一部「日本は支那思想を如何にうけ入れたか」は昭和8年に岩波講座「哲学」に書いた「日本に於ける支那思想移植史」であり、第二部の「東洋文化とは何か」は昭和11年に岩波講座「東洋講座」のために書いた「文化史上に於ける東洋の特殊性」であるという。満州事変(昭和6年)がやがて大陸における帝国主義日本の戦争として展開されていった時期(昭和12年)に書かれた日本と中国文化との関係をめぐる論文が、「支那思想と日本」のタイトルのもとに再編集され、岩波新書の一冊として出版されたのである。「この二篇は、いずれも今度の事変によって日本と支那との文化上の交渉が現実の問題として新によび起されて来た今日、再びそれを世に出すのは、必ずしも意味のないことではあるまいと思う」と津田はその新書の「まえがき」でいっている。では津田がこの二篇でもっていおうとしたことは何であるのか。
「この二篇に共通な考は、日本の文化は日本の民族生活の独自なる歴史的展開によって独自に形づくられて来たものであり、随って支那の文化とは全くちがったものであるということ、日本と支那とは別々の歴史をもち別々の文化をもっている別々の世界であって、文化的にはこの二つを含むものとしての一つの東洋という世界はなりたっていず、一つの東洋文化というものはないということ、(中略)である。」
津田はここで日本と支那とは別々のものであることを縷々のべている。その上で一つの東洋とか東洋文化といったものはないと津田はいうのである。ところで「日本と支那と、日本人の生活と支那人のそれとは、すべてにおいて全くちがっている」というのはもともと津田がもっていた考えであり、「二十年ものむかしに書いた『文学に現われた我が国民思想の研究』にも、一とおりそのことが述べてある」といっている。ここで津田は、彼の『我が国民思想の研究』を読んできたわれわれにとってきわめて重要なことをいっている。
日本と中国との徹底した差異化、日本とその言語、文化、生活、そして国民の独自性の主張が、アジアあるいは大東亜の理念をかかげてなされている中国における日本の戦争のただ中になされているのである。しかも津田による日本と中国との徹底した差異化の主張は、『我が国民思想の研究』のモチーフであったことをも教えてくれているのである。アジアや東洋の理念に反対しても、津田は今中国大陸で展開されている日本の戦争に反対しているわけではない。だがなぜ津田はその前年末に〈南京事件〉を生じさせた昭和13年というときに「日本と支那とは別々である」ことをいうのだろうか。さらに「日本と支那とはすべてにおいて全くちがっている」ことを歴史的に、体系的に立証するような長大な著作『我が国民思想の研究』をなぜ津田は書いたのか。
6 「日本と支那とは別々」
津田が『支那思想と日本』でしている日中の差異化とは、〈支那的なものの〉の否定的な差異化である。〈固有的な日本〉あるいは〈独自的な日本〉のために、〈支那的なもの〉を排除し、抹消するための差異化である。ところで津田において〈支那〉は差異化を通じて否定されるのではなく、〈支那〉はまったく否定的なものとして前もって差異化されている。
「一体に支那の思想家は、啻に反省と内観とを好まないのみならず、客観的に事物を正しく視ようとつとめることが無い。なお彼等の思惟のしかたを見ると、それは多く連想によって種々の観念を結合することから形成せられ、その言説は比喩を用い古語や故事を引用するのが常であって、それに齟齬と矛盾とがあるのも、相互に無関係な、或は相反する思想が恣に結び合わされているのも、之がためであるが、今人の眼から見てそういう論理的欠陥のあることは、支那の学者には殆ど感知せられていない。」(「支那思想の概観」)
このすでに否定的な支那の言語・文章・思想の受容からなる日本知識人の言語も文章も思想も、それが輸入された、実生活から遊離した借り物であるかぎり、いっそう否定的なものであらざるをえない。ここから近世日本の儒家知識人に対するほとんど全否定的な批評がなされることになるのである。
「支那の書物によってのみ知識を得るものは支那人の考えかたによって考える外は無かったのである。幼時からいわゆる素読によって支那の書を読み習い、長じて後は支那文を書くことをつとめた江戸時代の儒者は、此の点からも支那風の考えかたに慣れ、それより外に出ることができなかったのである。」[7](「支那思想のうけ入れかた」)
こう見てくると日本における知識的形成、思想的営為についてする津田の「支那思想の否定的差異化」という批判的な思想史的作業とはいったい何であるのかが問われてくる。私は前に日本近世儒家の知識・思想についての全否定的な津田の批判によりながら、この批判が導くのは明治維新による〈文革〉的な変革の期待しかないではないかといった。だがその変革への期待は明治国家の形成に恐らくは裏切られ、先へと延ばされてきた。明治の終焉とともに津田は『我が国民思想の研究』という既成の国家の歴史と等身大の批判的「国民思想」史を対置していくのである。「支那的なもの」の徹底的な否定的差異化をもって自立的日本の国民的可能性を思想史的に確証しようとしたのであろう。「それから二十年」と津田は昭和10年という現在をいっている。その時、日本は〈否定的支那〉との戦いの最中にいる。近代国家日本は〈否定的支那〉との差異化を戦争行為として実現しているのである。津田は『支那思想と日本』でこういうのである。
「日本は今、支那に対して行っている大なる活動に向ってあらゆる力を集中している。この活動は、すべての方面に於いて、十分にまた徹底的に行われねばならぬ。そうしてそれが行い得られるのは、上に述べたようにして歴史的に発達して来た日本人に独自な精神と、世界性を有っている現代文化、その根本となっている現代科学、及びそれによって新に養われた精神のはたらきとが、一つに融けあったところから生ずる強い力の故である。」(「まえがき」)
『我が国民思想の研究』を通して〈自立的日本国民〉の成立にかけてきた津田の願いは、いま〈否定的支那〉との全力的な戦いの遂行の中で遂げられるかのようである。ナショナリストとは畢竟国家の夢の、つねに欺かれる夢の担い手であるということか。読みたくはないけれども上の文章を引き継ぐ津田の言葉を引いておこう。
「ところが、この日本の状態と全く反対であるのが今日の支那の現実の姿である。今度の事変こそは、これまでの日本と支那との文化、日本人と支那人との生活が、全く違ったものであり、この二つの民族が全く違った世界の住民であったこと、それと共にまた、日本人に独自な精神と現代文化現代科学及びその精神とが決して相もとるものではないことを、最もよく示すものといわねばならぬ。」
[1] 津田左右吉『支那思想と日本』岩波新書、1938年初版。引用に当たっては漢字・かな表記は現代当用のものにした。ただ「支那」という表記は、その使用自体が歴史的な意味をもつものゆえ、ここではそのままにした。
[2] 津田『文学に現はれた我が国民思想の研究ー平民文学の時代 上』第一篇 平民文学の隆盛時代・第二十章 知識生活 上、津田左右吉全集・別巻四。
[3] 津田『文学に現はれた我が国民思想の研究ー平民文学の時代 中』第一篇 平民文学の停滞時代・第十四章 知識生活一、津田左右吉全集・別巻五。
[4] 〈文化大革命〉について最近刊の『文化大革命ー〈造反有理〉の現代的地平』(石井知章・鈴木賢編著、白水社、2017)で石井氏は、「文化大革命とは、正式には「プロレタリア文化大革命」、略称としては「文革」と称し、1966年5月から1976年10月まで十年間続いた、中国国内における一連の内乱のことを指す」と説明している。
[5] 私の「国家神道」論は2003年7月から2004年4月まで雑誌『現代思想』に連載され、同年7月に『国家と祭祀ー国家神道の現在』として青土社から刊行された。
[6] 明治国家の国家設計にかかわった、あるいは影響を与えた国学者も神道家もいない。
[7] 津田はこの文章の先で「日本語」についてこういっている。「日本語が、単に自分たちの国語であるからというばかりでなく、ことばとしての性質の上に於いて、支那語よりも遙に思索に適し理を説くに適するものであるのに、その日本語を用いるのを卑んだのは、学者たる能力が支那文を書くことによって示されるが如く思われたからであるが、ここにも一つの理由がある。」このことについては後に触れる。
初出:「子安宣邦のブログ・思想史の仕事場からのメッセージ」2017.11.22より許可を得て転載
http://blog.livedoor.jp/nobukuni_koyasu/archives/73744931.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 /www.chikyuza.net/”>http://www.chikyuza.net/
〔study909:171123〕