津田・国民思想論・2  神代史はわが民族の成立史ではない

著者: 子安宣邦 こやすのぶくに : 大阪大学名誉教授
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「我々の祖先は纏まった一国民としての生活を始めない前、随分長い年月の間、民族としての生活を経過して来たのである。」

津田左右吉『我が国民思想の研究ー貴族文学の時代』「序説」

 

1 まず「民族」があった

津田は『文学に現はれたる我が国民思想の研究』の「序説」は、「我々の民族」の存立をいうことから始めていた。この民族の存立が知られるようになったのは、そう古いことではない。前一世紀の頃、中国の漢代の文献に「倭」「倭人」として出てくるのがそれである。津田はこれらを「我々の民族」の存立が世界に知られるようになった最初のことがとするのである。だがこの民族自体はそれ以前に「何時からということが全(ま)るで判らなくなっているほど古い時代から」この列島に生活していたのだと津田はいう。彼は「記紀の神代史は、普通に考えられているように民族の起源や由来などを説いたものではない」とことわった上で、こういっている。

「さて此の民族全体が国民として統一せられたのはずっと後のことで、確かには判らないが大てい所謂四世紀の初め頃、即ちシナの晋代に当る時分であろうから、我々の祖先は纏まった国民としての生活を始めない前、随分長い年月の間、民族としての生活を経過して来たのである。」[1]

ここには私の議論の主題にかかわるいくつかの重要なことがいわれている。民族とはやがて四世紀の初め頃とされている時期に国家の国民として統合される列島の住民たちだということである。津田はこの四世紀の初めの時期を「我が民族の政治的統一が完成せられた時期」といい、また「民族がある時期に於いて我が皇室の下に統一せられた」といったりしていることからすれば、その時期の大和朝廷を構成していく権力による国家的統一と国民的(民族的)統合がいわれているとみなされる。だがこれを日本(やまと)国家と国民の成立と津田はいわない。彼はただ「民族の政治的統一」といい、「皇室の下に統一せられた」という。ここには近代国家日本がそれを〈神話化〉することによって歴史学的議論を遮断していった天皇的国家の起源をめぐる問題がある。われわれが津田の大正5年(1916)の記述から読めることは、まず「我が民族の政治的統一が完成せられた時期」すなわち四世紀の初め頃、大和地方に筑紫地方の勢力をも支配し、統合した強大な政治権力をもった統一的国家が成立したということである。そして津田がその時期を曖昧にしながらも、その統一が「皇室の下」での統一であるということからすれば、この成立がいわれる統一的国家とは天皇的国家(皇室国家)であったことを知るのである。この記述には重大な、津田の思想的、思想史的営為の核心的問題が孕まれている。

津田は「斯ういう民族が或る時期に於いて我が皇室の下に統一せられたのである」と、すでに諸地方に集団をなして存在していた民族がある時期に大和の朝廷的権力によって国民的に統合されたことをいうのである。このことは津田のわが民族と国家をめぐる言説は、危険に満ちたきわめて際どいものであったことを意味している。それとともに天皇的国家(皇室的国家)の国民であることに先立つ、その由来の知られぬ「民族」の存在を津田はいうが、一体この「民族」とは何なのかといった疑問が私に生じる。「国民」であることに先立つ「民族」とは何なのか。津田はこの列島にやがて「国民」となる人種的な、あるいは文化的、習俗的などなどの同一性をもった人間集団が存在することを認めているのだろうか。それともやがて「倭人」と称される日本人種の存在を、津田はあいまいに「民族」といっているだけなのだろうか。

 

2 「国民」に先立つ「民族」

津田は『我が国民思想の研究』で「民族」の語をしきりに使いながら、「民族」とは何かを定義してはいない。津田が「民族」概念をはっきりと定義するのは昭和17年(1942)、「出版法違反事件」控訴審に際して提出された「上申書」[2]においてだとみなされる。この「上申書」の「(一)上代史の概念の変遷」で津田はまず「上代史」を定義している。「ここに上代史と申しますのは、昔から今まで続いている一つの歴史の初期をいうのでありますが、歴史というのは人間の集団生活の閲歴でありまして、この場合に集団生活というのは、一つの民族または一つの国民としてのを指すのが、普通の例であります。」津田がここでしている「上代史」の定義、すなわち日本という「一つの歴史」における初期の段階をいうのだという当然ともいえる定義はきわめて重要である。津田によるこの「上代史」の提示は、『記紀』による「神代史」をわが歴史の初期の段階としては見ないことと相関するものだからである。こう考えれば「上代史」という歴史的概念の津田による明確な提示自体が「出版法違反」事件の核をなす問題だということが理解されるだろう。津田は歴史とは民族もしくは国民の生活の閲歴であるという。したがってわが上代史とは、やがてわが国民となる民族の初期段階における生活の閲歴だということになる。ここで津田ははじめて「民族」の概念を規定するのである。

「また民族と申しますのは、同じ人種に属する民衆が一定の区域の土地を占拠し、長い年月の間、共同の生活をして来た場合に、即ち生活の閲歴が同じである場合に、その年月の経過と共に漸次に、また自然に、形づくられて来た集団というのであります。その集団に属するものは、体質が同じであるのみならず、言語・宗教・生業の状態・風俗・習慣、などが同じであり、従って共通の生活感情・生活意欲をもっているのでありますから、一くちに申しますと、一つの文化のうちに生活しているのであります。」

津田がここで定義している「民族」とは、昭和の知識社会に「ネイション」の翻訳的対応語として成立してくる「民族」という概念である。それは近代国民国家(ネイション・ステート)が自らの実体的基盤として要請する「国民」をなす概念である。間違いなくそれは近代国民=民族国家の概念である。わが上代史の早い時期からその生活の閲歴をこの列島上に記してきた列島住民がこの「民族(ネイション)」であるとはいえない。それゆえ上田正昭は上代史に、しかもその早い段階からこの「民族」の存立をいう津田の誤りを厳しく指摘するのである。

「博士の場合には近代以前すでに「民族」があり、更に「国民」以前に「民族」があったということになっている。近代以前の全歴史過程の中で積み重ねられてきた民族を形成する要素は、博士の場合には、五世紀以前すでに形づくられてきたということになるわけである。」

さらに上田は津田の「民族」観に立てば日本古代に「民族国家=国民国家」の成立を認めることになるといい、そのことから生じる疑問をこうのべている。「しかるに博士の場合には、民族国家=国民国家の成立は、近代にあるのではなく、古代前期にあるという学説となる。言語、地域、文化(特に民族心理)の共通性が近代以前にあったとしても、経済生活の共通性がいわれるように存在したか、甚だ疑わしいし、事実文化の共通性そのものがその当時にあったかどうか、頗る疑問である。」[3]

津田の「民族」概念をめぐる上田の批判や疑問は、昭和17年の津田が「上申書」で定義している「民族」概念が大正期の津田のものでもあるとすれば、上田の批判する通りだろう。だが大正期の津田が「上申書」でいうような「民族」概念をすでに構成していたとは思われない。『我が国民思想の研究ー貴族文学の時代』(大正5年)を書いた当時の津田は「民族」の語を用いても、それはせいぜい人種的、言語的、生活感情的同一性をもった列島の主要住民である倭人(日本人)を「我が民族」といっているにすぎない。ではなぜ「上申書」の「民族」概念があるのだろうか。それは昭和10年代の津田自身によって再構成されたものではないのか。

昭和14年(1939)の年末、東大法学部に出講中の津田は教室で右翼国粋主義者による集中攻撃を受ける。箕田胸喜らは『原理日本』で津田の学説を非難し、12月に津田を不敬罪で告発する。15年1月、津田は早大教授を辞職する。同年2月に『古事記及び日本書紀の新研究』(1919)、『神代史の研究』(1824)、『古事記及日本書紀の研究』(1924)、『日本上代史研究』(1930)、『上代日本の社会及び思想』(1933)が発売禁止の処分を受ける。同年3月に津田と岩波書店の岩波茂雄が出版法違反の罪名で起訴される。あの「上申書」における「民族」概念の定義あるいは再定義は、昭和10年代の津田をめぐるこうした政治・司法的事態の経過のなかでなされたものである。とすればわれわれがあの「上申書」に学説的正当性についての学術的釈明以上のものを見るのは当然だといえるだろう。私はこの「上申書」における「民族」概念を全体主義的昭和の大戦前夜というべき時期において修正され、構成し直されたものだと見るのである。

問題とされる事柄は『我が国民思想の研究ー貴族文学の時代』の「序説」で、「斯ういう民族が或る時期に於いて我が皇室の下に統一せられたのである」という文章にかかわる問題である。「斯ういう民族」が「皇室の下に統一」されて「国民」になるまでに長い生活過程を列島上で経過してきたといっているのである。この「民族」という列島住民が「国民」になった時とは、「国家」の成立の時ではないのか。津田はこれを「皇室の下に統一」せられたといい、天皇的国家(皇室国家)の成立をいうことは決してしない。津田は、戦後のわれわれには当たり前である古代史、すなわち古代列島上にまずあったのは列島住民とその生活であり、国家ではないことをいおうとしているのだろうか。「斯ういう民族が或る時期に於いて我が皇室の下に統一せられたのである」という津田の言葉は、神話的起源を背負った明治の国民国家の成立に逆らう日本古代史像の提示であるように私には思われる。しかも津田が「斯ういう民族」とは、自ら「国民」となりうるような自覚も、資質もなく、ただ生活を楽しむだけの消極的な住民にすぎないのである。津田は上代民族の宗教心などをのべながら、「陰暗な宗教心は底の方に存在しているものの、快活な日常生活はそれがためにひどく調子を乱されるようなことが無く、凡ての国民は概して楽観的な気分を有っていたのである」といっている。さらに津田はこの楽観性の半面である低調で、微温的で、消極的な上代民族のネガティブな思想・気風を執拗ともいえる書き方で記していく。

「しかし楽観的な快活な気分が養われた代わりに、安易な生活をするものの常として、得難いものを得ようとする希求の念が弱く、従って強い意志が無く、奮勉努力の精神、冒険的の気象、などに養われなかった、満足はしつつも人生其のものに対して深い執着が無く、飽くまでも人生の歓楽を領略しようとする情熱に乏しい、我を忘れて踊り狂う調子も無い、すべてが軽快で、うわすべりがしていて、低調で、微温的である。争闘と苦痛と不安との間から生まれる反省沈思の念はいうまでも無く生じない。それが我が上代人の有っていた楽観思想の半面である。」[4]

あたかも眼前にする自国民同胞の意気地の無い気風を慨嘆するかのような大正5年の津田による〈わが上代民族〉についての否定的叙述はわれわれを驚かせる。彼はこの列島における国民に先立つ民族の存立をいいながら、その民族をほとんど否定的にしか叙述していない。とすると民族が歴史的に国民に先立つことをいう津田の言説とは何を意味するものなのか。この問いに答える前に、〈わが上代民族〉に津田が与える否定的叙述をもう一つ引いておきたい。

「外部の関係からいうと、異民族に対する競争に刺激せられて我々の民族が政治的に統一せられるというような事情はまず無かったといってよかろう。政治的にはいうまでもなく、経済的にも異民族に対する実際の交渉が極めて少ないから、それがために民族全体を興奮させるような問題が起らない。従って異民族に対する民族的自覚も起らず、強い民族神は生まれない。宗教としても異民族に対して我々の民族生活を保護する国民的の神が発生しない。従って祭礼などにも全民族を通じて行われるものは無い。」「商業が進歩しないために市府も起らず、戦争が少ないために城郭も発達しないので、民衆の間に公共生活の習慣が養われず、従って公共精神が発達しなかった。地方の小君主も其の領土の農民から租税を徴収するだけのもので、それ以上に君主と農民との関係も無かったのであろう。さて更に大きい公共生活、即ち民族全体として統一せられた生活が無く民族精神が発達しなかったことは、既に前に述べたところである。」

異民族との抗争的な関係に立つことのなかった〈わが上代民族〉における民族の統一性と民族精神の欠如をいうこの津田の文章を読むと、前回に引いた山路愛山が明治36年にいう「余は如何にして帝国主義者たるか」の言説を思わざるをえない。〈国民的結集の手段としての帝国主義〉をいう愛山と同質の民族主義(ナショナリズム)が津田に〈わが上代民族〉における「民族的統一性」と「民族精神」の欠如を歎かせているように私には思われるのである。

大正5年の『我が国民思想の研究』の「序説」における〈わが上代民族〉をめぐる叙述をここまで辿ってきてやっと私は津田の「民族」概念をめぐる最初の問題に立ちもどることができる。昭和17年の「上申書」における「民族」概念の再構成の問題である。

 

3 「民族国家」概念の読み入れ

津田は「出版法違反」事件の控訴審「上申書」で「民族」概念をはっきりと定義した。そこに明らかにされた「民族」とは近代国民国家の「民族(ネイション)」概念であった。前に触れたように上田正昭は津田の「民族」概念を近代国民国家=民族国家のものであることを指摘しながら、この概念をもって古代国家の成立をいう間違いをいっている。すなわち「しかるに博士の場合には、民族国家=国民国家の成立は、近代にあるのではなくて、古代国家にあるという学説になる」と。この上田の指摘に対して私は、津田の「上申書」における「民族」概念は大正期の津田のものではなく、昭和10年代の津田によって修正的に再定義されたものだといった。この再定義を通じて津田はわが古代国家の成立を〈わが民族国家〉の成立としてとらえ直したのである。それは古代国家の成立をあたかも近代民族国家の成立と見る歴史観の間違いではなく、日本における国家の成立を日本民族国家の成立として見るのが津田の歴史観であるのだ。だから「上申書」における「民族」概念の再定義とは、日本古代国家の成立を日本民族国家の成立として再定義し、再構成していくことでもあるのである。

津田は戦時期における「出版法違反」事件を思想弾圧事件とする見方を戦後に否定している。戦後昭和27年に津田は取材した大久保利謙に、自分が官憲の弾圧を受けたようにいうのは誤解であるといっている。「あの事件は今日、はなはだ誤解されている。世間でいうような官憲の弾圧を受けたではなかった。裁判所では学問の性質と研究法と、問題とせられたことがらについて、できるだけていねいに説明したので、自分としては教師が学生に説明するような気持ちでいた。」[5]だから津田は「上申書」における「民族」概念の再定義も事件が余儀なくさせた自説の修正とはみなしていない。だが津田の主観的意識においてこの事件が思想弾圧事件ではなく、自説の修正を余儀なくされることはなかったとしても、大正の津田の上代史は新たな「民族」概念をもって、あるいは「民族国家」観をもって書き換えられたのである。彼は近代の「国民国家=民族国家」概念をわが古代国家創成過程に読み入れる形で書き換えたのである。

津田のこの書き換えは、その書名から「我が」を削った『国民思想の研究』の改訂[6]としてなされていった。もっとも大きく書き換えられたのは、第一巻のわれわれがいま問題にしている「序説・第一章 上代国民生活の瞥見」である。この戦後改訂版「序説」には、戦前初版「序説」に見る〈わが上代民族〉のきわめてネガティブな思想・気風の叙述はない。さらにこのネガティブな生活態度をもつ民族(斯ういう民族)が「或る時期に於いて我が皇室の下に統一せられたのである」という大和朝廷的国家とその国民の弱々しい成立をめぐる叙述もない。その代わりに皇室による統一的民族国家の安定的な成立が語られていくのである。津田は「ただ始めてわれわれの知識に入って来る時代に於いてこの群島に占拠していたわれわれの祖先は、遠い昔からの歴史の結果として、言語風俗習慣を同じくする一つの民族として成り立っていて、民族としてのその生活が全く安定していた」と種族的同一性をもった民族の列島における存在をいった上で、この民族をその権威の下に収めた大和朝廷的国家の成立をいうのである。戦後改訂版における大和朝廷的国家の成立についての「民族国家」概念の読み入れ的修正を注意深く読んでいただきたい。

「こういうわれわれの民族が遠い昔に於いて政治的に如何なる状態にあったかは確かに知るよしも無いが、前一世紀のころに於いては、それぞれに君主を戴く多くの小国家が形づくられていたことは判るので、それはその時代よりもかなり前からの状態が継承せられていたものであろう。この多くの小国家のうちの、今の大和の地域を中心とする一国が、次第にその他の多くの小国家を服属させ、漸次その勢力を大きくさせていって、終に全民族をその権威の下に収めたのが、統一国家の形成であって、その大和の君主の家が統一国家の首長としての皇室となられたのである。国家の統一は民族の内部に発生した事件であり、皇室は民族内部に於ける存在であるので、ここに国民と民族とは同義語として用い得られる民族国家としてのわれわれの国家の特性がある。」[7]

「斯ういう民族が或る時期に於いて我が皇室の下に統一せられたのである」という大正5年の『我が国民思想の研究』の言葉がもつ、先立つ「民族」と遅れて成立する「皇室国家」という時間的先後の関係性、しかも内的な結びつきを欠いた両者の関係性をめぐる印象は、「国家の統一は民族の内部に発生した事件であり、皇室は民族内部に於ける存在である」ことをいうことで除き去ることができたようにみえる。津田自身もここに「皇室的民族国家日本」の成立は明確にされたと信じたであろう。だがはたしてそうか。津田による「民族」と「民族国家」概念の上代史への読み入れは、「民族」を「国家・国民」に先立てる津田の上代史観を改めさせたのか。

 

4 「国史」は「神代史」をもつ

津田の〈わが上代史〉は〈わが民族〉を〈わが国家・国民〉に先立てる。列島上にまず見出されるのは〈わが民族〉とその生活である。〈われわれ日本人〉が〈われわれ日本国民〉あるいは〈わが日本国家〉に先立つのである。近代の「民族国家」概念によって「民族」概念を再構成し、それをもって書き換えた改訂版『国民思想の研究』の上代史の記述においてもそのことに変わりはない。「皇室的民族国家」の成立をいう上に引いた文章でも、まず「民族」があり、その中に「皇室」もまたあるというように「民族」に与えられた列島における優先性に変わりはない。「我々の祖先は纏まった一国民としての生活を始めない前、随分長い年月の間、民族としての生活を経過して来たのである」という大正の津田上代史が発するメッセージは、基本的に昭和の津田上代史の発するメッセージでもあるのだ。「民族」が「国民・国家」よりも先にあるという津田上代史の発するメッセージは何を意味するものなのか。

われわれは長く「国史」という国家的歴史学の支配の中にあった。いま私は過去形でいったが、たしかに「国史」は学問・教育制度としてはてほぼ終わりを告げたようである。だが「国史」というイデオロギーは終熄したわけでは決してない。それはなお現在の安倍政権を支配しつづけているのである。現政権ももちつづける「国史」というイデオロギーとは何なのか。

「国史」は国家の創成から語り始める。国家の創成を最初に書き記していったのは『古事記』『日本書紀』である。「国史」は『記紀』によらずして国家の創成を語ることはできない。もちろん『記紀』が記るすのは、津田の用語をもっていえばこの「皇室」国家日本の創成の物語である。だが『日本書紀』はこの国家創成の時代を「神代」とし、『古事記』も「神の世」(上巻)として「人の世」(中・下巻)と区別した。『記紀』が伝えるのは神々による国家・国土創成の物語、すなわち「国家創成神話」である。これは史実ではない。だが「国史」は『記紀』を措いてわが国家の創成を語ることはできない。津田と同時代の東大国史学科の教授であった黒板勝美[8]は『国史の研究』で持って回ったいい方ながら神代史がなお重要な意義をもつことをいっている。

「神武天皇以後に於いてのみ史的事象が抜き出されるならば、或は神代と人皇の御代とに、史前時代と有史時代との分界を発見し得るかも知れないけれど、神話伝説の研究が次第に進んで来た今日に於いても、寧ろこれを否定するに傾かざるを得ないのである。而かもこれらの神話伝説の中から、もし我が肇国に関する事柄を朧気ながらも之を知ることが出来るならば、我々は国史の出発点を所謂神代まで溯らしめ得るのであって、神代史の研究がまた重要なる意義を占むることになるであらう。」[9]

かくて「神代史」は「国史」の時代区分における最初の時代となる。「我が国の如何にして肇造せられたかを考察するとき、この神代の研究は意義を有するのみならず、国民思想の淵源するところまた遠くこの時代に溯るべきが故に国史の発端として先づここに一時代とする。」[10]すでに「神代史」を「国史」の発端とする黒板に天照大神についての次のような言葉が当然あることになる。「古来皇室に於かせられて御祖先たる神として歴朝特に崇敬を加へ奉祀したまふ天照大神こそ肇国の御方であらせられ、ここに国史を始むべきではあるまいか。」[11]国体論的イデオロギーを振りかざすことのない黒板国史学も「皇室国家」の「国史」であるかぎり、「皇室」の祖先神天照大神を「国史」の始めとするのである。「国史」は歴史の始まりにまず天照大神があるとするのである。黒板のこの『更訂国史の研究』は戦後昭和22年に第十二刷目が版行されている。「神代史」を「皇室国家」創成の時代としてもつ『国史の研究』は、戦後世界になお流通する史学的著述であったのだ。

 

5 「民族」をいう始まり

大正5年(1916)の津田は『文学に現はれたる我が国民思想の研究ー貴族文学の時代』の「序説・第一章 上代国民生活の瞥見」の最初の一行を「東海の波の上に我々の民族が住んでいる」と書き始めた。「東海の波の上に我々の民族が住んでいるということのやや広く世界に知られたのは割合に新しい時代のことであって、文献に見える限りでは普通に前一世紀といわれる時代、即ちシナの漢代が始めである。」この「民族」をいうことから始まる津田の『我が国民思想』の記述は、私の思想史講座の二回の主題をなすほどに解き難い問題を私に与えた。

まず私は日本における「民族」概念の成立の問題から考えていった。私は社会的言説を構成するような「民族」概念の成立は、明治30年代の日露戦争をはさんだ時期であろうと推定した。それは日本が帝国主義的国家として成立する時期である。したがってこの「民族」という語には帝国主義時代日本のナショナリズムが染みこんでいる。津田のいう「民族」もまたこのナショナリズムを免れない。だがこの「民族」概念をめぐる私の最初の考察は、津田が「民族」をいう20世紀日本の言説状況を明らかにしても、津田上代史の言説がなぜ「民族」を「国民」に先立てていうのかを明らかにはしない。それは津田が『我が国民思想』で「斯ういう民族が或る時期に於いて我が皇室の下に統一せられたのである」という言葉が投げかける問題である。私は今回、もっぱらこの言葉が投じる問題をめぐって考えてきたのである。

津田がいう「民族」とは日本人としての同一性を長い時間経過の中で備えていった〈日本人という種族〉である。その「民族」が先にあり、それが後に〈皇室的国家〉に統合されて「国民」になると津田はいっているのである。これは明治維新による近代天皇制的国民国家・国民の成立の話としては通用しても、古代の創成期日本の話としては通用しない。あるいは津田は近代の天皇制的国民国家の創設過程を古代の皇室的国民国家の創設過程に投影したのかもしれない。これはかりそめの推定ではない。あの「上申書」における近代民族=国民国家の「民族」概念の津田による再構成を見れば、それはありうる推定である。だがそれをありうる推定だとしても、東海の列島上の古代において「民族」が「国家・国民」の先にあることをいう津田上代史の言説は歴史的にも政治的にもきわめて危ういものである。それゆえ昭和戦時期の司法事件の過程で津田は上代史における「民族・国家・国民」の成立を近代の民族=国民国家観をもって語り直そうとしたのである。だがこの民族=国民国家観をもって戦後更訂された『国民思想の研究』を見ても、津田上代史における「民族」の優先性には変わりはないのである。「まず民族がある」とは彼の歴史観の根底をなす思想であるように思われる。それを民族主義といえば、この民族主義とは何かを明かにすることが津田論の課題であるだろう。

「まず民族がある」とは何に対して主張されるのか。それはすでに見たように近代日本のアカデミズムに形成される「国史」という近代日本国家の正統的歴史言説に対してである。「国家」の創成を語り始めとする「国史」は日本の国家創成神話からなる『記紀』の「神代史」を「国史」黎明の時代史としてもつことになる。「国家」の創成から語り始める「国史」は「神代史」を不可避とする。津田はこの「神代史」を「作り物語」とするのである。この津田の「神代史」観をめぐってはすでに私は論じているが[12]、もう一度ここで振りかえって見ておきたい。

津田はいう、「神代史は其の間にいくらか歴史的事実の反映が含まれているにしても、其の全体の結構が空想から成り立っているのである云々」「さて、神代の巻が作り物語であるとすると、其の作られた時代が問題になる云々」と。では「神代史」が作られた物語だとするなら、それはいつ、だれによって、どのような理由から作られたと津田はいうのか。「シナの学問が入って来て、皇室の周囲にいる貴族の智識が特殊の進歩をした。政治上の必要から皇室の由来を説くために神代史の作られることになったのは、恰も此の時であったのである。そこで、宮廷にいる神代史の作者は祖先神の観念を基礎とし、いくらか祖先の行為の伝説を材料として、其の神の時代、即ち神代を作り、そこに皇祖神と諸家の祖先神とを活動させた。」[13]

『記紀』の「神代史」が仮構の産物であることは二重の意味でいわれている。それが宮廷貴族・官人による作り物語であることによって。さらにその物語を構成し、表記する言語文字・観念思想が中国からの借り物であることによって。かくて『記紀』の「神代史」には「我々の民族」の痕跡はないとされるのである。「記紀の上代の物語は我々の民族の上代史では無い。もっと一般的にいうと、記紀は民族の起源や由来を説いたものでは無い、ということがわかるのである。」[14]

かくて津田は〈わが上代史〉を「我々の民族」の存立から始めるのである。「民族」を歴史的に「国家・国民」に先立てていう津田の歴史的言説の立場を私は「もう一つの民族主義」というのである。

 

[1] 津田『文学に現はれたる我が国民思想の研究ー貴族文学の時代』「序説」『津田左右吉全集』別巻第二、岩波文庫版(一)。津田の著述からの引用にあたっては漢字、かな遣いを当用のものに改めている。また「支那」は「シナ」に改めた。

[2] 「上申書(昭和十七年、控訴院に提出)」『津田全集』第24巻所収。

[3] 上田正昭「津田史学の本質と課題」、上田編『人と思想・津田左右吉』所収、三一書房、1974。

[4] 津田『文学に現はれたる我が国民思想の研究ー貴族文学の時代』「序論・第一章 上代国民思想の瞥見」大正5年初版本。全集・別巻二。

[5] 大久保利謙「津田左右吉《明治ナショナリズムの残映》」上田編『人と思想・津田左右吉』所収。

[6] 戦後改訂版『国民思想の研究』の第一巻「貴族文学の時代」は昭和26年(1951)6月に、第二巻「武士文学の時代」は昭和28年1月に、第三巻「平民文学の時代上」は同年10月に、第四巻「平民文学の時代 中」は昭和30年1月に出版された。第五巻「平民文学の時代 下」は刊行されなかった。津田は昭和36年(1961)に死去する。89歳であった。

[7] 津田『文学に現はれたる国民思想の研究 一』「序論・第一章 上代国民生活の瞥見」、『津田全集』第四巻。引用文中の傍点は子安。津田

[8] 黒板勝美は明治7年(1874)生、昭和21年(1946)没。東京帝国大学教授(大正8年〜昭和10年)。専門は日本古代史、日本古文書学。古文書学、史料編纂上の業績が評価されている。著書『国史の研究』は初め文会堂書店から明治41年(1908)に出版された。その全面的な書き直しからなる『更訂国史の研究』全三巻が岩波書店から昭和6年〜11年に刊行された。この『更訂国史の研究』は戦後22、3年に再版された。私のもつ第一巻「総説」の後付けには「昭和二十二年十一月二十日 第十二刷発行」とある。戦後にも流通した「国史概説」であった。

[9] 黒板『更訂国史の研究』各説 上・第一章 神代。

[10] 黒板『更訂国史の研究』総説・第四章 時代史と特別史。

[11] 黒板『更訂国史の研究』総説・第五章 国史の範囲。

[12] 子安「「神代史」は「作り物語」であるー津田左右吉『神代史の研究』を読む」『「大正」を読み直す』所収、藤原書店、2016。

[13] 津田『神代史の新しい研究』大正2・1913年。『津田全集』別巻第一。

[14] 津田『古事記及び日本書紀の新研究』大正8・1919年。『津田全集』別巻第一。

初出:「子安宣邦のブログ・思想の仕事場からのメッセージ」2016.11.21より許可を得て転載

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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study785:161122〕